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第7章 神様の秋、白石くんの愁い

中学3年生になった結は、受験勉強の日々に追われながらも、神様の気配をそばに感じていた。

文化祭、合唱祭、そしてハロウィンの夜――。

過去に出会った人々との再会や、新しい友情を通じて、「神様」と「白石くん」と「わたし」の関係は大きく変わっていく。

そして迎える卒業の日。

少年時代の終わりと未来への旅立ちを前に、結と白石くんと神様は、どんな答えを見つけるのか。

青春と祈りが交差する、シリーズ完結編。

第7章 神様の秋、白石くんの愁い


(1)


 9月1日(水)


 ついに夏休みが終わり、2学期が始まってしまった。

 まだまだ暑いんだけど、受験生は学びの秋に突入だ。


 わたしは40日ぶりに白石くんといっしょに登校する。制服姿も久しぶりだ。


「おはよう悠翔はるとくん」


「おはよう結ちゃん」


 前と同じようにできるかなって、ちょっとだけ不安だったんだけど、白石くんが普段通りでよかった。

 むしろ、わたしのほうが少しぎこちなかったかも。


 きょうは大講堂で始業式をやってから、各教室でHRをして終わりなんだけど、9月11日に2回目の模試があるので、その資料が配られた。


(さっそく模試かぁ、がんばらないと……)


 前回の模試で、わたしは第一志望校を[府立みよし高校]にしたんだけど、判定はBだった。B判定ってことは6~8割の確率らしい。微妙といえば微妙で、先生はあまりお勧めはしなかった。公立の第一志望を変更するか、A判定をもらえる滑り止めの私立も受けろってことだ。

 白石くんも[みよし高校]を第一志望校にしてB判定だったって言ってたんだけど、白石くんは内申点が高いので先生には、まぁいけるんじゃないか、このまま頑張れって言われたらしい。


(白石くんはこのまま[みよし高校]を第一志望でいくのかな)


 [みよし高校]は大阪の公立高校の中では上位の方で、いわゆる二番手校と呼ばれてる学校のひとつだ。白石くんもさすがに、[大阪教育大附属高校]とかのレベルの天才校は狙ってなくて、公立の進学校で通いやすいってことで[みよし高校]を選んでるらしい。


「ねぇ、悠翔くんは公立の第一志望を、みよし高のまま模試受けるの?」


 いっしょに下校しながら聞いてみた。


「うん、そのつもり。結ちゃんは?」


「わたしは先生から、公立に行きたいのなら、A判定取れるところに変えたほうがいいって言われてるし。落ちたら滑り止めの私立になっちゃうから。でもみよし高に合格して悠翔くんと同じ高校に行きたいよ」


「大丈夫。これからも勉強頑張れば、きっといっしょに合格できるよ」


「うん、まだ模試一回終わっただけだもんね。頑張る、わたし。

 英語はこの夏休みでだいぶ力がついたんだ。だから、ヒアリングの試験は自信ある。

 でも、やっぱり数学がもうひとつな感じなんだなぁ」


 本当に勉強がんばる以外ないんだけど、白石くんと話せてよかった。少し落ち着いたよ。



「I’m home, Mom and Dad.(ただいま、ママ、パパ)


「Welcome home, Yui.(おかえり、結)」


「Is Sora sleeping?(宙は寝てるの?)」


「He is just taking a nap now. So talk in a low voice please.(今ちょうどお昼寝しているの。だから小さな声でお願いね)」


「I know , Mom.(わかってるってママ)」


「Your everyday English is perfect, Yui.(日常会話の英語は完璧だね、結)」


「Thank you, it’s all thanks to my Dad.(ありがとみんなパパのおかげだよ)」


「It’s a little early, but would you like to have lunch?(ちょっと早いけど昼ご飯を食べるかい?)」


「食べる! お腹すいた」


「はは、心の声は日本語が出ちゃうんだな。ランチはチーズリゾットだよ。手を洗っておいで」


「Okey, Dad.(わかった、パパ)」


 2週間位前から、英語でパパやママと話すことを始めた。その前は受験対策でパパにリーダーの教科書を読んでもらって、ヒアリングの練習をしてたんだけど、だいたいわかってきたので英会話も始めたんだ。


