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第十一話  春樹の秘密

「ねえ麻奈。僕が聞いたことに答えてくれる?この絵は麻奈が描いたのかな」

 わたしは、ぎくしゃくとした動きで後ろを振り返った。

そこに春樹がいた。前見た時よりももっと痩せて、その分目が大きさを増して見える、本物の春樹……。

―……うそ……。

近づいてくる気配なんて、まるで感じなかった。突然空から舞い降りてきたみたいだった。だからだろうか、彼のシャツは遠すぎる青空を切り取ったような薄い水色だ……。

わたしは動揺し、思考回路が滅茶苦茶だった。いや、それどころか呼吸の仕方さえ忘れかけた。わたしは浅過ぎる呼吸を何度も繰り返し、やっとのことで言葉を絞り出した。

「……そうよ。この絵、わたしが描いたの。あんまりうまくないけど……」

 かすれた声は、自分のものとは違う気がした。それでも春樹は、わたしの言葉にうなずき返した。

「そっか……麻奈が描いたんだ……」

 春樹は突然壁の前に駆け寄ってきて、食い入るように絵を見つめた。それは、飢えた生き物が食べ物に飛び付くさまに似ていた。

人の絵にこれほど反応する春樹を、わたしは見たことがなかった。わたしは驚いて、ただ春樹の横顔を見つめていた。

「リリィがいつもの時間になっても来ないから、この辺りを探してたんだ。まさかこんな所で絵になってたなんてね」

 春樹が壁に向かって手を伸ばす。

「待って。まだペンキが……」

 その言葉は間に合わなかった。春樹の指先がほんの少しだけ壁に触れる。

「あ……」

 春樹が小さく声を上げた。その視線の先で、猫の目元が滲んだようにぼやけていた。

「……ごめん……泣かせちゃった……」

 春樹は振り返ってわたしを見た。暗く潤んだ瞳だ。春樹の方こそ泣いているみたいだった。

「大丈夫だよ。後でそこだけ直しておくから」

「うん、頼んだよ。……あ、リリィ……」

 春樹の視線を追うと、ちょうどリリィが向かいの家の勝手口に飛び込むところだった。わたしたちはしばらくの間、リリィの残像を見つめていた。

「せっかく迎えに来たのに……残念」

 春樹は寂しそうに笑いながら、店の前に置いてあるベンチに腰を下ろした。わたしは迷った挙句、緊張しながら春樹の隣に座った。もちろん少しだけ距離を取っている。わたしと春樹は、決してぴったりと寄り添うような間柄ではない。

「ねえ、麻奈。僕の昔話を聞いてくれる?」

 突然春樹がそう切り出した。春樹がわたしに向かって、そんな話をするとは思わなかった。さっきとは違う緊張感がわたしの中に芽生えた。わたしは少し身じろいで背筋を伸ばした。

「いいよ」

 わたしはすぐにそう答えた。でも春樹は、わたしを見ていなかった。彼の視線は、どこか遠い虚空に向かっていた。

「7歳の時、僕は母さんを絵に描いた。母さんはあの頃の僕にとって、きっとこの世で一番好きな人だったよ。でも描いている時、妙な感じがした。筆を運ぶ度にひどく重い。なのに描いている絵は素晴らしくて……。描き終わった時、母さんは眠っていると思った。でも、そうじゃなかった。母さんは二度と目を覚まさなかったんだ。僕は思ったよ。『僕が母さんを殺してしまったのかもしれない』って」

「そんなこと……」

「黙って聞いてて。まだ続きがあるんだ」

 春樹はわたしの言葉をさえぎった。しかしその体は、微かに震え始めていた。

「今度は12歳の時だった。僕は画塾に通い始めた。隣町にある小さな画塾だ。僕はそこの先生に恋をした。優しくて穏やかで……少し母さんに似ていたんだ。でも、僕が彼女をモデルに絵を描いた日、彼女は亡くなってしまった。僕はその時も筆の重さを感じたんだ。そして描いた絵は素晴らし過ぎた。まるでその人の命ごと写し取ったみたいに……。母さんの事があってから後、どんな絵を描いたって何も起こらなかった。あれはなんでもなかったんだって、僕はそう思い込んで……。でも違った。大好きな人を前にして絵筆を握る時、きっと僕の中で何かが変わるんだ。重い筆を動かすたびに、僕は命を手に入れてる……。そう思うとぞっとした。悪魔と取り引きでもしてるみたいだった。だからもう二度と、愛する人を絵には描くまいと決めていた。なのに……」

