第十三話 出口の見えない迷路
「麻奈ちゃん、起きて!!」
それは、緊張を孕んだ七瀬の声だった。眠りの底に沈んでいたわたしは、ぎょっとして目を開いた。部屋の灯りはすでにつけられていて、わたしの視界を白く染める。わたしは瞬きを繰り返し、目の前の人を見ようとした。
「……七瀬先輩……なにか…あったんですか……」
「これ、見て」
まだぼんやりしていたわたしの前に、四つ折りにされた新聞が差し出された。わたしは少し目を細め、小さな文字に焦点を合わせた。
―……浅黄第七美術館……倉庫……火災……。
わたしのまだ寝ぼけていた頭は、すぐに覚醒した。
「まさかあの絵が……」
「夜中に起こった火災だから、被害状況ははっきりしていないのよ。今、友也くんと孝太くんがテレビやネットを見てくれているんだけど、この記事よりも詳しいことは分からないみたい……」
『幻想Ⅱ』は燃えてしまったのだろうか。わたしは、まだ見たこともない絵を思った。今は、春樹を助けるための、たったひとつの糸口だった。
―でも、まだ決まったわけじゃない。
わたしは息を深く吸いこんだ。苦しんでいる春樹のために、わたしはできるだけのことをする。それだけだ。
「七瀬先輩。今日は予定通りに出かけます。向こうに行って、絵が無事かどうか直接調べます」
七瀬は一瞬目を見開いて、それからにっこりと笑った。
「了解。友也くんたちにもそう言っておくわ。……強くなったわね、後輩ちゃん。元部長としては、とってもうれしい」
「強くなんかないです。ただ、必死なだけで……」
「必死な女の子がどれだけ強いか、わたしはよく知ってるわよ。さあ、そろそろ出かける準備を始めた方がいいわね。下に朝ごはんを置いてるから食べて行って」
「はい。ありがとうございます」
わたしは、部屋を出て行く七瀬の後ろ姿に深々と頭を下げた。
◇◇
浅黄第七美術館は、新幹線の駅からだいぶ離れた郊外にあった。わたしと理沙は、一時間に一本しかないバスに乗って目的地を目指した。
車窓から見える景色は、ビル街から住宅地、そして田畑に変わった。田に植えられたたくさんの苗が、吹いてくる風を受けてざわざわとゆらぐ。そんな風景の中に、『浅黄第七美術館前』というバス停はあった。
バスを降りると、その建物はすぐ目の前に現れた。明治の洋館を模した上品な姿をしていて美しい。さすが『美術館の貴婦人』と言われるだけのことはある。普通の時なら、きっと心が弾むのだろう。でも今は、心の底に渦巻く不安で、とてもそんな気分にはなれなかった。
「どこが焼けたんだろう……。よくわからないね」
理沙の言う通り、美術館の外観は目立つ損傷がない。わたしたちはまっすぐな道を通って建物に近づいたが、焦げたり壊れたりしている場所は見えなかった。火事はそれほど大きいものではなかったのかもしれない。わたしは思わずそんな期待を抱いていた。
しかし美術館の入り口までたどり着くと、そこには『臨時休館』と書かれた札が下がっていた。中を覗き込んでみたが灯りは落とされていて、その辺りに人がいる気配はなかった。
「裏に回ってみよう」
「うん」
建物に沿って走って行くと、そこに荷物の搬入口があった。ここは火事の現場が近いのか、微かに焦げくさいにおいが漂っている。止まっているトラックの影に初老の警備員を見つけ、わたしは声を掛けた。
「すみません。美術館の方にお話を伺いたいんですけど、どなたかに取り次いでもらえませんか」
わたしたちを見て、警備員は明らかに迷惑そうな顔をした。
「え?あんたたち、マスコミかなんか?だったら無理だよ。誰も通すなって言われてる」
「違うんです」
今度は理沙が口を開いた。
「ここで火事があったって聞きました。わたしたち、どうしても見たい絵があって、それが燃えてないかどうか心配になって来たんです」
警備員は、まるで未知の生物でも見るような目でわたしたちを見た。
「あんたたち、どこから来たんだ」