「ママはパパと出会ってから英語を話せるようになったの?」


 宙がお昼寝してるベビーベッドの横に座ってるママに聞いてみた。


「そうよ。それまでは英語でしゃべる機会なんてなかったから、パパと知り合って英語を教えてもらうことにしたの」


「難しかった?」


「それほど難しいと思わなかったかな。それにパパがていねいに教えてくれたから」


 わたしはママに近づいて小さい声でさらに聞いた。


「それは、パパのことが好きになったから勉強したの? 英語を教えてもらううちに、パパのことが好きになっちゃったの?」


「もう! そういうこと聞くのね」


「ねぇ、どっち、ママ?」


「……、パパとね、もっとおしゃべりしたかった。もっとママのことも知ってほしかったし、その一心で勉強したの。

 もう好きになってたのかなぁ」


「Yui, enough of the secrets. Come to the table. Lunch is ready.(結、内緒話はそれくらいにして、テーブルにおいで。ランチができてるぞ) 」


「Joe, keep your voice down.(ジョー、小さな声でしゃべっててば)」


「I’m coming now, Dad.(今行くよ、パパ)」



「リゾット作るなんて珍しいね、パパ。これも新メニューの研究?」


「はは、これはね、途中まで宙の離乳食と手順が一緒で合理的なんだよ。でも、うまいだろ?」


「うん、美味しい」


「ママとなに話してたんだい?」


「パパは英語教えるのがうまいって」


「お世辞かい? それは口がうまいっていうんだよ」


「パパは日本語も上手だよね。わたしより言葉を知ってるもん」


「はは、ママともっとおしゃべりしたくて、必死に勉強したからね。もっとぼくの事も知ってほしかったし」


「ママと同じこと言ってる」


「そうだろう、そうだろう。以心伝心ってやつだ」


「ほんとパパって日本語上手」



(2)


 9月11日(土)9時30分


 ジョナサン・D・エヴァレットは、大阪府北区天満の日本家庭料理レストラン[堂島]に着いた。

 [堂島]は小林健太郎がオーナーシェフだったが、来月からジョナサンが共同経営者として加わり、主に宣伝活動や、宴会の企画などをする事になっている。

 今日ジョナサンが来たのは、メニューの見直しの打ち合わせのためだ。

 メールやリモート会議でも済む用件だが、味に関わることは、やはり現場で確かめないとならないと思っている。


 この日は、娘の結の高校受験模試が、藤井寺市の高校で行われている。結を自動車で送り届けて、そのまま[堂島]までやってきたのだ。


「ずいぶん早いな、ジョー。まだ9時半だぞ」


「おはよう、健太郎。朝早くに、娘の結を模試の会場まで送ってきたんだ。なんだかとても緊張してる様子でほっとけなかったんでね。

 そのままここまで来たんだ」


「試作メニューはまだできてないぞ。かわりにコーヒーでも味見するかい?」


「それは、ぼくがやろう。調理の手を止めちゃ悪い」


 *


 小林健太郎は日本国籍を持つ日系3世だ。アメリカ駐留兵だった祖父を持つ。祖父は日本人女性と結婚し、健太郎の父の世代で日本国籍を取得したらしい。


「大口出資者様に、コーヒーを淹れていただくのも悪くないね」


「だろう、コーヒーは得意なんだ。このレストランで出しても恥ずかしくはないと思うよ」


「まったく、びっくりしたよ。この店を株式会社にして、資本金を15万ドルも用意するって、ジョーに言われたときには」


「ははは。まぁ、いろいろあってね。分不相応な金なんだよ。有意義に使おうと思ってね」


「うちの口座を経由して、大金の補助金を、君のコンサルタント会社の口座に振り込ませたアメリカ総領事館は、いくら問い合わせても答えちゃくれないんだ。日本の税務署に、この帳簿をどう説明すりゃいいんだって言ったら、特例で処理してあるから問題は起きないんだとさ」


