第一話 貝殻
電車はゆっくりと速度を落とし、やがて静かに停止した。さっきまであんなに轟音を立てて走っていたのに、止まった瞬間は驚くほどの静寂だった。
『花宮』
ホームに取りつけられたプレートの文字が、わたしの視界に飛び込んでくる。
わたしはここで電車を降りると決めていた。中学・高校時代を過ごした、懐かしい土地の駅だ。
それでも、いざとなるとわたしは怖さを感じた。足先が冷たくなって、じわじわと痺れていくようだった。三年間離れていたことで、わたしは臆病になっているのだろう。ここで降りれば嫌でもあの頃の濃密な記憶に触れることになるから。
あの頃のわたしは、今よりもずっと繊細でたくさん傷ついた。思い出すことは、擦り傷をなぞるようなものだった。
いっそこのまま電車に乗り続けて、元いた場所に戻ってしまうという選択肢もある。今ならまだ可能だ。一瞬、わたしの中の軟弱な部分が賛成の挙手をしようとする。だめだ。それでは決心して電車に乗った意味がない。
わたしは仕方なく立ちあがり、開いた扉から外に出た。茶色のローファーが固いコンクリートを踏みしめる。その瞬間、ホームを撫でるようにして風が吹いた。
「あっ……」
身構える暇がなかった。わたしはその風を思い切り吸い込んだ。それは冷たく澄んでいて、少しだけ潮の香りがした。まぎれもない、花宮の風だった。
海はそれほど近くはない。高台から見下ろすと視界に入る程度だ。でも、この町にもほんの少しだけ潮風がやってくる。そうしてこの空気に、わずかばかりの塩を落とすのだ。
駅のホームを歩きながら、わたしは誰にもわからないように小さな深呼吸を繰り返した。浜辺に落ちている小さな貝殻を拾い集めるみたいに、空中に潜む塩の結晶をそっと集めて行く。
懐かしさにほだされたわけじゃない。わたしはまだ、花宮が怖い。ただ、きれいなものに反応してしまう、子どもみたいなわたしがそうさせている。
集めた結晶は、わたしの胸の中に音もなくきらきらと降り積もった。とてもきれいなのに少しだけとがっていて、時々ちくりと痛んだりした。