泡とともに水底から
ポコポコと泡が湧き出る音が聞こえる。
目を閉じて、静かな水底に横たわるイメージをする。
これは私が時々やっている、寝る前の儀式のようなものだ。
川のせせらぎや小鳥の声、癒やしを求める人たちに向けたそんな動画や音楽は世間にあふれている。
私の好きなのは、音だけで音楽などがついていないもの。
最近見つけたこの泡の音動画もそうで、気に入っている。
ポコポコと泡が湧き出る音をイヤホンで聴きながら眠りに落ちていく。
どこか遠くから、名前を呼ばれる夢を見た。
最初は、小さな違和感だった。
玄関のドアを開けると、マンションの廊下にポツポツと小さな水たまりができていた。
まるで、びしょ濡れの誰かがそこで立ち止まったかのように。
しかしここ数日、天気はずっと晴れだ。
「…変なの」
誰にも聞こえないくらいの声でつぶやいて、私はそのまま会社に向かった。
廊下の水たまりのことなど、すっかり頭から消え去っていつも通りの日々を過ごして週末になった。
今週は忙しかったし、家に帰ったらお湯をためてゆっくりつかろうかな。
それを楽しみに家に帰り、浴槽にお湯を張って、お気に入りの入浴剤をひとつ。
それは目の前でシュワシュワと溶けていく。
「ふわ〜生き返るぅ」
ゆっくりと身体をお湯の中にひたしていくと、気の抜けた声が自然と出た。
それからスマホでSNSをチェックしたり、適当に動画を眺めたりしてダラダラと過ごしていた。
コポ…
小さな泡の音が聞こえた。
スマホを見ていた目をそのままスライドさせて見ると、お湯の中、私の足の下から小さな泡がいくつか浮いてはじけて消えた。
入浴剤の欠片でも残ってたかな?
首を傾げながら浴槽の底を触ってみるが、何も手応えはなかった。
その日の夜、うとうとと寝落ちしそうになっている私の耳に、遠くかすかな声が聞こえた。
「みーちゃん」
みーちゃんなんてしばらく呼ばれてないな…だれ…?
ぼんやりと思い出をたぐろうとするが、私の意識はそのまま眠りに落ちていった。
またマンションの廊下に水たまりができていた。
しかし今回は、私の部屋の前にだけ。
ドアの前に立つ何者かを想像して、ゾッとした。
最近変な人と関わったことあったっけ?と考えてみるが、思い当たる出来事はまったくない。
私が何かしてると思われたら嫌だなぁ。
続くようなら管理会社に連絡してみようか、そんなことを考えていたのはまだ平和だった。
なんとなく寝れなくて、何か聞こうと動画を漁っていた。
泡は今夜は気分じゃないな。
静かな森の小鳥のさえずり、これにしよう。
にぎやかな鳥のさえずりの奥で、かすかに小川のせせらぎも聞こえている。
目を閉じて聞く。少し、鳥の声がにぎやかすぎるかも…そう思った時。
ポコポコと泡が湧き出る音が聞こえた。
イヤホンの線を引きちぎるようにつかんで耳から離す。
うるさいほどの鳥の声は消え、静まり返った部屋の中、ポコポコと音がした。
寝るときはいつも閉めているはずの、部屋のドアが開いていた。
真っ暗な玄関へと続く暗がりに、薄ぼんやりと何かが見えた。
足、だった。
「ヒッ」
悲鳴のような、空気のような変な音が、私の喉から出た。
膝から下が、ぼんやりと浮かび上がるように夜目にもはっきり見えていた。
小さくて細い、「男の子の足」だとなぜかわかった。
ポコ…ポコポコ…
泡が湧き出る音。
部屋の中がまるで水中になったように。
「みーちゃん」
膝下だけのナニカが、私を呼んだ。
悲鳴すら上げられずガタガタと震えているのに、なぜか私の口は勝手に開いていた。
「あーくん」
そのまま私は気を失った。
ぞっとするほど明るい朝日の中で、いつも通りの時間に鳴ったアラームで目が覚めた。
瞬間、昨夜のことを思い出して部屋の入り口を見れば、何事もなかったかのようにドアは閉まっていた。
恐る恐る近づいてみる。
震える手を取っ手に伸ばしては引っ込めを何度か繰り返し、ようやくドアを開けた。
いつも通りの空間が、ただそこにあった。
ではあれは夢?