「まぁ、赦してほしい。前職の関わりでね。いきなり解体させられたUSAIDの退職金みたいなもんだ。汚い金じゃない」


「ぼくが見てても面倒な仕事そうだったよ、君の仕事は」


「この店に出資したとあれば、文句も言えないだろう。なんたってやつらのたまり場みたいなもんだからな、この店は」


「そこが、問題なんだなぁ。ここは日本家庭料理の店なんだぜ。日本人の客も増えてほしいもんだ」


「増えるさ。われわれがこうやって知恵を絞ってるんだからな」


「そう、それでまずはメニューの見直し。それからパーティールームの増築ってわけだ」


「あの補助金の出番だ。どうだい、よく思いついただろう、こんなアイディア」


「週末の度に大騒ぎしたがる、総領事館関係のやつらのためにパーティールームを作るなんてな」


「静かに食事を楽しみたい客も大事だってことだ。アメリカ人にも、健太郎の料理が楽しみで来てる人間だっているだろう」


「来月のハロウィンに間に合えばいいな」


「大丈夫。きっと全部うまくいく」



「さっ、そろそろぼくは行くよ。早く帰って下の子の離乳食を作らにゃならんのだ」


 増築の建築会社からの図面に、いくつか注文を書き足し、試作メニューの味見と検討をし終わって、ジョナサンは立ち上がった。


「次は9月の終わりあたりに来てもらおうか、ジョー」


「もちろんさ。スケジュールはメールするよ」


 ジョナサンは駐車場の自動車に乗り込んだ。

 健太郎がドアのところで手を振っているのが、ドアミラーから見える。ジョナサンはウインドウを開けて軽く手を振ってから発車させた。


(さて、結はテストがうまくいったかな)




(3)


 9月11日(土)7時00分


「結、そんなにウロウロ歩かないでちょうだい、そらが気にしてるわ」


 いよいよ、第2回目の模試当日が来た。隣の藤井寺市の高校が会場だ。

 6時に起きて、朝ご飯ももう食べたんだけど、出かける準備は全部終わっていて、緊張感だけが大きくなっていく。


「ごめんね、宙ちゃん。お姉ちゃん緊張しちゃって、じっとしてられないの」


「まだ7時だろう。少しは落ち着いたらどうだい。

 忘れ物のチェックをするとか」


「5回した」


「電車の運行情報をチェックするとか」


「さっきしたばかり。通常通りで遅延なし」


「トイレを済ませておくとか」


「もう朝から3回行ったよ」


「じゃぁ、落ち着いてお茶でも飲まないか」


「お茶飲んだらまたトイレ行きたくなっっちゃう」


「それなら座って単語帳でも見ていなさい。家を出るのは何時なんだい?」


「7時45分に出ればいいかな」


 わたし、なんか緊張のあまり、イライラしているみたい。殺伐とした言葉しか言えなくなってる。


「まぁ、こういう緊張も慣れていかないとね。本番はもっと大変よ」


 ママがのんびりとした口調で言う。


「……。ごめんね、みんな。迷惑かけちゃってるね、わたし。

 パパだって今日はお仕事でお出かけなのに」


「それは気にしなくてもいいが……。

 そうだ、結。パパがいっしょに車で送ってあげよう。どうだい?

