第十四話 降り積もる寂しさ
春樹の家には前にも来たことがあった。あれは高二の夏休みで、部活が終わった勢いで、部員みんなで押しかけたのだ。
玄関を開けると長い廊下があって、それが家の外周に沿って続いている。廊下の片側は大きな窓で、外の光がいくらでも射しこんだ。だからわたしの記憶の中で、春樹の家はあふれそうなほど明るい光に満ちていた。
「みんな、ペリエでいい?」
春樹は、青い硝子のコップにペリエをついで全員に出してくれた。ペリエは青く染まったのに、透明感が増した気がした。泡が浮かぶ深海みたいだった。
春樹の家にいるせいで、わたしの頭の中はふわふわととりとめがなかった。みんなの話声が、幻聴のように頭の中を巡っていく。だから春樹と友也の会話も、カーテンの向こうから聞こえたようにぼんやりとしていた。それは、眠りにつく前の子守唄に似ていた。
『友也。ペリエの瓶を描くならお前にやるよ。いま、台所にたくさん転がってる』
『ふうん。ペリエの瓶がたくさん転がってる、豪邸『中野家』の台所なら描きたいけどね』
『そんなの描いてどうするんだよ』
『案外そういうところに美があるんじゃないかな。ま、とにかく、瓶は部室に持って行こう。新入生のデッサン練習用になる』
『しっかりしてるな、友也は。こういうのを『女子力が高い』って言うんだろ?』
『それ、ほめてるつもりなのか?ちっともうれしくないんだけど』
わたしは、今でも時々この会話を思い出す。なんということもない会話なのに、暖かくてやさしい、あの日の陽だまりをつれてくる。わたしはそんな陽だまりの中でうとうととまどろんで、そのまま心地よい夢を見ていたかった。でもそれは、きっと贅沢な望みだった。
わたしは春樹に手を引かれながら、長い廊下を歩いていた。あの日、光に満ちていたこの場所は、闇に閉ざされた迷路のようだった。
それでも、時々雲が切れるのだろう、外から月の光が差し込んだ。その時だけ、隣を歩く春樹の姿が浮かんだ。現れては消える春樹は、あやうい、壊れもののようだった。
「着いたよ」
廊下の突き当りまで来て、春樹はドアを開けた。その瞬間、油絵の具のにおいが強く香った。美術室と同じ香りだが、もっと濃密でもっと甘い。わたしはくらくらとめまいがした。
「入って」
春樹はわたしの背中を押した。わたしはためらいながら中に足を踏み入れた。
部屋の明かりは消されていた。
ベッドサイドの小さな灯りだけはついていたが、そこから放たれているのはあまりににもささやかな光だった。その光は、ほんのわずかな場所に色を与えるのが精一杯だ。だから少し離れた所には、濃い灰色の影がたゆたっている。
「電気、つけるね」
わたしは壁に手を這わせて電気のスイッチを探した。でも、その手を春樹がつかんだ。
「……明るくしないで。絵を描く僕の顔を…見られたくないんだ……」
今春樹は、狂気の中にいるのだろうか。それともいくらか正気に戻っているのか。わたしは春樹の顔を見上げたが、暗闇がその表情を消していた。
「……麻奈。こっちに来て」
春樹はわたしを、ベッドの上に座らせた。ベッドサイドの光がわたしに注いで、わたしは思わず目を細めた。
「少し…明るすぎる?」
春樹は枕元に手を伸ばしてダイヤルを回した。灯りの強さは徐々に落ち、わたしの目の前に春樹の顔が浮かび上がった。わたしは春樹を見つめ、春樹もわたしを見た。
「……僕の顔を見られたくないって……そう言わなかった……?」
「だって……見たいよ……」
二人を包み込む薄暗さがわたしを大胆にしていた。春樹はかすかに目を見開いて、それから自嘲するように笑った。
「そっか……。僕が怖くないんだ……」
「怖くないよ。怖いなんて、思ったことないから」
春樹は目を伏せ、それからもう一度わたしを見た。その表情は、さっきまでとは違っていた。苦悶するような、それでいて何かにうっとりと溺れているような顔だった。
