20
王宮に戻ったある日、セレスティーナはカイルとともに廊下を歩いていた。
「最近、王宮の雰囲気がずいぶん変わったわね。」
「そりゃあ、殿下が動いたからな。」
カイルがさらりと言った一言に、セレスティーナは眉をひそめる。
「……動いた?」
「ん? ああ、まぁ……お前が気にすることじゃねえかもな。」
「……何それ、気になるわ。」
(カイルはたまに口が軽いけど、こういうときにごまかされるのは気に障る。)
結局、その場で深く追及することはできなかったが、数日後——。
ヴィンセントとの会話の中で、セレスティーナは決定的なことを知る。
王宮の書庫で、ヴィンセントが書類を整理しているところに、セレスティーナが立ち寄る。
「何の書類?」
「王宮の内部管理に関する記録だ。」
「……?」
「正確には、王宮の運営改革の記録と言うべきか。」
「改革……?」
ヴィンセントは何気なく一冊の報告書を開き、セレスティーナに見せた。
「これを見れば、お前も分かるだろう。」
そこには、過去十年以上にわたる王宮内の人事改革や権力構造の調整の記録があった。
「……これは、どういうこと?」
「王宮内の腐敗した官僚を少しずつ排除し、君の負担が増えないような体制を整えるための施策だ。書類仕事の調整、側妃派閥の弱体化、礼儀作法や王妃教育の負担軽減……すべては、一人の人物の意向で進められてきた。」
「……誰の?」
「言うまでもない。」
ヴィンセントは書類の一部を指で軽く弾いた。
——“第一王子レオナルト・アシュレイの指示により、実行”
セレスティーナは息を呑んだ。
(……そんなこと、一言も聞いてない。)
王宮の“改革”は、すべて彼が計画し、少しずつ実行してきたものだった。
しかも、それは最近始まったものではなく——
「……この記録、十年前からあるわね。」
「そうだな。」
ヴィンセントは淡々と頷く。
「君がまだ幼い頃から、殿下はこの計画を進めていた。」
——十年前から。
つまり、セレスティーナが「婚約」という言葉すら意識していなかった頃から、レオナルトは彼女が王宮で負担を感じずに生きていけるように、環境を整え続けていたということになる。
「……」
セレスティーナは、書類を持つ手がわずかに震えるのを感じた。
(どうして……こんなこと、黙っていたの?)
彼に問いたださなければならない——。
そう思った瞬間、ちょうど王宮の回廊を歩くレオナルトの姿が見えた。
「レオナルト!」
セレスティーナは迷わず彼を呼び止めた。
レオナルトは足を止め、ゆっくりと振り返る。
「……どうした?」
セレスティーナは、報告書を突きつける。
「これ、どういうこと?」
彼は、一瞥すると淡々と答えた。
「君が快適に過ごせるように、王宮を整えた。」
「それは分かってるわ。でも——どうして、こんなことを?」
彼は少しだけ考えるように視線を落とした後、静かに微笑んだ。
「……君は自由を求めているが、私の中ではずっと“自由”の定義が違う。」
「……どういう意味?」
レオナルトは、セレスティーナの目をまっすぐに見つめながら言った。
「君が王宮にいても、自由でいられるように、私はずっと準備してきたんだ。」
「……」
「君が窮屈に思わないように、負担が増えないように、邪魔なものを取り除いてきた。側妃の影響力を削ぎ、余計な仕事が押し付けられないようにし、君がこの場所にいても苦しくならないように——。」
「……だったら、どうして最初から言わなかったの?」
「言う必要がなかった。」
「……」
「君が気づかないうちに、君の世界が“自由”になるのが理想だった。」
(……なんてこと。)
セレスティーナは、今まで必死に「逃げ場」を探していた。王宮にいることを「囚われ」と思っていた。
でも、レオナルトは最初から——
逃げる必要のない環境を、ずっと水面下で用意し続けていた。
「……ねぇ、私の自由はどこへ?」
もう一度、同じ言葉を問いかける。
レオナルトは、迷いなく答えた。
「ここにある。」
彼は、王宮の庭を指し示す。
セレスティーナは、その指先を見つめながら小さく笑った。
「……それは自由じゃなくて、監禁よ。」
レオナルトは微笑んだまま、何も言わなかった。
だけど——彼の本心を知った今、セレスティーナはもう「ここから逃げたい」とは、簡単には言えなかった。
王宮の夜風が静かに流れる中、セレスティーナはじっとレオナルトを見つめた。
彼は相変わらず落ち着いた表情のまま、微笑を崩さない。
「私は、ただ……逃げたかったのよ。」
「知っている。」
レオナルトの声には、迷いがなかった。
「君が婚約破棄を望んでいたことも、王宮を窮屈に思っていたことも、すべて分かっていた。」
「だったら——」
「だからこそ、逃げる必要がない環境を作った。」
セレスティーナは思わず息を呑む。
「……あなた、そんなことのために、十年以上も?」
「そうだ。」
淡々とした声だったが、その響きはどこか温かかった。
「君がどこにいても快適でいられるように、君が負担を感じないように、君が“自由”でいられるように——それだけを考えていた。」
「……」
「王宮にいることが苦しくないなら、逃げる理由もないだろう?」
それはまるで、最初から答えが決まっていたかのような口ぶりだった。
(……ああ、もう。)
どこにも逃げ場がない。
それが、もどかしくて、そして少しだけ——心が温かくなるような気がした。
セレスティーナはゆっくりと目を伏せ、深く息を吐く。
「……あなた、本当に……ずるいわね。」
レオナルトは、その言葉には何も答えず、ただ彼女の手をそっと取った。
その手は暖かく、力強かった。
「君の自由は、ここにある。」
彼はもう一度、そう繰り返した。
「……本当に?」
「……ああ。」
セレスティーナは、しばらく黙っていたが——
やがて、静かにその手を握り返した。
その瞬間、レオナルトの黄金の瞳が、少しだけ柔らかく光ったように見えた。




