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王宮の白い大理石の廊下を歩くたびに、セレスティーナ・エヴァンジェリンはふとした違和感を覚えていた。整然と並ぶ金色の燭台、陽光を反射して輝く窓、そして自分を見つめる使用人たちの伏せがちな視線。すべてが、どこかで見たことのある光景だった。
いや、「見たことがある」というより——「知っている」。
王宮の庭園で開催される夜会、ヒロインが落とすはずのハンカチ、第一王子との運命的な出会い。それらがまるで、かつて遊んでいた乙女ゲームのシナリオそのもののように思えた。
——まさか、ここって…
脳裏をよぎった疑念を振り払うように、セレスティーナは歩みを早めた。だが、意識すればするほど、周囲の光景がゲームの記憶と重なっていく。
第一王子レオナルト・アシュレイ。乙女ゲーム『ローズ・オブ・グランツェル』のメイン攻略対象にして、ヒロインの運命の人。そして、悪役令嬢である私の婚約者。
目を見開いた。いや、そんなはずはない。ここは現実の世界だ。
けれど、記憶の片隅にある「悪役令嬢・セレスティーナ」の行動が、まるで自分の人生そのもののように馴染んでいることに気づいたとき、否定しようのない確信が芽生えた。
私は、ゲームの世界の中にいる。
しかも、自分が演じるのは「悪役令嬢」。シナリオ通りなら、レオナルトはやがてヒロインに恋をし、私は婚約破棄され、社交界から追放される運命だ。
(…最高じゃない。)
思わず唇が綻びそうになるのを、なんとか抑えた。そう、これは願ってもない展開だ。私は王宮のしがらみにうんざりしている。レオナルトがヒロインに夢中になってくれれば、私の役目は終わる。そして、婚約破棄された後は——
(お兄さん的存在のエドワードが「うちに来い」と言ってくれている。王妃の義務もない、気楽な生活が待っているわ。)
乙女ゲームの悪役令嬢という役割を全うすれば、未来は明るい。
「お嬢様?」
付き添いの侍女の声に、セレスティーナは小さく咳払いをして我に返った。今ここで顔をほころばせるわけにはいかない。
「…何でもないわ。」
静かに答えながら、心の中で小さく拳を握る。
ヒロインよ、早くレオナルトを落として。私はもう、王宮なんてごめんなのだから!
広々とした王宮の廊下。光を透かした窓から柔らかな風が流れ込み、白と金を基調とした豪奢な空間に清らかな雰囲気をもたらしている。
そして——ついに、その瞬間が訪れた。
「きゃっ」
可憐な声とともに、一枚のハンカチがふわりと舞う。柔らかい白布が床に落ち、光魔法の加護を受けた刺繍がわずかに輝いた。
(来たわ…!)
セレスティーナは内心でガッツポーズを取りながら、息を詰めて次の展開を待つ。
記憶通りなら、このあとレオナルトがハンカチを拾い上げ、アリシアと目が合い——その瞬間、運命が動き出す。ゲームのシナリオで最も美しい導入のひとつ。ここから始まる恋物語は、まさに王道のロマンス。
セレスティーナは輝く瞳でふたりの様子を見守った。
(いいわよ、レオナルト。ここで彼女の魅力に気づいて、恋に落ちるのよ! そして私は自由になるの!)
しかし、すぐ隣で彼女を護衛しているカイル・ブレイザーは、そんな彼女の様子に首を傾げた。
(……なんでコイツ、そんな目をキラキラさせてんだ?)
普段、冷静沈着で気品にあふれるはずのセレスティーナが、まるで幼い子供が物語を楽しんでいるかのように目を輝かせ、食い入るようにレオナルトとアリシアを見つめている。
「……お嬢様、何かいいことでも?」
ぼそりと小声で問いかけるが、セレスティーナは夢中で聞いていない。
レオナルトは無言でハンカチを拾い上げ、アリシアに視線を向けた。その黄金の瞳は、これから始まる恋の予感に揺れる——
——はずだった。
「落とし物だ。」
それだけ言うと、レオナルトは淡々とハンカチを差し出した。声に何の感情もない。目もいつもの冷静なまま。
アリシアの表情が一瞬、戸惑いに揺れる。
(えっ? ちょっと待って、ここでときめかないとダメでしょう!?)
セレスティーナは心の中で慌てる。これは運命の出会いのはず。なのに、レオナルトの態度があまりにも素っ気ない。アリシアはか細い声で「ありがとうございます」と言いながらハンカチを受け取るが、ゲームのような甘い雰囲気にはならない。
完全に、何も起こらないまま終わりそうだった。
(なんで!? どうして!? ここは恋が始まるイベントでしょう!?)
セレスティーナの目の輝きが、一瞬で薄れる。横で見ていたカイルは、さらに困惑した表情でセレスティーナを眺めた。
「……お嬢様、本当にどうしたんです?」
「……何でもないわ。」
セレスティーナは静かに微笑む。しかし、その心の中は焦りでいっぱいだった。
(ちょっと待って、レオナルト! ここで惚れないと私は自由になれないのよ!?)
彼女の期待とは裏腹に、王子は涼しい顔でその場を立ち去ろうとしていた。