 パパと少しの時間ドライブできて、緊張がほぐれるかも知れない」


「え、いいの?」


「ぼくは、そのまま仕事に行けばいいから、かまわないよ。

 ガチガチの結を見ていたら、ひとりでちゃんと電車に乗れるかどうか心配になってきたよ」


「結、そうさせてもらいなさい。パパとおしゃべりすると、きっとリラックスできて、試験にも実力が出せるんじゃない?」


「うーん……。わかった、パパに送ってもらう」


 わたしは、当日の朝ギリギリに、予定を変更するのはどうなのかなと思ったけど、パパの好意に甘えることにした。

 確かにパパの車に乗っちゃえば、電車の時間とか乗り換えとか気にしないで済むから。


「よし、じゃ7時半に出るぞ、いいかい。

 万が一にも、道が混んじゃったら困るからね。少しだけ早めに出よう」


「うん、わかった。準備はもう完璧だから、いつでも大丈夫」


 わたしは少しだけ落ち着いた気がして、ソファに座り、単語帳をめくり始めた。



 そんなわけで、パパとふたりで出発したんだけど、パパは運転中ずっとわたしとおしゃべりしてる。

 道もまだ混んでない時間だし、あっという間に会場に着いちゃいそう。


「ところで結は背が少し伸びたみたいだね」


「えっ、本当? うれしい」


「髪も伸ばしてるみたいだし、少しだけ大人っぽくなったかな」


「白石くんにも、この間同じこと言われたよ」


「みんな、そう思ってるってことだ。“ベビー結”が“、“レディー結”になっていくんだな」


「レディーかぁ、うふふ」


「パパの悩みの種が増えるわけだよ」


「えー、なんでパパが悩むのよ」


「娘がレディーになっていくと、父親は悩むものなんだよ。

 いつか誰かがこの美しいレディーを奪っていってしまうのかってね」


「そうなっても、わたしはパパのことも、忘れないでいてあげるから大丈夫だよ」


「ありがたき幸せでございます、レディー、いや、プリンセス結」


「あははは、やだなぁパパ」


「よーし、もうすぐ到着だよ。がんばっておいで」


「I’ll do my best on the mock exam.(模擬試験がんばってくるよ)」


「I’m surprised, it seems I’m talking to someone from the United States.(驚いたな。アメリカ人と話してるようだ)」


「See you later, Dad. I’ll go back by train.(じゃあね、パパ。帰りは電車で帰るから)」


「Good luck for Yui!(結に幸運を!)」


 わたしが会場の校舎に向かっていくのを、パパは車からずっと見てたみたい。最後にもう一度振り返って手を振った。



 待ち合わせた受付の場所に、白石くんはまだ来ていなかった。試験開始までは、まだけっこう時間があるので、やってくる生徒もまだ少ない。

 わたしは受付を済ませた後、壁際に行って単語カードをめくりながら白石くんを待つことにした。


(だいぶリラックスできてる、パパのおかげ。ママの言ったとおりだった)


 やがて校舎の入り口に、模試を受ける生徒たちが大勢やってきた。

 人波の中に白石くんの姿を見つけて手を上げると、白石くんも目を合わせてくれて手を振り返してきた。


「おはよう、白石くん」


 受付で受験票を提示して、校舎内に入ってきた白石くんに挨拶する。


「おはよう、早かったんだね」


「うん、パパが車で送ってくれたの」


「それはよかったね、結ちゃん。土曜日なのにぼくの乗った電車は生徒で満員だったんだよ」


「そうだったんだ、疲れちゃった? 白石くん」


「ううん、大丈夫。じゃ、教室行こうか」


 白石くんと教室は同じだけど、席は少し離れていた。わたしは席に着いて、受験票と筆記用具を上に置いた。

 そして深呼吸一回。

 一時限目は英語だ。机に配られているヒアリング用のヘッドホンを確認しておく。

 試験官が入ってきた。問題用紙が配られ、ヒアリングテストの簡単な説明を受けたあと、試験開始の時刻を待つ。


(いよいよ試験開始……)


 9時00分。教室に試験開始のチャイムが鳴り響いた。



(4)


 模擬試験は一時限目の英語のあと、国語、数学と続き、昼休みをはさんで午後も理科、社会と続く。

 15時30分。終了のチャイムが鳴り、5時限目の社会の試験が終了すると、教室に流れていた緊張していた空気が一気に緩んだようだった。

 

(ふー、終わったー。あー、疲れたよー)


