第十二話 わずかな光を求めて
いつの間にか眠っていたらしい。わたしは柔らかい枕から顔を上げた。
ここは七瀬の寝室だと思う。さっき誰かがそんなことを言っていた気がする。でも眠る前のわたしは、混乱して記憶がところどころ飛んでいた。この部屋にどうやってたどりついたのか、誰がつきそってくれたのか、そんなこともよく覚えていなかった。
あの時廊下に座り込んだまま、わたしは春樹の話をした。わたしの前にいた友也と、後から来てくれた孝太や七瀬も、わたしの言葉を黙って聞いていた。でもわたしは、少しもうまく話せなかった。春樹の追い込まれたような表情や危なげな背中は、わたしの言葉を通すとそれだけで嘘になる気がした。自分の無力感にさいなまれ、わたしはついにどうしていいのかわからなくなった。そして逃げるように眠ってしまったのだろう。
でも目が覚めると、わたしは少しだけ落ち着きを取り戻していた。一番苦しいのは春樹で、わたしの苦しみなんて取るに足らない。わたしは春樹のために自分ができることを、よく考えるべきなのだ。
わたしはベッドから降りた。その時、青いカーテンの隙間から光が漏れているのが見えた。わたしは引き寄せられるように窓に近づいて、カーテンを開いた。
「……あ……」
その窓からは、晴れた夜空と坂の下に広がる町が見えた。夕方に出た雲は、すっかり晴れてしまったらしい。
空には大きな満月が掛っていて、闇に薄い金色のベールを掛けている。地上にあるたくさんの家にはそれぞれの灯りが灯り、それが全部星のように滲んでいた。とても心惹かれる景色だった。
わたしは右手を上げ、人差し指を伸ばした。そして夜に浮かぶ町を、その指でなぞって行く。でもその景色は、いつの間にかわたしの記憶に残っている景色にとってかわった。それはいま目の前にあるのと同じ、夜に浮かぶ街並みだった。
あれは、修学旅行の夜だった。
わたしは夜中に目を覚まして眠れなくなった。仕方なく一人起き出して窓を開け、『出てはいけない』と言われていたベランダにこっそり降り立った。
「……すごい……」
空には無数の星が光り、眼下には夜景が広がっていた。
光の散らばる二つの世界は、わたしを挟んで向かい合っている。それに気づいて、わたしはうれしくなった。もちろん、わたしがいくら手を伸ばしても、どちらの世界にも届きはしない。でもわたしは、二つの世界の美しさを同時に受け取ることができた。
しばらく見とれていたわたしは、ふと階下の庭に目をやった。そこに一人の少年がいた。街灯に照らされた横顔を見なくても、わたしにはそれが春樹だとわかった。
春樹は突然右手を上に掲げ、人差し指を伸ばした。その瞬間、彼の前に透明で巨大なキャンバスが出現したように見えた。
春樹は風景に沿ってゆっくりと指を動かして行く。丁寧に、時に大胆に。危うい軌跡だけで作られているのに、そこには確かな絵が存在していた。二つの世界を写し取る、水鏡のようだった。わたしはその絵を、そして春樹を、いつまでも見つめていた。
ドアの開く音がして、わたしは後ろを振り返った。
「起きてたんだね」
入ってきたのは友也だった。友也は食事と飲み物が乗った銀の盆をテーブルに乗せた。
「ノックしたら起こすかもしれないと思って、そっと入ってきたんだ。気に障ったらごめんね」
「そんなこと気にしないよ。それよりわたし……さっき友也に迷惑掛けたよね。七瀬先輩や孝太にも……ごめんなさい」
「あれ、知らなかった?僕は麻奈に掛けられる迷惑なら、いくらでも平気なんだよ」
友也はおどけてそう言うと、まっすぐ麻奈のそばまで歩いて来た。
「さっき、エアデッサンしてたよね」
「見てたの?」
「一瞬だけね」
「なんだか恥ずかしいけど……」
「恥ずかしがらなくてもいいよ。僕もよくやるんだよ、エアデッサン」
「そうなの?」
「高校の頃、流行ってたから……。ねえ、これから僕がエアデッサンするよ。よく見てて」
友也は腕を上げ、指を構えた。その細い指が、空間にゆっくりと線を引いて行く。
「……丸いのは月?……それって……」