「ねえ……描きたいよ、麻奈。紙に描く前に、いま、ここで……」
わたしはゆっくりとうなずいた。
春樹の手が持ち上がり、人差し指がまっすぐに伸びた。その指がゆっくりとわたしの輪郭をなぞって行く。触れられてもいないのに、春樹の指先を感じた。春樹がたどる軌跡に合わせ、肌がぴりぴりと熱くなっていく。
突然、わたしの心臓がどくんと音を立てた。わたしの胸の奥底から何かが浮かび上がってくるのがわかった。引かれて行く。外へ、外へ……。
苦痛の中で、いつの間にかわたしには、春樹の中にある暗い闇が見えるようになっていた。その闇が、わたしの奥底にあるものを渇望していた。そんなに欲しいのなら、あげてもいい。でもそれでは、ますます春樹を苦しめる。
「……だめ…よ……」
わたしは春樹に……春樹の闇に手を伸ばした。それを消すことができたら、きっと春樹は……。
「あ……」
指先がびりびりとしびれ、一瞬ではじき返された。でも、わたしよりも春樹のほうが衝撃を受けていた。
「あああっ」
春樹は絶叫して、頭を抱える。それと同時に春樹の闇が乱れ、広がっていくのが見えた。
「春樹!」
春樹は両手で頭を押さえたまま、苦しそうに声を上げた。
「……麻奈……麻奈……このままだと僕は……麻奈を殺してしまう……」
春樹が突然、部屋の奥に向かって走り出した。春樹は視界から消え、彼がたてているのであろう物音だけが聞こえた。
―いま引き出しを開けた……中をかき回してる……何を探してるの……?
わたしはベッドサイドに手を伸ばし、灯りのダイヤルをつかんだ。でたらめに回すと、灯りが少しだけ強くなる。でもそれは、春樹の背中に届くのがやっとだった。細い背中が揺れ、灰色の影も揺れた。きっと、彼が抱えている暗闇も揺れている。
「……あった……」
春樹は戻ってくると、わたしの前に立った。その手に持っている細身のナイフは、仄かな光を反射してかすかに光った。
「春樹……それ……なにをするつもり?」
「もっと早くこうするべきだったんだ。せめて美月さんを殺してしまう前に……」
春樹が自分に向けてナイフを振り上げる。わたしは飛び出していって、春樹にしがみついた。
「やめて。お願い、春樹……」
「麻奈、どうして止めるの……僕は君を殺そうとしてるんだよ……僕は早くいなくなった方がいいに決まってる」
「わたしは……春樹を助けるためにここに来たのに……春樹がこんなことしたら、意味がないよ……」
春樹の動きが止まった。春樹は突然振り返って、わたしの顔を正面から見つめた。
「……だったら……僕と一緒に死んでくれる……?」
「……春…樹……?」
「ずっと、ずっと寂しかった。大事な人を失うたびに、寂しさが雪みたいに降り積もって……冷たくて、冷たくて……。僕はただ、愛する人のぬくもりが欲しかっただけだよ。なのに貪欲なこの手が命ごと奪ってしまう……。ねえ、麻奈。その温かい手で握ったナイフを、僕に刺してよ。……それから一緒に……遠くに行こう……」
体の中で、たくさんの甘い果実がはじけていくようだった。わたしはその甘さを抱きしめながら、春樹の苦しみを思った。
誰だって、愛する人に対しては貪欲だ。でも、相手の全部を自分のものにすることなどできはしない。なのに春樹にはそれができた。卓越した絵の技量が、春樹に力を与えてしまった。それは、なんという不幸だろう。
わたしは何も言えずにただ唇を震わせる。そんなわたしに焦れたのか、春樹は手を伸ばして、握り締めたままでいるわたしの掌を開こうとした。
「ほら、ナイフを持って。しっかり持たなきゃ、僕は刺せないよ……」
「だめだよ、そんなこと……できない……」
わたしは必死になって腕を振った。春樹がわたしに持たせようとしたナイフは、弾き飛ばされて部屋の端に飛んだ。
「麻奈……お願いだからちゃんと持って……ああ、ナイフはもう一本必要だね。……僕が持つナイフが……」