「これで本日の模擬試験は全て終了です、みなさんお疲れ様でした」

 解答用紙を集め終えて、試験官がそう告げると、生徒が一斉に立ち上がった。

 白石くんを見ると、(出よう)って目配せしてきたので、わたしは荷物をまとめて廊下に出た。

 他の生徒もゾロゾロと教室を出ていく。


「白石くん、どうだった?」


 廊下に出て校舎の出口に向かいながら聞くと、白石くんはやや疲れている顔をしてた。


「うん、まぁまぁできたかな、結ちゃんはどう?」


「3時限目の数学がなぁ……。全部書けたけど、どうかなぁ」


「とりあえず、やっと終わったし、帰ろっか」


「うん。わたし疲れたし、お腹も減っちゃった」


 お昼はこの学校の購買でパンを食べただけだったから、本当にお腹ペコペコ。

 白石くんとなにか食べて帰りたいなぁ。でも、わたしたち制服着てるし、お店に入っちゃいけないって学校から言われてるからなぁ。

 早くお家に帰って食べるしかない。


「ぼくもだよ。早く帰ろっか」


 駅に向かう生徒の群れに混じりながら、わたしたちは黙って歩いた。

 電車の中でも、わたしたちは疲労感と虚脱感であまり口をきくことはなかった。


 わたしは最後の社会の問題を思い出していたし、白石くんは窓の外を流れていく景色をずっと見ている。

 だんだん、同じ電車に乗っていた、ほかの生徒たちの姿も減ってきた。


「座る?」


 白石くんが空いた席を見ながらわたしに聞いてきた。


「うん」


 そうわたしが答えて、ふたりで並んでシートに座る。

 白石くんの腕とわたしの肩が触れ合い、わたしはほんのちょっとだけ、頭を白石くんにもたれかけた。


 癒やしと疲労、安心と不安、矛盾した感情が混じり合う。

 黙り込んだままだけど、そんな感情が白石くんの肩から伝わってくる気がした……。



「明日また学校でね、結ちゃん」


「うん、また明日。バイバイ、悠翔くん」


 駅前の広場を出たところで、わたしたちは別れた。夕方までは間があり、空はまだ青く日差しは強い。

 マンションのエントランスに入ると、冷んやりとして気持ちよかった。

 わたしはホッと息をついて、エレベータのボタンを押した。


(英語はよくできた、あと社会も。白石くんはまぁまぁって言ってたけど、出来はどうだったんだろう。疲れちゃってて、あまり話してくれなかった……)


「ただいま」


 玄関を上がり、リビングに入るとママは宙におっぱいをあげてるところだった。こっちに背中を向けてソファに座っている。


「おかえりなさい、結。お疲れ様でしたね」


「うん、頭使い過ぎてお腹すいちゃった、へへ」


 部屋に荷物を置きに行って、制服を着替えて出てくると、宙はベビーベッドに寝かされていて、ママはキッチンでなにか作ってるようだった。


「結、お腹空いてるんでしょ。夏の残りのそうめんがあるから、今茹でるわね」


「やったー、うれしい。今日のお昼、パンふたつだけだったんだ」


 ベビーベッドの宙のほっぺをツンツンして、そのまま床に座り込んで、キッチンのママを見ていた。

 宙が産まれたてのとき、宙に指を握られたとき神様――ハルトがわたしの頭に話しかけてきたことがあった。


(あの時はびっくりしたなぁ)


 あの時は春のキャンプで白石くんに犠牲(?)になってもらって、ハルトには納得してもらったんだけど、いまだに宙の手に触れるときは、おっかなびっくりなとこがある。だからほっぺたツンツンばっかりしてるんだ。


(宙、そーらーくーん)


 思い切って(?)宙の手を握ってみた。


(……)


 宙はなにも言ってこない。おっぱい飲んでお腹いっぱいだからかな。天井を見てニコニコしているだけ。


「結、こっちいらっしゃい。そうめんができたわよ」


 ママが呼んでるから、わたしは宙の手を放してテーブルへ歩いていった。



「模試はどうだったの? 力を出せた?」


 ママもいっしょにおそうめんを食べながらお話をした。


「うん、けっこうできた感触。一回目の模試より点は取れてる気がする」


「あら、じゃ楽しみね」


「来週かな、結果出るの。判定が上がってるといいな」


「英語、パパとがんばってたものね」


「そうなの。ヒアリングはばっちりだったんだ。パパのおかげだよ」


「うふふ、パパが聞いたら喜ぶわね」


「うん。お素麺美味しいね」


 素麺が冷たくて心地よい。晩ごはん前なのに、すごくいっぱい食べちゃいそう。


「まだまだ暑いものね。お素麺はね、宙も食べられるのよ」


「へぇ、そうなの? じゃぁ、みんなそろって、お素麺食べたいね」


「うふふ、そうね。

 結、さっき宙とお話してたでしょ。なんか言ってた?」


「何も。お手々握ったけど何も感じられなかった。お腹いっぱいでニコニコしてただけ」


「あらそう。ママは時々感じることがある。まだ言葉じゃないけどね。うれしいとか、気持ち悪いとか」


「ええ、いいなぁ。わたしも宙とお話したいな」


「そうね、いっぱい話しかけてあげてね。きっとお返事してくれるわよ」


「うん……」


 お素麺を食べ終えて、お腹は満足したけど、なにかモヤモヤしたものがわたしの心に残っていた。



 白石悠翔が、模試を終えて家に帰ってきた時、両親はそろって居間にいた。


「ただいま」


 居間を通り過ぎて自分の部屋へ向かう。


「おかえりなさい、お疲れ様。着替えたら模試のこと聞かせてね」


 母親が声を掛けると、悠翔は「はい」とだけ答え、そのまま部屋に入った。


(なんだろう、すごく神経がピリピリしてる)


