彼女の始まり
自分の行動一つで多くの命が無くなっていく。
伝達が間に合わず多くの命が散って行った、この情報一つで何万人の、人の行動が左右される。
そうして心が削られ、いよいよ狂うというときに、彼女は実に巧妙な思い込みでもってその意思を守った。
『人に優しくすること』そして『自分自身に嘘をつく』という方法を用いて。
彼女を支えたのは、ひとえに――『ああ』はなりたくないという思いだった。
『この世界の常識』への恐怖だった。他人を犠牲にする恐怖。
彼女は、彼女の当たり前を壊したくないその一心で、何とか最後まで『望む自分』を取り繕った。
『他人を殺して生きようとする自分』は、自分が帰りたい故郷よりも、人を人と思わないこの世界の人間に近い。
彼女は優しい人、という仮面をかぶり続けたが、聖女ではない。
そういう『正気』でいること自体が苦痛だった。
狂ってしまう方が楽だろうが、彼女の根本が日本人であるだけに、道徳概念を捨てる事はもっとも大きな恐怖だった。
普通ではないから、この世界の普通じゃない自分はそれ自体が怖いから。
現状は非常時だが、『日常』において在るべき姿を振る舞うことで、精神の安定を図ろうとしていた。
言葉と一緒に飲み込んだ憎悪、悔恨。
ここに日本人である ** *** は存在しない。そして、私は助からない。
どうせ死ぬなら、きれいに死にたい。自分を貫き通し、日本人として死にたい。
人間にはそれが可能だ、だから私にもできる。
確かに彼女は当初こそ諦めていなかった。
けれど戦争に長くいた間、多くの人間がつぎつぎと物言わぬ屍になる間に、彼女は自身の生存する可能性はないと感じた。
狂いそうだった。
諦めそうだった。
だから、彼女は自分に嘘を吐いた。
私は、狂わないと。最後まで意思を絶やさないと。優しくできると。周囲の人に、自分自身に。
そうして彼女の望みは叶えられた――
*****
だれかが私を異端だと言う、それは違う。私の普通がこの世界の普通でないなら。私はそんなものになりたくない! 私は私をやめたくない! 大切なのは私がどう扱われるかじゃない、私がどうありたいかだ! 私は、私は、日本人でありたいッ!
髪の色や肌の色、目の色、話す言葉、何が変わるというのだろう。
文化か。
生まれか、育ちか。
尊さか。
人間に優劣など無いというのに。
脳の重さなど大した比にはならない。
大切なのは相互の理解、そしてより良きものの共有だ。
与えられる侮蔑に、誇りを持った言葉は一蹴された。
調子に乗るな。
お前たちは俺たちに使われるために在る、と。
何が、どう違うというのか。
悲しければ泣く。嬉しければ笑う。流れる血は赤い。
同じだろう。同じじゃないか。
心がしびれていく。
攻めないで。殺さないで。殺したくない。
でも、でも、と震える心のまま、ちきり、と刃を鳴かせる。
必ず帰還するという意思表示。けれど、帰還はなされない。
分かってる。本当は分かってる。
目を覚まし、剣を持て。
警戒せよ、もはや帰れない故郷を思い。
――戦が、始まるぞ。
黒は日を集める。
熱い熱い。
この黒は、緋を集める。
憎しみ、悲しみ、怒り、嘆き。
その中でなお、穢される事のない、愛情、憐憫、自己犠牲
――そして相手を思いやり、肯定する心