「花宮です」
「花宮?そんな遠くから来たのか」
「はい」
少しは同情してくれたのかもしれない。男はため息をつくと、その表情を少しだけ和らげた。
「今、中には誰もいないよ。朝のうちに火事の処理が終わって、一旦解散になったんだ」
「そうですか……」
「まあ、それほど大きな火事じゃなかったからな。心配することもないんじゃないか。燃えたのは倉庫のエレベーター脇だけだって話だよ。展示室に出てた絵は一枚も燃えてないし」
「……でも、被害はあったんですよね?」
「絵が三枚だったかな。でも、倉庫には何百って言う美術品があるんだ。そのほとんどが無事だったんだから、まだよかったんじゃないか?」
警備員が知っているのはそこまでだった。わたしたちは警備員にお礼を言って、仕方なくその場を後にした。
美術館の向かいに、小さな喫茶店があった。別に空腹を感じたわけではないが、わたしたちはとりあえずそこに入った。この辺りで休める場所はほかになかった。
ここまで来たのに、わたしたちは漠然とした不安と焦りをかかえたままだった。なにも得られないことが、疲労感を増していた。
「ご注文はお決まりですか」
注文を聞きに来たのは、丸顔で元気のいいウェイトレスだった。年は自分たちよりも若い、高校生ぐらいかもしれない。彼女の張りのある笑顔がまぶしかった。わたしは、こんな笑顔をどこかに置き去りにしてきたようだった。
「ホッとコーヒーを」
「わたしもそれで」
短い注文を終えると、わたしたちはどちらからともなく美術館の方に目をやった。貴婦人の肌のような白い壁は、辺りの田園風景から浮き出してくるようだった。
「美術館に来られたんですか」
話しかけてきたのは、さっきのウェイトレスだった。言葉に詰まったわたしの代わりに、理沙が答えた。
「そうなの。でも、お休みみたいで」
「昨夜、火事があったらしいんですよ。中野館長もびっくりしたんじゃないかなあ。『幻想Ⅱ』、無事だといいけど……」
「えっ」
わたしたちはぎょっとして、思わずウェイトレスの顔を見上げた。
「……『幻想Ⅱ』……ですか?」
「ああ、あんまり有名じゃない絵なんでしょう?でもこの前館長さんがここに来た時、すごくうれしそうに話してくれたんですよ。『ずっと欲しかった『幻想Ⅱ』を手に入れることができた。もうすぐ美術館に届くんだ』って。わたし、館長さんのファンだからよく覚えてて……あっ、館長さん」
わたしも理沙も、思わず硬直した。ドアを開けて入ってきたのは、確かにテレビで幾度も見かけたことのある中野明だった。だが目の間にいる中野明は服装も態度も地味そのもので、もしもウェイトレスの少女が言わなければ、そのまま見過ごしていたかもしれなかった。
わたしたちはほぼ同時に椅子から立ち上がった。そして、テーブルの間をすり抜けるようにして彼のそばに立った。
「あの…中野さん、わたしたち、美術館の火事のことを聞いて……」
理沙は勢い込んで話し始めたが、中野は力なく顔をそむけた。
「すまない。いま、その話をしたくないんだ。取材なら改めて手順を踏んでくれ」
「春樹を助けたいんです」
わたしはもう、すがりつく思いだった。中野はその瞬間、振り返ってわたしを見た。
「『幻想Ⅱ』を見れば何かわかるんじゃないかと思って、花宮からここまできました……」
中野の視線が、一瞬抉るような強さを帯びた。わたしは委縮しながら、やっとのことでその視線を受け止めていた。
やがて中野は、わたしたちに向かって小さくうなずいてみせた。
「一緒に来てくれ。見せたいものがあるんだ」
「それは……『幻想Ⅱ』…ですか」
わたしはためらいながら尋ねたが、中野は深いため息をついた。
「そうだ、とも言えるし、そうでないとも言える」
わたしと理沙は、お互いに無言で顔を見合わせた。
「ここだよ」
その部屋には、『会議室1』という札が掛っていた。外から見ると、全く燃えたような後はない。しかし中野が扉を開けた瞬間、むっとするような焦げくさいにおいが漂った。
