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第十話  心の湖

 そこはキッチンだった。でも、パンを焼いたりするような営業用ではない。普通の家にある一般的なキッチンだ。キッチンの横には申し訳程度に板間がついていて、小さなテーブルと椅子が二脚据えられている。そのテーブルの上に、木のプレートがたくさん置かれていた。プレートは丸やハートの形をしていて、どれも紐でぶら下げられるようになっている。

「これは?」

「絵を描いて店内に飾ろうと思ってね。開店した時からずっとわたし一人でやってきたから、店内装飾まで手がまわらなかったのよ。今の店みたいに地味で落ち着いた感じっていうのは、年配の人には受けるんだけど、若い子や子どもにはアピール不足なのよね。町のパン屋さんは、やっぱり可愛くなくっちゃ」

「……もしかしてわたしが描くんですか」

 わたしは、おそるおそる尋ねてみた。

「そうよ。だから言ったでしょ。麻奈ちゃんにしかできないことだって」

「先輩だって元美術部じゃないですか。それに先輩の方がずっとうまいです」

 七瀬の描く大胆な抽象画は、美術展で入賞したこともある。わたしにはない芸術的センスを、彼女は持っているはずだった。

「もちろん、わたしは自分の絵に誇りを持ってるわよ。そして麻奈ちゃんは、このわたしが見込んだ後輩ってわけ。麻奈ちゃんが描く線はのびやかで柔らかい。本当の可愛らしさを描ける人だってわたしは思ってる」

「……そんなはずないです。わたしはちっともうまく描けないし」

「わたしの見立てを疑うの」

「そういうわけじゃ……」

「麻奈ちゃん」

 七瀬は近づいてきて、わたしの顔を覗き込んだ。今日は仕込みをしていないはずなのに、七瀬からかすかにパンの甘い香りがした。

「麻奈ちゃんは、美術部の部室で最初に描いた絵を覚えてる?」

「最初に描いた絵……?」

 わたしは、高校一年の頃の記憶を掘り起こそうとした。入部届けを出して部室に行くと、きのう入ったばかりの一年生がいると紹介されて……。その時初めて見た春樹の横顔と、彼が描きかけていた絵が思い浮かぶ。それは、自転車に乗っている人の絵だった。スケッチブックの中で、モデルの人はちゃんと自転車を漕いでいる。見ていると、通り過ぎる瞬間の風さえ感じた。わたしは打ちのめされ、その場に跪きたいような気がした……。

「覚えてないかなあ……。入部する前、ここに見学に来たでしょ。三年生の理系は補習があった日で、部室にはわたしと麻奈ちゃんの二人きりだった」

「……あ……」

 わたしの記憶の箱が、きしみ音を立てながらぎぃと開いた気がした。春樹と初めて会ったシーンがまぶし過ぎて、その隣にあった箱には気づきもしなかったのだろう。



『ねえ、イラストしりとりしようよ』

 あの時七瀬は、そう言って白いA4用紙を出して来た。彼女はまずそれに、ペンでさらさらと船の絵を描いた。シンプルな蒸気船だった。

『さあ、あなたは『ね』で始まるものを描くのよ』

『『ね』……ですか?』

 『ね』と言われて、わたしはそれしか思い浮かばなかった。わたしは迷うこともなく、それをすらすらと描き始めた……。



「……先輩の前で……猫を描きました」

「そうよ。やっと思い出してくれたわね。顔を洗ってる猫とか、前足を丸くしてる猫とか、いろいろ描いてくれて」

「……しりとりなのに、わたし、描きだしたら止まらなくなっちゃったんですよね」

「そうそう。わたしまで猫を描きだしちゃってね。結局A4の紙が、猫で埋まっちゃった。でも、楽しかったなあ……」

「そうですね。わたしも…楽しかったです…」

あの頃、わたしの頭の中と指先は、今よりももっと太いパイプで繋がれていたような気がする。だから、思ったことが、指先ですぐ形になる。感じたこと、考えたことが、スムーズに指へと流れ落ちてくる感じだった。

