第一話 消えた女
昨日まで、確かにそこにいた。
朝、目を覚ましたとき。隣の布団は、綺麗に畳まれていた。
乱れた形跡も、急いで出ていった様子もない。
ただ、最初から誰もいなかったかのように整えられている。
お雪は、息を呑んだ。
そんなはずはない。昨夜、確かに話をしたのだ。
灯りを落としたあと、小さな声で笑い合った。
「ここは怖いところね」
そう言って、彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
名前は、お鈴。
入ってきたばかりの娘で、まだこの場所の“決まり”に慣れていなかった。
それでも、明るく振る舞おうとしていた。
——そのお鈴が、いない。
障子の向こうから、女たちの足音が聞こえてくる。
いつもと同じ朝。何も変わらない日常。
なのに、この部屋だけが、何かを失っている。
「……お鈴?」
小さく呼んでも、返事はない。
お雪は立ち上がり、廊下へ出た。
冷たい板の感触が足裏に伝わる。
女たちは、何事もない顔で行き交っている。
笑い声すら聞こえた。
——おかしい。
「あの……」
近くを通りかかった女に声をかける。
「お鈴を見ませんでしたか?」
女は一瞬だけ、お雪を見た。
その目には、感情がなかった。
「……誰のこと?」
「昨夜、一緒だった……新しく入った——」
「知らないわ」
ぴしゃりと遮られた。
それ以上、何も言わせないというように、女はすぐに背を向けて去っていく。
お雪は、その場に立ち尽くした。
知らない?
そんなはずはない。同じ部屋で寝起きしていたのだ。顔も名前も、知らないわけがない。
なのに——
誰もが“知らない”と言う。
まるで最初から、そんな女はいなかったかのように。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
そのとき。
「探してはいけません」
後ろから、静かな声がした。
振り返ると、年かさの女が立っていた。
この場所を取り仕切る者の一人だ。
「ですが……昨日まで——」
「ここでは、よくあることです」
淡々とした声だった。
怒りも、悲しみもない。ただ事実を告げるだけの声。
「よく……ある?」
「ええ」
女は、わずかに微笑んだ。
「消えるのです」
その言葉は、あまりにも軽かった。
まるで、季節が変わることを話すかのように。
「理由は……?」
お雪の問いに、女は答えなかった。
ただ一歩近づき、そっと囁く。
「理由を知ろうとする者も、消えます」
息が止まった。
「……どうして……そんな……」
「ここは、そういう場所です」
女は背を向ける。
「忘れなさい。そうすれば、生きていけます」
足音が遠ざかっていく。
お雪は、その場から動けなかった。
忘れろ?
昨日まで笑っていた人を?
同じ部屋で、同じ夜を過ごした人を?
そんなこと——できるはずがない。
だが。
廊下の向こうで、女たちはまた笑っている。
何も知らない顔で。何もなかったように。
その光景が、何よりも恐ろしかった。
ここでは、人が消える。
理由もなく。
痕跡もなく。
誰の記憶からも。
——まるで最初から、存在しなかったかのように。
お雪は、自分の手を見つめた。
震えている。
もし、自分が消えたら——
誰かが、こうして思い出してくれるのだろうか。
それとも。
誰の記憶にも残らず、消えるのだろうか。
答えは、どこにもない。
ただ一つ、確かなことがある。
ここは——
生きているだけで、消される場所。
それでも、笑わなければならない。
何も知らないふりをして。
何も見ていないふりをして。
生き残るために。
お雪は、ゆっくりと顔を上げた。
遠くで、誰かが笑っている。
その声が、やけに遠く聞こえた。
そして、心の奥で何かが静かに壊れた。
——ここは、大奥。
逃げ場のない、女たちの檻。