「ちょっと待って。だってそれは……」

 わたしはもう、春樹の告白をやめさせたかった。この先を聞きたくない。でも春樹は、右手の人差し指をまっすぐに立てると、それをわたしの唇に当てた。ひんやりとした冷たい指が、わたしに魔法を掛ける。わたしの言葉は縫いとめられた。

「僕はわかってた。なのに美月さんを描いたんだ。大学のキャンパスでばったり会った美月さんが『わたしを描いて』と言った時、僕は自分を止められなかった。心の中で『死なないでくれ』と念じながら、手は貪欲に命をむさぼって……。そして僕は……彼女を殺した」

 わたしは茫然として春樹を見ていた。すぐそばにある横顔は、あまりにも色がなくて凍っているようだった。

「春樹……」

 わたしはやっとのことで春樹の名前を呼んだ。春樹は弱々しい視線をわたしに投げかけ、それから、目の前の地面をじっと見つめた。

「あれから僕の症状は進んでしまったみたいだ。今は、命のあるものは何も描けない。描こうとすると、手にあの感じがよみがえるから……。きっと描けば奪ってしまうんだ。どんな命も……。なのにね……僕は毎日毎日、描きたくてたまらない。果物や花じゃ満足できないんだよ。命を描きたい。散歩している犬、走り回る子供、微笑む女性……。見ていると腕が疼いて、心がかきむしられる。僕はまるで……血に飢えた殺人者みたいだ……」

 突然春樹が立ちあがった。わたしも後を追うように立ちあがる。春樹は振り返って、わたしの目を覗き込んだ。

「こんな話を聞かせてごめん。僕のことが怖くなったよね?いいよ、もう他人だと思って。すれ違っても声を掛けなくていいから……」

「じゃあ、わたしを描いて」

 気がつくとわたしはそう言っていた。このままだと春樹は遠くに行ってしまう。わたしは必死だった。

「わたしは絶対に死んだりしない。春樹のために生きるよ。だから……」

 春樹は、目を見開いてわたしを見た。その目に一瞬光が宿る。しかしその光は、あっという間に消えてしまった。

「麻奈は強いね……。でも僕は、もう誰も殺したくないんだ」

春樹は踵を返し、ゆっくりと階段を降り始めた。その足元はおぼつかない。わたしは思わずその後を追おうとした。

「麻奈ちゃん、どうしたの」

 優しい声に名前を呼ばれて、わたしは夢から覚めたような気がした。いつの間にか、七瀬が外に出てきていた。

「あの子もしかして、春樹くんじゃない?」

 七瀬がわたしの視線をなぞる。

「……はい」

 あっという間に、春樹はわたしが追いつけないほど遠くまで下っていた。もうすぐ視界から消えてしまう。

 傍らに立った七瀬の手を、わたしはいつの間にか握りしめていた。春樹を一人で帰してしまうことが不安でたまらなかった。でも今追いかけたら、春樹はそれだけで壊れてしまいそうだ。

「麻奈ちゃん……?」

 七瀬はわたしの顔を見つめ、それから小さく息を吐いた。

「そっか……。ごめん、知らなかった。知ってたら、美月の話はしなかったのに……」

 わたしは首を振った。

「いえ……。美月先輩のことを知らなかったら、わたしは春樹の話が理解できませんでした」

 やがて春樹は、わたしの視界から消えてしまった。春樹がたった今までここにいたことも、交わした言葉も、すべて幻だったような気さえした。

「……麻奈ちゃん、そろそろ中に戻ろうか。にわか雨が降りそうよ」

「…はい。ここを片付けたら戻ります」

 七瀬が店に入ってから、わたしは壁の前に置いたペンキに手を伸ばした。その時、わたしは引き寄せられるように壁の絵を見つめた。春樹が泣かせてしまった猫がそこにいる。

ペンキはまだ湿っていて、わたしはまだ、猫の涙をぬぐうことはできなかった。でも、わたしは猫がうらやましかった。わたしは胸のつかえを抱えたまま、泣くことさえできずにいた。