「被害にあった絵はここに運んであるんだ」
部屋の中にあるはずの机や椅子はすべて片付けられている。その代わり、布に包まれた絵のようなものが、いくつか壁に立てかけられていた。布はあまりにもきれいな白で、それが却って痛々しかった。
「まさか……『幻想Ⅱ』がこの中にあるってことですか?」
「正しくは、元『幻想Ⅱ』だったものだ」
わたしは息を飲んだ。
中野はそのまま、壁に向かって歩いて行く。わたしは怖かった。できるなら、永遠に見たくない気がした。でも中野は壁にたどりついて、中央に立てかけられていたものの布を剥いだ。
「……そんな……」
わたしは愕然とした。
絵は、半分しかなかった。左半分が焼け焦げ、消失していた。
わたしは衝撃を受けたまま、残っている絵の右側に目をやった。
不思議な絵だった。闇のように黒い背景に、たくさんの白い斜め線が描かれている。厚塗りされた、光沢のある白い線だ。
でも、その線が何を意味するのかわからない。その答えは、消失した絵の左側にあったのだろうか……。
「エレベーターのモーターから出火したんだ。すぐに消火したが、近くの絵だけがやられた。半分燃えてしまっては、もう『幻想Ⅱ』とはいえないだろうな」
「……左側には……どんな絵が描いてあったんですか」
わたしの後ろで、理沙が中野に質問するのが聞こえた。中野は少し間を置いてから、かすれた声で答えた。
「右と同じだ。バックの黒の上に白い線を乗せていた。なにを暗示しているのか……。一見して分からなかったからこそ、わたしはこの絵を購入した。じっくりと観察すれば、なにか見えてくるものがあるかもしれない。さらに科学の力を借りて絵の下を見るつもりでもいた。この絵が何かの絵の上に重ね塗りされていないとも限らないからだ。そこにメッセージが隠されている可能性もある。しかし……絵は全体で一つの世界観を表すものだ。半分欠けてしまった絵から、なにを見出すことだできるだろう……」
「……春樹を……救いたかったのに……」
わたしは耐えられずに、うつむいて両手を震わせた。そんなわたしの横に中野が立つのがわかった。
「君は……春樹が陥っている……病のようなものを知っているのか」
「……春樹に聞きました…」
中野は眉を寄せ、苦しげな息を漏らした。
「……そうか……。わたしも同じだ。何とかしてあいつを助けたかった。いろいろ調べているうちに、あの絵にたどりついて……。やっと糸口が見つかったと思った。なのに……」
「……中野さん。せめて春樹のそばにいてあげてください」
人の家庭のことをとやかく言える立場ではない。でも黙っていることはできなかった。
「春樹はいま、一人で花宮の家にいます。せめて誰かがいつもそばにいてあげたら……」
「わたしではだめなんだ」
中野の声は、暗くうめくようだった。
「わたしの顔を見れば、春樹は母親のことを思い出す。わたしの存在が、春樹が抱えている罪の意識を煽るんだ。あの子が苦しまないように、わたしはあの子を遠くから見守ることしかできないんだよ……」
この人もまた、春樹と同じ年月苦しんできたのだ。わたしは、自分の考えが浅かったことを悔やんだ。
「ごめんなさい。わたし、余計なことを……」
「いいんだよ、謝らなくて」
中野は、春樹に似た目元を緩ませ、わたしの肩を叩いてくれた。
わたしはもう一度、半分が消失した『幻想Ⅱ』に目をやった。目に見えない左側は、どこまでも続く真っ暗な深淵のようだった。
無駄かもしれないとわかっていても、わたしはできるだけのことをした。『幻想Ⅱ』の右側を写真に収め、スケッチブックに模写した。本物の絵に隠された微妙ななにか、わずかな揺らめきを探し出して、そこから真実を導き出したかった。
わたしが絵を写している間、理沙は中野にリチャード=キャンターのことを質問していた。理沙は理沙のやり方で春樹を助けようとしているのだ。わたしは鉛筆を動かしながら、二人の話を聞いていた。