 結といっしょに帰ってくるときから、いや、模試が終わったときから、気が昂ったまま収まらないでいる。


(集中しすぎちゃったのかな……)


 制服を着替えながら、(落ち着かなくちゃ)と自分に言い聞かせた。



「どうだったんだ、模試は」


 居間に戻ると、父親がまず聞いてきた。


「まぁ、できたほうかな。前と同じくらいは点取れてるかと思う」


「前と同じくらいって、前はB判定だったんだろう」


「そうだけど、数学の得点次第じゃないかな。A-(マイナス)くらいになる可能性はあるよ」


「まぁ、お父さん、まだ結果出たわけじゃないんだから。

 私立に変えれば3教科で受けられるんだし、わたしのいる高校受ければまだ推薦だってぎりぎり間に合うんだし」


 父親の言葉を諌めたように思えた母親も、悠翔の心を揺さぶるようなことを言ってくる。


「うん。でも今はまだ公立目指してがんばるよ、お父さん」


「そうだな、がんばれ」


「はい。じゃぼく部屋で自己採点するから。あっ、飲み物だけ欲しいな」


「はいはい。あとでお茶持っていってあげますよ」


(結果が出てから考えよう。どっちにしろ、今は勉強するしかできることはないんだから……)


 悠翔は少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。カバンから問題用紙を取り出し、自分の解答をもう一度見直し始めた。



(5)-a


 9月16日(木)19時00分 皇学館大学 神学文化研究室


(八方塞がりだな……。どうしたもんか)


 いつものように、この時間になると研究室に残っているのは矢納ひとりだった。

 机の上には封を切られたA4サイズの封筒が投げ出されている。

 『考古学ジャーナル』編集部から届いた、投稿論文の査読に関する書類だ。


====================================


ご投稿いただいた論文[前方後円墳石室の成り立ちと構造]に対して厳選なる査読の結果、

リジェクト(不合格)とさせていただきましたので、ご通知させていただきます。

以下、査読者からの見解を記します。

     ・

     ・

     ・


====================================


 いわゆる研究デザインの欠陥であり、偏ったサンプリング、信頼性の低いデータ収集方法、研究としての妥当性を損なっている……。

 そういう評価だということだ。


 矢納が投稿した論文は、

 2026年7月に応神天皇陵から始まった、2027年4月までの一連の[万物の正体]に関する現象をまとめた仮説論文であった。

 査読者の評価は「推測の域を出ない」「オカルト的である」「皇室の尊厳に関わる」と散々であった。内容のほぼすべてを否定されては、修正して再投稿のしようもない。


(トンデモ学者として、考古学界隈に名を売ってしまったかな。本名で投稿したからな……)


「くそっ」


 思わず声が出ていた。机の上にはビールの空き缶がふたつ転がっている。3本目の缶ビールを開けた時、スマホのメール着信音が鳴った。

 開けたビールを一口飲んでから、矢納はスマホを手にとった。

 メールは日向結からのものだった。


====================================

@Yui

お久しぶりです、結です。

お話というか相談がしたいんですが、時間ありますか。

ZOOMでもいいです。

====================================


(〈探るもの〉が〈知りたがるもの〉に何の相談があるんだ……)