◇◇

 わたしは、孝太が籠っている二階の和室に来ていた。

「孝太、入っていい?」

外から声を掛けると、「おう」と返事が聞こえた。久しぶりに聞くのに、三年前と同じ声だった。わたしは一呼吸置いて、それからゆっくりと襖を開けた。

「……もしかして寝てた?」

 部屋を覗くと、孝太は畳の上にごろりと横になっていた。上下緑のジャージを着ているので、なんだか高校生の時よりも若く見えた。運動部に入っている中学生みたいだった。

「寝てないよ。考えてるんだ。一番盛り上がるクライマックスをね」

 張りのある声だ。寝転がっていはいても、頭の中はフル回転していたのだろう。

「七瀬先輩がコーヒー入れてくれるって。ちょっと休憩したら?」

 わたしは、七瀬に言われてこの部屋に孝太を呼びに来た。どうやら七瀬は、春樹と会って落ち着きをなくしたわたしを気遣って、気分転換させようと思ってくれたようだった。

 でもわたしは、この部屋に来てもずっと宙をさまよっているような感じだった。わたしの中で、春樹の言葉が始終渦を巻いていた。春樹は本当に、そんな業を背負った人間なのか。それとも、春樹を襲った度重なる不幸が、春樹を精神的な病へと引きずり込んでいるのだろうか……。

「麻奈」

 突然孝太が起き上がった。いつもは恥ずかしがってあまり人の目を見たりしない孝太が、まっすぐわたしを見ていた。

「……どうしたの」

 わたしはテーブルをはさんで、孝太の正面に座った。近くで見ると、孝太の少し吊り気味の両目は真っ赤に充血しいている。きっとあまり眠っていないのだろう。

「俺の漫画、麻奈にも読んでもらいたいんだ」

「わたしに?」

 わたしは、あまり漫画を読む方ではなかった。嫌いなわけではない。ただ、プロ作家の素晴らしい絵を見ているとそっちの方が気になってきて、ストーリーを楽しめなくなるだけだ。

「わたし、あんまり量を読んでないから、目が肥えてないよ。的確な意見とか言えないと思うんだけど」

「それはいいよ。的確な意見なら、もう七瀬先輩にもらったし」

 テーブルの上には、出来上がったばかりの漫画原稿が積まれている。わたしはおそるおそる、その一番上の紙に目を落とした。

「ああ、一番上は漫画に添付するあらすじだから。それは後回しにして、まずは漫画から読んでみてくれ」

 でもわたしは、そのあらすじから目を離せなかった。視線が文字に吸い込まれるようだった。

『……主人公、ネヴィル=ヤーンは将来を嘱望された画家の卵だった。しかし彼には秘密があった。彼は絵に描くことによって相手の命を奪うことができた。神がかった彼の筆に、命が乗り移るのだ……』

「……孝太……」

 わたしはつぶやくようにその名を呼んだ。

「なに?あっ、あらすじ読んじゃったのか?それは後回しにしろって言ったのに……」

「……これは……本当にあったこと?」

「はあ!?」

 孝太はわたしを見つめ、呆れたような声を出した。

「俺はノンフィクション作家じゃないんだから、本当にあったことなんか描かねえよ。でもまあ、参考にしたのは19世紀ヨーロッパで噂された都市伝説だね。その頃画家同士で交わされた書簡の中に、実際そのことが記されているんだ。モデルは画家の……」

「……もういい……」

 わたしは、思わず孝太の言葉を遮った。これ以上何も聞きたくない。目の前の闇が深くなるばかりだ。

「ごめん、孝太……」

 わたしは立ちあがって、部屋を飛び出した。

本当にそんなことがあると言うなら、春樹はどうしたらいいのだろう。春樹の苦しみは続く。永遠に終わらない。

「麻奈、どうしたんだ?」

 後ろから孝太の声が聞こえた。……ごめんね、孝太。でもわたしは、今後ろを振り向けない。

「麻奈?」

 その声は、ふいに頭上から聞こえた。それでも立ち止まれなくて、わたしは温かな胸にぶつかった。

「……友也……」

「どうしたの?何かあった?」

 わたしはその場に座り込んだ。闇が広がって、世界のすべてを包み込んで行くようだった。

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