「でもその後、麻奈ちゃんは楽しんで絵を描けなくなってた。……そうよね?」

「わたしは……」

「周りに絵のうまい人がたくさんいて、すっかり委縮してしまったんじゃないかな。自分が描く意味を見失っていたのかもしれないわね」

 そう。春樹の絵を見た瞬間、きっとわたしの頭の中と指先をつなぐパイプは折れてしまったのだろう。自分が絵を描く意味など、どこにもない気がした。

 それでも美術部に居続けたのは、ただ春樹と同じ空間にいたいからだった。不純な動機を正当づけるために、わたしは切り花を黙々と模写し続けた。目立たない花を愛する目立たない人間を演じ続けたのだ。

「あの頃のわたしは、麻奈ちゃんがそんな状態にいるって事に気付けなかった。まだ子供だったのね。でも今、いろんな経験をした後であの頃のことを振り返ってみると、麻奈ちゃんの気持ちが透けて見え始めた」

「七瀬先輩……」

「にや~あ」

 その時、窓の向こうでのんびりと間延びした声が聞こえた。

「あっ、リリィが来たわ。いつもは裏に回ってもらうけど、今日は特別ね」

 七瀬は窓に駆け寄って鍵を開ける。そして窓を少し開いた所で、その小さくて白い体がぴょんと部屋に飛び込んできた。わたしの家に顔を見せ、春樹の部屋にも出入りするあの白猫だった。

「この猫、七瀬先輩の猫なんですか」

「そうねえ……多分何分の一かは飼い主よね」

 七瀬はそう言って笑った。

「いくつも家があって、それぞれの人から大事にされてるんだと思うわ。『リリィ』って名前はお向かいの人に教えてもらったんだけど、その人も名付け親じゃないの。誰が名前をつけたのかわからないけど、でもみんなの猫なのよ。うちはパン屋だから、餌をあげるのは裏口から出た外って決めてるんだけどね。でも、今日は特別に来てもらった。モデルさんとしてね」

「モデル……。わたしがこの子を描くんですか」

「そうよ。決まってるじゃない」

 リリィは、無邪気な顔で七瀬の足にすり寄っている。七瀬は棚の上から猫用の缶詰と皿を出してきて、それをテーブルの上に置いた。

「餌の量は、麻奈ちゃんが調節してあげて。モデルさんの機嫌を損なわないようにね」

「でもわたし……描けるかどうか……」

 わたしは慌てた。七瀬の期待にこたえられる自信がない。七瀬はそんなわたしに微笑みかけ、リリィの頭をさらりと撫でた。

「麻奈ちゃんは、この子を見てどう思う」

「……すごく可愛いなって思いますけど」

「よろしい。じゃあ、描けるよ。後はよろしく。頃合いを見て、リリィを開放してやってね」

 七瀬は軽く手を振って、そのまま部屋を出て行った。

「にやあ」

 リリィが、今度はわたしの足にじゃれつき始めた。ここにおいしい物があることを、リリィはちゃんと知っている。

「……ああ、ちょっと待って」

 わたしは缶のプルタブに手を掛けたが、それは固くてなかなか開かなかった。

「ごめん、もうちょっと……」

「にやっ……」

 リリィはさらに近づいてきて、わたしに顔をこすりつけてくる。わたしはその時、リリィの髭に何かがついているのに気づいた。指先でつまんでみると、それは薄く削られたかつおぶしだった。

「……リリィ、これ、どこでもらったの」

 わたしの頭の中に、リリィにかつおぶしを差し出す春樹の姿が浮かんだ。春樹もまた、この猫を描いたりしているのだろうか。それとも、怯えた目をしたままこの猫に救いをもとめているのか……。

「にやっ」

 突然リリィが、わたしの指をなめた。つまんだかつおぶしを見つけたのだろう。小さな舌はくすぐったくて、でもちゃんと暖かだった。そのぬくもりに、少しだけ勇気づけられたような気がした。