 矢納は何もかも面倒くさくなっていたが、結からの話となれば興味がわいてくるのを抑えられない。

 すぐにパソコンに向かい、結へのZOOMの招待メールを送信した。



「こんばんは、矢納さん。お久しぶりです。メールに答えてくれてありがとうございます」


 矢納のパソコンの画面に、結を映すウインドウが開いた。


「おう、こんばんは。ご無沙汰だったな。またなにか起きたのかい?」


「矢納さん、顔が赤いですね。お酒ですか? そこ研究室ですよね」


「ほっておけ、誰もいないから問題ない」


「はは、そうですか。

 ……あのね、矢納さん。あの、なにか起きたとかそういう話じゃなくて……。その……」


「なんだい、言ってみろよ」


「はい。その、わたしのことなんですけど」


「結さんの?」


「そうです。わたし自身の体の変化っていうか」


「な、なんだ? そんなのきみのお母さんに聞けばいいじゃないか」


「いえ、違います。そういうんじゃありません。

 わたしの能力のことなんです」


「[知覚推理]のことかい? うちの研究所で研究していた」


「それも、違います。

 わかりませんよね。私のこと話すので聞いて下さい」


 矢納は答えるかわりに、缶ビールをまた一口飲んで結を見た。


「わたしのママの実家のこと、以前矢納さんにも少しお話したと思います。

 わたしの曽祖母さんは、橿原神宮かしはらじんぐうの巫女をしていました。お祖母ちゃんも同じく巫女をしたあと、宮内庁の女官として勤めました。そしてご存知のようにママも女官でした。

 そういう血筋なんです、日向家は。

 日向家の女は共感力を持っていて、人の感情がわかります。言葉でわかるわけじゃなくて、感情の種類と大きさがわかるんです。

 あっ、でも誰の感情でもわかるわけじゃなくて、同じ血筋の人とか、すごく近しい人、大切に思ってる人だけです。


 それで、わたしにも力があって、お祖母ちゃんとかママとか、……えっと仲のいいお友だちとかの感情がわかることがよくあったんです。

 心の中で名前を呼ぶとその人に通じるってこともよくありました」


 想像していた相談事とは、ずいぶん違う内容に矢納は驚いていた。


「こりゃ、驚きの告白だな。そういうのはその血筋の家の最高機密なんじゃないのかい? ぼくなんかにしゃべっちゃってもいいのか」


「はい、矢納さんならいいです。家族の他では一番信用している大人ですから」


「そりゃありがとう、光栄です。……で?」


「はい。それで夏の終わりくらいから、わたしの力が弱まっちゃったっていうか、なくなっちゃったっていうか、そんな感じなんです」


「例えば?」


「ママや、その、仲のいいお友だちの名前を、心の中で呼んでも通じなくなりました」


「うん」


「あと、あの夢を見ることができないんです。矢納さんにも話した、あの明晰夢みたいな、暗い空間へ行ける夢がどうしても見れないんです」


「ああ、ローカルな次元上昇現象のことだね」


(そのことを書いた論文も不合格になっちまったしな……)


