表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/15

第十四話  降り積もる寂しさ

 春樹の家には前にも来たことがあった。あれは高二の夏休みで、部活が終わった勢いで、部員みんなで押しかけたのだ。

 玄関を開けると長い廊下があって、それが家の外周に沿って続いている。廊下の片側は大きな窓で、外の光がいくらでも射しこんだ。だからわたしの記憶の中で、春樹の家はあふれそうなほど明るい光に満ちていた。

「みんな、ペリエでいい?」

 春樹は、青い硝子のコップにペリエをついで全員に出してくれた。ペリエは青く染まったのに、透明感が増した気がした。泡が浮かぶ深海みたいだった。

 春樹の家にいるせいで、わたしの頭の中はふわふわととりとめがなかった。みんなの話声が、幻聴のように頭の中を巡っていく。だから春樹と友也の会話も、カーテンの向こうから聞こえたようにぼんやりとしていた。それは、眠りにつく前の子守唄に似ていた。


『友也。ペリエの瓶を描くならお前にやるよ。いま、台所にたくさん転がってる』

『ふうん。ペリエの瓶がたくさん転がってる、豪邸『中野家』の台所なら描きたいけどね』

『そんなの描いてどうするんだよ』

『案外そういうところに美があるんじゃないかな。ま、とにかく、瓶は部室に持って行こう。新入生のデッサン練習用になる』

『しっかりしてるな、友也は。こういうのを『女子力が高い』って言うんだろ?』

『それ、ほめてるつもりなのか?ちっともうれしくないんだけど』


 わたしは、今でも時々この会話を思い出す。なんということもない会話なのに、暖かくてやさしい、あの日の陽だまりをつれてくる。わたしはそんな陽だまりの中でうとうととまどろんで、そのまま心地よい夢を見ていたかった。でもそれは、きっと贅沢な望みだった。



 わたしは春樹に手を引かれながら、長い廊下を歩いていた。あの日、光に満ちていたこの場所は、闇に閉ざされた迷路のようだった。

 それでも、時々雲が切れるのだろう、外から月の光が差し込んだ。その時だけ、隣を歩く春樹の姿が浮かんだ。現れては消える春樹は、あやうい、壊れもののようだった。

「着いたよ」

 廊下の突き当りまで来て、春樹はドアを開けた。その瞬間、油絵の具のにおいが強く香った。美術室と同じ香りだが、もっと濃密でもっと甘い。わたしはくらくらとめまいがした。

「入って」

 春樹はわたしの背中を押した。わたしはためらいながら中に足を踏み入れた。


 部屋の明かりは消されていた。

ベッドサイドの小さな灯りだけはついていたが、そこから放たれているのはあまりににもささやかな光だった。その光は、ほんのわずかな場所に色を与えるのが精一杯だ。だから少し離れた所には、濃い灰色の影がたゆたっている。

「電気、つけるね」

 わたしは壁に手を這わせて電気のスイッチを探した。でも、その手を春樹がつかんだ。

「……明るくしないで。絵を描く僕の顔を…見られたくないんだ……」

 今春樹は、狂気の中にいるのだろうか。それともいくらか正気に戻っているのか。わたしは春樹の顔を見上げたが、暗闇がその表情を消していた。

「……麻奈。こっちに来て」

 春樹はわたしを、ベッドの上に座らせた。ベッドサイドの光がわたしに注いで、わたしは思わず目を細めた。

「少し…明るすぎる?」

 春樹は枕元に手を伸ばしてダイヤルを回した。灯りの強さは徐々に落ち、わたしの目の前に春樹の顔が浮かび上がった。わたしは春樹を見つめ、春樹もわたしを見た。

「……僕の顔を見られたくないって……そう言わなかった……?」

「だって……見たいよ……」

 二人を包み込む薄暗さがわたしを大胆にしていた。春樹はかすかに目を見開いて、それから自嘲するように笑った。

「そっか……。僕が怖くないんだ……」

「怖くないよ。怖いなんて、思ったことないから」

 春樹は目を伏せ、それからもう一度わたしを見た。その表情は、さっきまでとは違っていた。苦悶するような、それでいて何かにうっとりと溺れているような顔だった。

「ねえ……描きたいよ、麻奈。紙に描く前に、いま、ここで……」

 わたしはゆっくりとうなずいた。

春樹の手が持ち上がり、人差し指がまっすぐに伸びた。その指がゆっくりとわたしの輪郭をなぞって行く。触れられてもいないのに、春樹の指先を感じた。春樹がたどる軌跡に合わせ、肌がぴりぴりと熱くなっていく。

