温かな日常
「――兄さん。刻矢兄さん、そろそろお昼の三時なので起きてください」
少女の優しい声により、男――柊刻矢がリビングのソファの上で目を覚ます。
「おはよう姫陽。もう三時か」
刻矢がソファから、愛すべき妹の姫陽を見上げる。更にソファから起きようとするが、何故だか体が重く感じた。視線を自身の腹に向けると、そこには一匹の猫が身体を丸めて眠っていた。シルバータビーの毛に包まれたアメリカンショートヘアの成猫が、気持ち良さそうに腹の上で眠っている。
「なあ姫陽。俺の腹にクロエが寝てるんだが、何とかしてどかしてくれないか?」
「クロエちゃんが可哀想なので、しばらくそのまま寝かせてあげましょう兄さん」
「つまり、俺は起こされ損か」
溜め息をつくと、姫陽がクスクスと刻矢とクロエを笑う。刻矢が困った表情で姫陽を見つめる。
「今日の晩飯担当は俺だったよな? このままクロエが起きないと下ごしらえすら出来ないんだが」
「じゃあ、私が作って食べさせてあげます」
意地でも動かす気が無いと悟った刻矢は、諦めの表情で再び寝る体勢へと戻る。
「お前は幸せそうで良いなあ」
そう言いつつ、刻矢は腹の上で眠っているクロエを優しく撫でる。すると、起きる気配は無いものの飼い主である刻矢に甘えてくるかの様にクロエが胸元まで寄ってきた。そんなクロエに微笑みながら、刻矢は優しくクロエを右手で抱き締める。
「その言葉、そっくりそのまま兄さんに返します」
「確かに」
姫陽の言葉を刻矢は肯定する。
この日常がいつまでも続けば良い。そう思いながら左手で姫陽の手を強く握る。
「兄さん?」
「いや、お前の言葉は正しいなと思ってた」
ささやかな幸せを噛み締めつつ、刻矢は今を守り続けたいと強く願った。たとえ、どれだけ犠牲を払おうと姫陽と幼馴染みの麗那だけは絶対に裏切らない。そう思いながら――
「ところで兄さん」
「どうした姫陽?」
刻矢がしばらく考え事をしていると、急に姫陽が話し掛けてきた。
「私来月から高等部に進学します」
「そうだな、おめでとう姫陽」
刻矢が本当に嬉しそうな表情で姫陽を撫でる。姫陽は最初くすぐったそうだったが、しばらくすると撫でる手に身を委ねる。
「明日、私のお祝いのためにと麗那さんが買い物に付き合ってくれるのです」
「お前と麗那が行くなら俺も行って良いか? お前の祝いだ。俺が祝わないわけないだろ」
刻矢の言葉に対し、姫陽が赤面しつつ信じられないといった表情で刻矢を見つめる。
「い、良いんですか?」
「構わないさ。春休み以前に予定が無いし」
すると、姫陽が嬉しそうな表情で刻矢に笑顔を見せる。たまにはこういうのも悪くないな。刻矢はそう思っていた。
「じゃあ、今から麗那さんに連絡しますね」
「ああ」
刻矢が返事をすると、姫陽が携帯で連絡を取り始める。同時に、刻矢が抱いている飼い猫のクロエが動き出した。刻矢が見ていると、クロエが眠たそうに欠伸しながらゆっくりと目を開ける。
「おはようクロエ」
刻矢が挨拶すると、クロエはまだ眠たいのか軽く鳴きながら刻矢の右肩まで寄ってくる。
「起きたのは良いが、余計に起きられなくなったな」
刻矢がクロエを撫でると、クロエが尻尾を立てながら擦り寄ってくる。流石の刻矢もクロエを動かす事は諦めたらしく、クロエのやりたい様にさせる事にした。
「兄さん。麗那さんは歓迎するそうです」
「そうか。なら、明日買い物にいこう姫陽。望むならば美味い飯屋とスイーツ店でおごってやる」
「本当ですか!?」
「ああ、本当だ」
刻矢が約束すると、姫陽が嬉しそうに回り出す。だが、刻矢の近くにいるクロエだけは不満そうに鳴いている。
「勿論クロエも一緒だ」
刻矢の言葉を理解したのか、クロエがサイレンの様に鳴き始める。明日の計画を真面目に考えないとな。刻矢はそう考えた。