「そう、それです。わたし最初はハルト――神様に相談しようと思ってたんです。

 あのときの状況を再現しようと、徹夜で勉強して、眠くて神経が高揚した状態で、神様に呼びかけても、あの夢の状態にならないんです。

 クローゼットの中にしまってた埴輪を出してきて、触れながら集中しても、あの夢が見れないんです。

 わたし、どうしたら……」


「そんな相談だったのか。ぼくに答えられるものじゃないと思うが……」


「でも……、でも矢納さんいつも正解に近づく方法を考えてくれたじゃないですか。

 神様Q&Aの時も、春のキャンプの時も。

 わたし、自分の力がなくなっちゃうのなんて構わないんです。でも、もうハルトに会えないのかと思うと……」


 矢納は数分間考え込んでいた。画面の中の結も黙って矢納の言葉を待っていた。


「結さん、ぼくが思うにだな、結さんの失いかけた力をもとに戻すことはできないだろう」


 やっと話し始めた矢納を見つめている結の顔が、ウインドウに映し出されている。泣き出しそうな表情だが、目は真っ直ぐ矢納を見据えている。


「巫女というものは、神に仕える女性であり、神職の補佐や神事での奉仕をする。

 清らかな心を持ち、人々を思いやる優れた感能力をもっている人なんだろうとぼくは想像する。

 だが巫女は大人になると、清らかな心はともかく、能力は失ってしまうといわれているんだ。

 巫女の血筋を引く結さんが力を失うのは、結さんが大人になりかかっているということなんじゃないかな。

 そうだとしたら、ぼくに解決方法があるわけがない」


「大人って、……どういうことですか?」


「それは、14歳の結さんの肉体が成長し、心が成熟するということだ」


「でも、背は少し伸びたけど、まだまだ小さいほうだし、心だってまだ子どもっぽいと思う」


「まぁ、成長していく過程にあるってことだよ。

 大人と抵抗なく話せるようになったり、誰かを大切に思える気持ちがとても強くなったり」


「誰かを大切に……」


「そう。人はみんな誰かに恋をし、いっしょに暮らし、家族を作り、そうやって大人の道を進んでいくもんだ」


「じゃぁ、矢納さんも?」


「だから、ぼくはまだ子どもなんだよ。大人への道を踏み外しつつある」


「そんな」


「まぁ、ぼくのことはどうでもいい。

 等しく人々を愛し、等しく神の信託を伝えていた巫女は、誰かひとりを愛したとき力を失ってしまう。

 それはどうしようもないことだろう。巫女も人間なんだ」


「……」


「だが、次元上昇の明晰夢を見る方法は、まだあるかも知れないぞ、結さん」



(5)-b


 えっ、あの夢を見る方法がああるの?


「白石くんに、またチャネリングしてもらうんだよ」


「えっ。……そ、それは無理だよ。ハルトはもう会いに来ることはないって言ってたもの」


「だから、会いに行ってもらうんだよ、いや、迎えに行ってもらうんだ、白石くんに。次元上昇してもらってさ」


「そ、そんな事できるんですか?」


 たしかにハルトはもう会うことはないって言ってた。でも、ハルトのいる次元に行く方法が夢だってことは教えてくれた。

 これは、ひょっとしたら会いに来いってことなのかなぁ。


「白石くんには、ローカルな次元上昇ができる条件がそろっているはずだ。もともとチャネリングできる霊感体質だし、何と言っても1日神様になった人間だからね。

 だから神様が彼の中にいた間は、白石くんの思考回路は、神様が使いやすいように整理、調整されていたはずだ。

 そして神様の思考の残響は、きっとまだ彼の中に残っている。

 人類史の中で、神様に直接干渉された数人のリーダー――〈知るもの〉たちがいた。覚えているかい? あのPEOのデータベースにあった情報だ。白石くんも〈知るもの〉たちのように、神様っぽい考えをする人間になっているってことだ」


 さすがにわたしたちのことを、論文に書くだけのことはある。とんでもない考えに聞こえるけど、この一連の体験をしたわたしには納得ができる。

 巫女が力を失う話も、白石くんが最近神様っぽいのも、全部思い当たることばっかりだ。


「でも、もう白石くんにそんなことさせたくないよ。」


「逆にやりたがると思うよ、彼は」


「えっ?」


「白石くんも、神様に会いたがってるからさ。神様のことが好きだから」



 もう一時間も矢納さんとZOOMしてる。そろそろ切らなきゃと思ってるんだけど、なんか名残惜しい。


「悪いがね、結さん。もうそろそろ落ちたいな。このあとも用事があるんだ」


「えっ、あ、ごめんなさい。

 なんかわたし、相談なんて言ったのに全然相談じゃなくて、ただわたしの事をぶちまけただけみたいで。

 でも、わたし白石くんに頼んでみます。もし、チャネリングをやってくれることになったら、矢納さんもいっしょに来てくださいね」


「いや、それは遠慮しておこう。ふたりだけでやるといい」


「なんでですか。矢納さんの研究対象だし、論文にも書けるじゃないですか」


「だが、きみはただ神様に会いたいだけなんだろう? きみたちの会話を立ち聞きするつもりはないよ。

 それに論文も書き終わっちゃったしな。不合格だったが……」


「えっ、不合格なんてあるんですか。大人たちにとってはものすごい大発見だったんじゃないんですか、この一年間の出来事って」


「だから、まだ大人じゃないんだよ、ぼくは。

 “子どもの言うことなんて”って、大人たちはいつも言うだろ。今回もそれさ。

 じゃ、接続切るぞ。おやすみ、いい夢を」


「はい、おやすみなさい」


 矢納さんってば、その夢を見るのが大変なんだって。





(つづく) 8月31日 07:00投稿予定

最後まで読んでいただきありがとうございます。完結まで、毎日朝7時に投稿しますのでお楽しみに。

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