16
翌日、セレスティーナ・エヴァンジェリンの元に、予想外の訪問者がやって来た。
「……あなたが私のところへ来るなんて」
書斎で書類に目を通していたセレスティーナは、扉の前に立つアリシア・ローゼンベルクを見て、珍しいものでも見たかのように眉を上げた。
(王子ではなく、私に直接会いに来るなんて。)
アリシアは腕を組み、明らかに不満そうな顔をしている。
「……ええ。」
その返事だけで、相当な葛藤があったことが分かる。
「何か御用かしら?」
セレスティーナは優雅にカップを持ち上げながら尋ねると、アリシアは一瞬目をそらし、ぎりっと歯を食いしばった後、ようやく言葉を絞り出した。
「……マナーを、教えてほしいの。」
静寂が落ちた。
セレスティーナは、カップを持つ手を止め、ゆっくりとアリシアを見つめる。
(……あら。)
これは、なかなかの展開ね。
今まで王宮の格式ばった環境を軽視し、己の感情のままに動いていたアリシアが、自ら貴族のマナーを学ぼうとしている。
(なるほど……ユリウスが何か仕掛けたのね。)
アリシアの振る舞いに無関心だったユリウスが、ここ最近になって彼女に接するようになった。彼が直接何を言ったのかは分からないが、アリシアがこうして頭を下げるまでに至ったということは、それだけの理由があったのだろう。
「……どうして、私に?」
「……くっ……!」
アリシアは明らかに悔しそうに唇を噛みしめた。
「他に頼れる人がいないのよ!」
「王宮にはマナー講師もいるでしょう?」
「そ、そんなの……! 貴族の講師はみんな、私のことを見下してるもの!」
(それはまぁ、そうでしょうね。)
もともと彼女は王宮において「聖女」という立場を利用して、貴族社会に順応しようとはしなかった。いまさら「教えてほしい」と言ったところで、まともに取り合ってくれる講師がいるとは思えない。
「……あなたなら、私のことをそこまで見下したりしないでしょう?」
「ふふ……」
セレスティーナは小さく笑った。
(ええ、まぁ、見下してはいないわ。でも——)
「あなたの努力は認めるけれど、私はマナーの講師ではないのよ。」
「っ……!」
アリシアの顔が一瞬曇る。
「でも、あなたの意志が本気なら——適任の講師を手配することはできるわ。」
「……え?」
アリシアが驚いた顔でセレスティーナを見る。
「あなたが直接私に習うより、専門の講師に学ぶ方が、より実践的で効果的でしょう?」
セレスティーナは、手元のメモにさらりと何かを書き込むと、アリシアの方を向いた。
「王宮には、信頼に足る優れたマナー講師が何人かいるわ。私の伝手で、“ちゃんと教えてくれる”講師を紹介してあげる。」
アリシアはしばらく黙ったまま、じっとセレスティーナを見つめていた。
「……あなた、本当に私を見下してないの?」
「ええ。」
「……私を王宮から追い出したりもしないの?」
「ええ。」
「……あなた、ほんと何考えてるのか分からないわ。」
アリシアは、腕を組みながら、むすっとした表情を浮かべる。
(まぁ……そもそも、私はあなたに王子を奪ってもらいたかったくらいだもの。)
けれど、もはやその期待はない。
王子は絶対に靡かない。 これは、もう十分に分かったことだ。
だが、それでも——
「せっかく努力しようとしているのだから、応援するわ。」
「っ……!」
アリシアの表情がわずかに揺らぐ。
「講師を手配するわ。後ほど、正式にお知らせするから準備しておいて。」
「……っ。……分かったわよ!」
そう言って、アリシアは少し照れくさそうにしながら、書斎を飛び出していった。
セレスティーナは、彼女の後ろ姿を見送りながら、静かに紅茶を口に含む。
(……さて、どの講師がいいかしら。)
少しでも、彼女がまともな立ち居振る舞いを身につけられるように。
そして何より——
(これで、少しは王宮が静かになるといいのだけれど。)
セレスティーナは淡々と、次の手配を進めるのだった。