わたしは突然、友也が描いているものを理解した。そして思わずくすっと笑った。
「月のうさぎだね。二匹でお餅をついてる」
「正解。よくできました」
友也の手が伸びてきて、わたしの頭に触れた。前髪が額の上で微かに揺れた。
「麻奈が笑ってくれてよかった。僕は……」
その時、ドアがノックされた。
友也はそっと麻奈の手に触れ、それからドアを開けに行った。
「麻奈!!」
突然、部屋の電気がついた。まぶしくて目がうまく開けられない。でも、光の中を走ってくるその人が、一番明るく輝いているような気がした。
「……理沙……?」
理沙は駆け寄ってきて、そのままわたしを抱きしめた。
「どうしてここに……」
「俺が呼んだからだよ」
理沙の後ろから部屋に入ってきたのは孝太だった。孝太は困ったような顔で、視線をあらぬ方に向けていた。
「今……理沙を呼ばなかったら……理沙は一生俺を許さないんじゃないかと……そう思ったんだよ」
理沙は振り返って孝太を見た。その視線はまっすぐで、迷いがなかった。
「ありがとう、孝太。やっぱり孝太は、わたしのことよくわかってくれてる」
「おっ……おう……」
孝太は真っ赤になってそのまま後ろを向いてしまった。理沙は肩をすくめ、またわたしを抱きしめ直した。
「孝太から聞いたよ。つらかったね。もっと早く来られなくてごめん」
理沙の言葉が、まだわたしを縛っていた緊張の糸を解いたのかもしれない。わたしは理沙の腕を握ったまま、いつの間にか涙を流していた。ずっと泣くことができなかったのが嘘のように、涙はなかなか止まらなかった。
◇ ◇
「これを見て」
理沙はそう言って、わたしの前に分厚いスクラップブックを置いた。
「孝太が漫画に使う資料。わたしがファイリングしてまとめてるのよね」
中には新聞や雑誌の切り抜き、そしてネットの情報をプリントアウトしたものがぴっしりと貼り付けられている。
それを見た友也があきれたようなため息をもらした。
「理沙……。こんなことまでやってたのか。まるで世話を焼き過ぎて子どもをだめにする母親だよ」
「そうね。反省はしてるのよ。でも、孝太がだらしなさ過ぎてつい……」
「いや……俺はいいって言ったんだけどさ……」
孝太はいつの間にか友也の後ろに隠れ、ぼそぼそと呟いている。本当に、てきぱきした母と思春期の子どものようだった。
「まあでも、それが今回に限っては役に立つと思うのよ。まず、ここね」
理沙が開いたページには、びっしりと文字が印字された紙が貼りつけられていた。
「これが、画家リチャード=キャンターの略歴よ」
「……リチャード=キャンター……」
「そう。孝太が、漫画を描くのに参考にした実在の人物の名前。主人公ネヴィル=ヤーンは、この人がモデルなのよ」
麻奈は、知らないうちにこぶしを握りしめていた。彼は、『絵に描くことによって相手の命を奪う』と噂された人物、ということだろう。
「画壇にデビューしたキャンターには、いつも好ましくない噂が付きまとっていた。そのために絵も売れず、生活は困窮していたわね」
わたしは、彼の略歴を読み始めた。理沙の言う通り、デビューした作品以降、しばらくはなにも発表されていない。
でも不思議なことに、彼はある時を境にして急に作品を発表し始めていた。それまで押さえていたものが爆発するかのように、驚くほどの量だった。
「一目見ればわかるよね。彼はこの頃から作品を発表し始めて、妙な噂も自然と消えて行った。転機となった時の最初の作品は、『幻想Ⅱ』というタイトルだってことはわかったの。孝太がそれを見たいって言うから、わたしもずいぶん探したのよ。でも戦争のあと、行方が分からなくなってて……」
「結局見つからなかったよな、『幻想Ⅱ』」
いつの間にか、孝太が友也の後ろから前に出てきていた。もう、思春期の子どもではなく、漫画家の顔だった。
「調べたけど、絵の写真も残ってなくて、どんな絵かもわからなかったんだ」
「でもわたし、おとといこの記事を見つけたのよ」
理沙は、スクラップブックの最後のページを開いた。そこに貼りつけられているのは、新聞の小さな記事だった。