「『幻想Ⅱ』はシリーズの中の一作なんじゃないかって説があるんです。だとしたら、『幻想Ⅰ』や『幻想Ⅲ』が存在していたかもしれません」
「わたしもその話は知っている。だが、『幻想Ⅱ』を所有していた家の美術品目録に記載はなかった」
「キャンターには、親しくしていた画家仲間が何人かいたみたいですけど、そのうちの誰かが持っていたという可能性は……」
「もちろんそれも調べたよ。でも、仲間の誰かがキャンターの『幻想』を所有していたという記録はないんだ。おそらく、キャンターが自分で持っていたものが戦争で焼けたのではないか、わたしはそう思っている。そしてせっかく焼け残った『幻想Ⅱ』も、わたしが燃やしてしまったわけだ……」
結局キャンターの『幻想』に絡む話は、出口の見えない迷路だった。わたしはただ『幻想Ⅱ』の右側を、できるだけ忠実に写し取ることしかできなかった。
◇◇
わたしと理沙が花宮に戻ってきたのは、夜の八時を過ぎてからだった。
「麻奈、ほんとに一人で帰れる?」
わたしは駅前で、理沙に何度もそう聞かれた。
「大丈夫だよ。だから理沙は行っておいで」
理沙はこの所立て続けにバイトを休んでいて、店長から注意を受けていた。理沙がバイト先を首になってしまっては申し訳ない。
「わかった。じゃあ、行くよ。ああ、帰ったら友也か七瀬先輩に連絡入れるんだよ。みんな心配してたからね」
「うん」
本当は、ハロルドに顔を出すべきなのかもしれない。でも、こんなに落胆した顔を見せたくはなかった。一晩寝れば、もう少し落ち着く。きっと前向きになれる。でも今夜は、きっとうつむくことしかできないから。
わたしは理沙と別れ、バスに乗って和坂で降りた。それから坂道を力なく上り始めた。
今日は、昼間からずっと薄曇りだ。雲の間から時折月や星が顔を出しても、すぐに隠れてしまう。雲が音を吸い込んでしまうのか、町はいつもより静かだった。せめて犬でも鳴いてほしかった。
つらい静けさの中で、わたしは昼間見た絵のことを思った。
キャンターの『幻想Ⅱ』
相変わらずあの絵の意味するところはわからない。そして絵を理解できたとしても、春樹を救う助けになるという保証もなかった。
―わたしはなんて無力なんだろう……。
やがて坂はカーブに差し掛かった。わたしはそっと、盗み見るようにその大きな家を見上げる。春樹は今夜も、あの中で隠れるようにして、ひっそりと息をしているのだろうか……。
その時、わたしは春樹の家の前でうずくまっている細い影を見つけた。その影はじっと動かなくて、夜の闇に同化しているように見えた。
「……春樹……?」
わたしは吸い寄せられるように歩いて行く。ちょうど雲の間から顔を出した月がその姿を照らした。闇の中から、春樹の白い頬が浮かび上がった。
わたしは春樹の前に立った。でも春樹は顔も上げずにじっとしている。わたしはあわててしゃがみ、両膝をついた。
「春樹……春樹……。麻奈だよ。わかる?」
春樹はようやくゆるゆると顔を上げた。
「麻奈……」
突然春樹が腕を伸ばした。その手はわたしの肩をつかむ。あまりにも力が強くて、指が深く食い込んだ。
「……麻奈……お願い、描かせて……」
見つめる春樹の瞳からは、すでに理性的な光が抜け落ちていた。春樹は飲み込まれてしまったのかもしれない。『描きたい』という欲望に。
「いいよ。わたしを描いて」
ほかの答えなんてなかった。いま春樹の願いを受け入れなければ、春樹はきっと、この瞬間に壊れてしまう。だいたい、先に『描いて』と言ったのはわたしだ。
―春樹がわたしを描いても、わたしが生きていればきっと春樹を救うことができる。だから……。
春樹は立ちあがって、わたしの手を引いた。
「僕の部屋に来て」
わたしは引かれるままに立ち上がる。
春樹は片手で門を開けた。金属のきしむ音が、静かな夜の中にどこまでも響いていった。