突然、わたしの心臓がどくんと音を立てた。わたしの胸の奥底から何かが浮かび上がってくるのがわかった。引かれて行く。外へ、外へ……。

 苦痛の中で、いつの間にかわたしには、春樹の中にある暗い闇が見えるようになっていた。その闇が、わたしの奥底にあるものを渇望していた。そんなに欲しいのなら、あげてもいい。でもそれでは、ますます春樹を苦しめる。

「……だめ…よ……」

 わたしは春樹に……春樹の闇に手を伸ばした。それを消すことができたら、きっと春樹は……。

「あ……」

 指先がびりびりとしびれ、一瞬ではじき返された。でも、わたしよりも春樹のほうが衝撃を受けていた。

「あああっ」

 春樹は絶叫して、頭を抱える。それと同時に春樹の闇が乱れ、広がっていくのが見えた。

「春樹!」

 春樹は両手で頭を押さえたまま、苦しそうに声を上げた。

「……麻奈……麻奈……このままだと僕は……麻奈を殺してしまう……」

 春樹が突然、部屋の奥に向かって走り出した。春樹は視界から消え、彼がたてているのであろう物音だけが聞こえた。

―いま引き出しを開けた……中をかき回してる……何を探してるの……?

わたしはベッドサイドに手を伸ばし、灯りのダイヤルをつかんだ。でたらめに回すと、灯りが少しだけ強くなる。でもそれは、春樹の背中に届くのがやっとだった。細い背中が揺れ、灰色の影も揺れた。きっと、彼が抱えている暗闇も揺れている。

「……あった……」

 春樹は戻ってくると、わたしの前に立った。その手に持っている細身のナイフは、仄かな光を反射してかすかに光った。

「春樹……それ……なにをするつもり?」

「もっと早くこうするべきだったんだ。せめて美月さんを殺してしまう前に……」

 春樹が自分に向けてナイフを振り上げる。わたしは飛び出していって、春樹にしがみついた。

「やめて。お願い、春樹……」

「麻奈、どうして止めるの……僕は君を殺そうとしてるんだよ……僕は早くいなくなった方がいいに決まってる」

「わたしは……春樹を助けるためにここに来たのに……春樹がこんなことしたら、意味がないよ……」

 春樹の動きが止まった。春樹は突然振り返って、わたしの顔を正面から見つめた。

「……だったら……僕と一緒に死んでくれる……?」

「……春…樹……?」

「ずっと、ずっと寂しかった。大事な人を失うたびに、寂しさが雪みたいに降り積もって……冷たくて、冷たくて……。僕はただ、愛する人のぬくもりが欲しかっただけだよ。なのに貪欲なこの手が命ごと奪ってしまう……。ねえ、麻奈。その温かい手で握ったナイフを、僕に刺してよ。……それから一緒に……遠くに行こう……」

 体の中で、たくさんの甘い果実がはじけていくようだった。わたしはその甘さを抱きしめながら、春樹の苦しみを思った。

 誰だって、愛する人に対しては貪欲だ。でも、相手の全部を自分のものにすることなどできはしない。なのに春樹にはそれができた。卓越した絵の技量が、春樹に力を与えてしまった。それは、なんという不幸だろう。