『浅黄第七美術館が、リチャード=キャンターの『幻想Ⅱ』を購入したことを発表した。フランスの民家で保存されていたものを、館長が交渉し入手したということだ。購入価格は発表されていないが、一億円は下らないと見られている』
―……浅黄第七美術館……。
わたしは、その美術館の名前を知っていた。顔を上げると、理沙と目が合った。
「理沙……」
「うん。ここの館長は春樹のお父さんだよね。お父さんが、考えあってこの絵を購入したのか、それとも偶然だったのかは分からない。でも、『幻想Ⅱ』を見れば、何かわかるかもしれないよね。彼がどうやって再び絵を描くことができるようになったのか、その理由が」
暗闇の中に、わずかな光が見えたような気がした。もう一度春樹が絵を描けるようになるのなら、わたしはどんなことでもする。
「じゃあ、わたし……」
「明日、二人で女子旅をしようよ」
理沙はそう言って、わたしの腕を取った。
「二人で美術館に行くのって、久しぶりじゃない?」
「でも理沙、大学は……」
「明日は授業が少ないからなんとかなるって。……ああ、友也と孝太はこっちでお留守番してらっしゃい。転科したての人と締め切りに追われてる人は、旅行禁止だよ」
「相変わらず厳しいなあ、理沙は」
友也は苦笑しながら立ち上がった。
「さあ、孝太。そろそろ退散しようか。お前は原稿を描くだろう?僕は七瀬先輩を手伝ってくるよ。店の準備で忙しそうだから」
「あの……」
口を開きかけたわたしを、友也が制した。
「『今日はこのベッドで朝まで寝なさい』って、七瀬先輩からの伝言だよ。迷惑掛けたこともちゃんと謝っておくし、明日バイトを休むことも伝えておく。麻奈はなにも気にしなくていいから」
「……ありがとう」
二人が出て行くと、理沙はふうっと息を吐きだした。急に生まれた静けさが、肌にしみるようだった。
「ねえ、麻奈。あの時のこと思い出さない?」
「……修学旅行三日目の夜……だよね」
理沙が言いだす前から、わたしもその夜のことを思い出していた。シチュエーションはまるで違うのに、空気感が同じだった。
「そう。あの時、わたしは麻奈に『春樹を攻略して』って言ったんだよね」
「……まあ……そうだけど……」
「で、麻奈は『うん』って言った」
「あれは……勢いだから……」
「今も勢いで行っちゃお。考え込んでも始まらない。前に進むのみ」
「……うん。そうだね」
あの夜、ひとしきり春樹のエアデッサンを見て部屋に戻ってくると、理沙が布団の上に座ってわたしを待っていた。理沙は、隣の布団に戻ってきたわたしに身を寄せ、耳元で囁きかけた。
「ねえ。下に春樹がいたんでしょ?麻奈は春樹を見てた。違う?」
「え……」
わたしはまだ、誰にもこの気持ちが知られているなんて思わなかった。恥ずかしくて、頬が焼けるように熱かった。
わたしがまだ何も言わないうちに、麻奈は自信たっぷりうなずくと、わたしの顔をのぞきこんだ。
「いい?麻奈。わたしはずっと麻奈を応援してるからね。あの、超むかつく天才を絶対攻略しちゃって」
理沙が言うと、それはとても簡単なことのように思えた。まるで実現可能な未来だった。
「……うん」
「よし。いい返事だ」
理沙はそう言って、くすくすと笑いだした。わたしもつられて笑った。一度こぼれ出した笑いはなかなか止まらなくて、わたしたちはいつまでも笑っていた。
「麻奈、そろそろ眠ったほうがいいんじゃない?」
さっきまで眠っていたのに、わたしの瞼はまた重くなっていた。
「理沙がいるから、安心したのかも……」
「そっか。じゃあ、麻奈が眠るまで、わたしがそばにいてあげるよ」
わたしがベッドに入ると、理沙はその端っこに座って小さな声で歌を歌い始めた。それは、聞いたことのない英語の歌だった。さらさらと流れていく異国の言葉を、わたしはちゃんと理解することができない。言葉は次第にただの音になり、メロディーと溶けあって一つになっていく。
わたしは目を閉じた。理沙の歌を聴きながら、わたしはあっという間に眠りへと落ちていった。