「リリィ。……ありがとう」

 わたしは立ちあがり、少し力を込めて缶を開けた。

「お待たせ。それ食べたらわたしに描かせて。うまくできるかどうかわからないけど、でもやってみるよ」

 缶の中身を皿に開け、リリィに差し出す。リリィは、すぐさまその鼻を皿に突っ込んだ。



 動物を描いたのはほんとうに久しぶりだった。最後に描いたのが高校一年の時だから、もう五年経っている。プレートに鉛筆を置く瞬間は手が震えた。でも、それは最初だけだった。すぐに手が勝手に動き始めた。描きたい、という衝動が、次から次へとわいてくるようだった。あの時折れたパイプが、もう一度繋がったのかもしれない。

 わたしは、自分の心からあふれてくるものを指先から放ち続けた。心というのは、こんなにもなにかで満ちているものだなんて知らなかった。それはどこまでも広がる深い湖のようだった。



「……麻奈ちゃん……麻奈ちゃん……」

 まるで夢から覚めるような感覚だった。『もっとこの夢を見ていたい』わたしはそう思いながらのろのろと顔を上げた。視界の中に、七瀬の顔がぼんやりと映り込んだ。

「そろそろ休憩しなさい。倒れちゃうわよ」

「……え……」

 壁の時計に目をやると、驚いたことに午後二時を回っていた。わたしは、お腹一杯になって丸くなっているリリィを描いている所だった。

「わたし、こんなに長い間……」

「描いてると、時間わかんなくなっちゃうことあるよね。でもそういう時はいいものが描けてるのよ。リリィもよく付き合ってあげたわね。ありがとう」

 七瀬が背をなでると、リリィは起き上がって体を伏せ、ふうっと伸びをした。それから窓のそばによって、短く「にゃん」と鳴いた。

「もう解放してあげていいかな」

「はい……リリィ、ありがとうね」

 七瀬が窓を開けると、リリィはふわりと跳び上がり、そのまま外に消えた。目の奥に、白い流れ星のような残像が残った。

「いいのができたじゃないの。全部可愛いよ。さすが、わたしが見込んだ後輩ちゃんだ」

 完成したボードが五枚、描きかけが一枚。すべて鉛筆で下書きをしてから、アクリル絵の具で彩色した。リリィの可愛らしさを前面に出して、でも、店に飾るものだからできるだけすっきりとシンプルに。全力を出して描いた絵はわたしの子どもみたいなもので、無条件に愛しかった。

「楽しかったって顔ね」

 七瀬はにこにこ笑いながらわたしの顔を覗き込んだ。その瞬間、わたしの中の『描きたい』という衝動が再び疼き始めた。

「今度は七瀬先輩を描いてもいいですか」

「え?わたし?」

「はい。このお店に飾るんだったら、七瀬先輩の絵も是非必要です」

「わたしもかわいく描いてくれるってわけね。それはうれしいわ。でも、その前に」

 七瀬はわたしの後ろに回って、軽く背を押した。わたしはそれだけで、よろよろと倒れそうになった。

「ちゃんとお昼食べなさい。さっきパスタをゆでておいたからね。パン屋さんのまかないがパスタなんて、滅多にないわよ」

「……はい。ありがとうございます」

 食べることも忘れて絵を描き続けるなんて、いったい何年振りだろうか。わたしは心地よい疲労感を感じていた。体は重いのに、心だけはふわふわと浮きあがってしまいそうだった。



◇ ◇

 夕方になって、わたしは店の外壁にも絵を描くことになった。

 『元気な猫は外に出たがるものよ』

 七瀬の一言で、わたしはすぐに飛び出して行く。今日のわたしは、どこへでも描ける。右手が、いや体全部がそう訴えていた。

 筆にペンキをつけ、今度は下書きもなしにいきなり描き始めた。『可愛い猫』『元気な猫』そう思うだけで、体が勝手に動き出す。わたしが思う通りの猫が、指先からどんどん飛び出して行った。

 猫を何匹か描き終わった後、ふいに日が陰ってきてわたしは空を見上げた。いつの間にか、暗い雲が空を覆い始めている。朝テレビで見た天気予報では、『雨が降る』なんて一言も言っていなかった。でも、今日はもうやめた方がいいのかもしれない……。筆をトレーに入れた、ちょうどその時だった。

「これ、麻奈が描いたの?」

 突然、後ろから声が聞こえた。心の中で、何度も何度も聞いていた声だ。わたしは一瞬、全身が硬直したように動けなかった。

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