 わたしは何も言えずにただ唇を震わせる。そんなわたしに焦れたのか、春樹は手を伸ばして、握り締めたままでいるわたしの掌を開こうとした。

「ほら、ナイフを持って。しっかり持たなきゃ、僕は刺せないよ……」

「だめだよ、そんなこと……できない……」

 わたしは必死になって腕を振った。春樹がわたしに持たせようとしたナイフは、弾き飛ばされて部屋の端に飛んだ。

「麻奈……お願いだからちゃんと持って……ああ、ナイフはもう一本必要だね。……僕が持つナイフが……」

 春樹はナイフを拾いに行き、もう一度引き出しをかき回している。

 わたしは、春樹の言葉に身をゆだねてしまいそうな自分を感じた。

『春樹と一緒に死ぬ』というのは、なんと甘い誘惑だろう。春樹と一緒に逝くのは、世の中の美しい人たちではなく、このわたしだ……。

しかしそれは、本当に馬鹿げた幻想だった。たとえ一緒に死ぬためであっても、わたしは春樹に向かってナイフを向けたりできない。春樹を傷つける?このわたしが?そんなこと、絶対に無理だ。

絶望に支配され始めた時、ベッドの脇に置いていたバッグから、突然音楽が鳴り始めた。

―電話……。

 わたしは手を伸ばした。でも、戻ってきた春樹がバッグを奪う方が早かった。気付いた時にはもう、わたしのスマホは春樹の手の中にあった。

「春樹、やめて。それはわたしのよ」

「……友也か……」

 春樹は画面を見つめ、つぶやくようにそう言った。

「友也……お前は……僕の邪魔をするつもりなんだ……」

「春樹、なに言ってるの。友也だって春樹のことを心配してる」

 わたしは手を伸ばしたが、指先は宙をかいた。わたしの頭上で、春樹は画面に指を向けていた。

『麻奈。もう、家に帰りついた?』

 春樹はスピーカーのボタンを押したのだろう。友也の優しい声は、麻奈にもはっきりと聞こえた。

『連絡がなかったから心配したよ』

 わたしは口を開こうとした。でも答えたのは春樹の方だった。

「麻奈はまだ帰りついてないよ。僕の部屋にいるから」

『……えっ……』

 電話の向こうから、友也の戸惑いや動揺が伝わってきた。その青ざめた表情さえ目に見えるようだった。

「春樹、それ返して」

わたしの叫びを春樹は無視した。

『春樹。麻奈を自分の部屋に連れてきて、お前は何をしようとしてるんだ』

「麻奈の絵を描こうと思った。……無理やりつれてきたわけじゃないよ。僕が頼んだら、うんと言ってくれた。麻奈は優しいから……」

『お前……いま自分が絵を描いたらどうなるか、わかってるんだろ。なのに……。麻奈の優しさに、どれだけ甘えるつもりだ』

 友也の怒りを含んだ声は、スマホをびりびりと振るわせる。春樹はわずかに眉を寄せた。

「大丈夫だよ。……もう、絵は描かない……」

『本当か』

「ああ。僕は……麻奈と一緒に……死ぬから……」

『春樹……いま……なんて言った……』

「麻奈と一緒に死ぬんだ。お互いにナイフで刺し違える。……ねえ、いい考えだろ」

『……だめだ……春樹……』

 友也の声がかすれていく。

『頼む……やめてくれ……麻奈を……殺さないで……』

 わたしは、頭上にあるスマホに向かって叫んだ。

「友也!春樹はちょっとおかしくなってるだけ。わたしが何とか止めるから……だから……」

『こんな時まで春樹をかばうのか!!』

 突然、友也の怒声が響いた。わたしは思わず身をすくませた。

『どうして『助けて』って言ってくれないんだ。僕はいつでも麻奈を守りたいと思ってる。麻奈の気持ちがどこに向かっていても、それは変わらないんだ。……言ってくれよ、『助けて』って……。僕が……守るから……』

「……ありがとう……友也……助けて……くれる?」

『わかった』

 体中から力が抜けていくようだった。わたしはそのまま座り込み、床の上に手をついた。

『春樹』

 友也が、今度は春樹の名前を呼ぶ。春樹は手に持ったスマホをじっと見つめた。

「お前も麻奈とおんなじだよ。どうして『助けて』って言わない?僕は非力だけど、お前を助けるのに、ためらったりしない」

 春樹はぎゅっと両目を閉じた。その目じりから、涙が一筋流れ落ちるのがわかった。

「……そっか……そうだよね。……お前はそういう奴だった……でも、もう遅いんだ……」

『春樹!そのままじっとしてろ。今すぐそっちに……』

 春樹は電話を切った。突然、痛いほどの静寂が部屋を満たしていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