私が呼んだ「あーくん」なんて人は知らない。
でも知っていた。
私は確かに知っていたのだ。
その日は金曜日で、私は定時で仕事を終わらせると、急いで帰宅して手早く荷物をまとめ、実家へ向かう電車に飛び乗った。
実家の最寄り駅に着いたのはもう遅い時間だったが、タクシーがいたので問題なく帰れた。
急に帰省した私に両親は驚いたが、なんとなく笑ってごまかして、遅い晩御飯を食べて寝た。
泡の音は聞こえなかった。
翌日、私は家のアルバムを引っ張り出して1ページ1ページ確認するように眺めた。
やがて1枚の写真で手が止まった。
幼い私と男の子が並んで写っている。
2人とも満面の笑みだ。
この子が「あーくん」だ!本能的にそう確信した。
でも私はこの男の子を知らない。
「それアキフミくんね。アンタと仲良かったのよ」
母に尋ねるとあっさりと名前がわかった。
「この子今どうしてるの?」
しかし私が尋ねると変な間があって、母にしては妙にはっきりしない口調でその後を続ける。
「それがね、Oヶ池で溺れて死んじゃったのよ。…その後アンタ熱出して寝込んじゃって、熱が下がったときにはアキフミくんのこと覚えてなかったの。ショックが強くて、心が封印したんだろうって…」
それを聞いても「アキフミくん」のことは思い出せなかった。
まるで知らない人のよう。
だけど知っている。
奇妙な、自分が二重になったような不安定さが身体を占めていく。
「みーちゃん」
それはもう、あーくんの声だとわかっていた。
恐怖と、妙な懐かしさと。
気がつけば、サンダルを履いて家から出ていた。
我が家からOヶ池は目と鼻の先。
子供の頃は遊び場の一つだった。
危ないと大人たちに言われても、子どもは遊びに行くものだ。
そう言えば、いつの頃からか、池にあまり近寄らなくなったな。
もしかしてそれが、アキフミくんの事件のあとなのかもしれない。
Oヶ池の周りをゆっくりと歩く。
こんなに近くまで来たのは何年ぶりだろう。
そうして、思い出と目の前の景色が重なって、私は足を止めた。
水面に泡が湧き上がっていた。
水が湧き出る場所で、地下水とともに小さな泡が砂地から湧いて出るのが子供心に面白くて眺めていたのだ。
「ポコポコの基地!」
唐突に、子供の声が頭の中に響いて、封じていた記憶が奔流のようにあふれ出た。
そうだ、私たちは互いを、「みーちゃん」「あーくん」と呼び合い、毎日のように遊び回っていた。
走ったり、水遊びしたり、ポコポコ湧き出る泡を近くで見たり。
あーくんは都会から来た子で、そのうちまた戻ってしまうらしいと聞いていた。
その日は突然やってきて、あーくんは言った。
「ぼく、もうすぐむこうのおうちに帰るんだって」
行かないで。私は思った。
帰らないで。ずっとここにいて。
隠れてしまおう。おとなから見つからないように。
そして私は、あーくんを水に沈めた。
溺れて死ぬなんてわからなかった。
ただ水の中に隠れてしまおうと思っただけだった。
でもあーくんは簡単に死んでしまった。
私も溺れて見つかってしまって、そのあと集まった大人たちの雰囲気を感じて怖くなって、意識がなくなった。
ポコポコと泡が湧き出る音がした。
泡はずっと湧き出ていた。
あーくんがあの頃と同じ姿で立っていた。
「遅くなってごめんね、あーくん」
私はゆっくりと、水の中に足を進めた。
あーくんは嬉しそうに手をつないだ。