春樹はナイフを拾いに行き、もう一度引き出しをかき回している。
わたしは、春樹の言葉に身をゆだねてしまいそうな自分を感じた。
『春樹と一緒に死ぬ』というのは、なんと甘い誘惑だろう。春樹と一緒に逝くのは、世の中の美しい人たちではなく、このわたしだ……。
しかしそれは、本当に馬鹿げた幻想だった。たとえ一緒に死ぬためであっても、わたしは春樹に向かってナイフを向けたりできない。春樹を傷つける?このわたしが?そんなこと、絶対に無理だ。
絶望に支配され始めた時、ベッドの脇に置いていたバッグから、突然音楽が鳴り始めた。
―電話……。
わたしは手を伸ばした。でも、戻ってきた春樹がバッグを奪う方が早かった。気付いた時にはもう、わたしのスマホは春樹の手の中にあった。
「春樹、やめて。それはわたしのよ」
「……友也か……」
春樹は画面を見つめ、つぶやくようにそう言った。
「友也……お前は……僕の邪魔をするつもりなんだ……」
「春樹、なに言ってるの。友也だって春樹のことを心配してる」
わたしは手を伸ばしたが、指先は宙をかいた。わたしの頭上で、春樹は画面に指を向けていた。
『麻奈。もう、家に帰りついた?』
春樹はスピーカーのボタンを押したのだろう。友也の優しい声は、麻奈にもはっきりと聞こえた。
『連絡がなかったから心配したよ』
わたしは口を開こうとした。でも答えたのは春樹の方だった。
「麻奈はまだ帰りついてないよ。僕の部屋にいるから」
『……えっ……』
電話の向こうから、友也の戸惑いや動揺が伝わってきた。その青ざめた表情さえ目に見えるようだった。
「春樹、それ返して」
わたしの叫びを春樹は無視した。
『春樹。麻奈を自分の部屋に連れてきて、お前は何をしようとしてるんだ』
「麻奈の絵を描こうと思った。……無理やりつれてきたわけじゃないよ。僕が頼んだら、うんと言ってくれた。麻奈は優しいから……」
『お前……いま自分が絵を描いたらどうなるか、わかってるんだろ。なのに……。麻奈の優しさに、どれだけ甘えるつもりだ』
友也の怒りを含んだ声は、スマホをびりびりと振るわせる。春樹はわずかに眉を寄せた。
「大丈夫だよ。……もう、絵は描かない……」
『本当か』
「ああ。僕は……麻奈と一緒に……死ぬから……」
『春樹……いま……なんて言った……』
「麻奈と一緒に死ぬんだ。お互いにナイフで刺し違える。……ねえ、いい考えだろ」
『……だめだ……春樹……』
友也の声がかすれていく。
『頼む……やめてくれ……麻奈を……殺さないで……』
わたしは、頭上にあるスマホに向かって叫んだ。
「友也!春樹はちょっとおかしくなってるだけ。わたしが何とか止めるから……だから……」
『こんな時まで春樹をかばうのか!!』
突然、友也の怒声が響いた。わたしは思わず身をすくませた。
『どうして『助けて』って言ってくれないんだ。僕はいつでも麻奈を守りたいと思ってる。麻奈の気持ちがどこに向かっていても、それは変わらないんだ。……言ってくれよ、『助けて』って……。僕が……守るから……』
「……ありがとう……友也……助けて……くれる?」
『わかった』
体中から力が抜けていくようだった。わたしはそのまま座り込み、床の上に手をついた。
『春樹』
友也が、今度は春樹の名前を呼ぶ。春樹は手に持ったスマホをじっと見つめた。
「お前も麻奈とおんなじだよ。どうして『助けて』って言わない?僕は非力だけど、お前を助けるのに、ためらったりしない」
春樹はぎゅっと両目を閉じた。その目じりから、涙が一筋流れ落ちるのがわかった。
「……そっか……そうだよね。……お前はそういう奴だった……でも、もう遅いんだ……」
『春樹!そのままじっとしてろ。今すぐそっちに……』
春樹は電話を切った。突然、痛いほどの静寂が部屋を満たしていった。




