第6章 人間が神様を覗くとき、神様もまた……
中学3年生になった結は、受験勉強の日々に追われながらも、神様の気配をそばに感じていた。
文化祭、合唱祭、そしてハロウィンの夜――。
過去に出会った人々との再会や、新しい友情を通じて、「神様」と「白石くん」と「わたし」の関係は大きく変わっていく。
そして迎える卒業の日。
少年時代の終わりと未来への旅立ちを前に、結と白石くんと神様は、どんな答えを見つけるのか。
青春と祈りが交差する、シリーズ完結編。
第6章 人間が神様を覗くとき、神様もまた……
(1)-a
7月26日(月)
暑い、暑いよ今年の夏。
年々夏が暑くなってきてるけど、今年が1番じゃない?
春からずっと勉強と試験の明け暮れだったけど、ちょっとだけ一息つける夏休みが来た。
といっても、夏季補習があったりするんだけどね。でも、朝から通常の授業がないだけでかなり楽になる。
最近は白石くんの家で勉強することもだんだん減ってきた。
クラスが別々だから宿題も違うし、受験勉強もわたしは今、苦手な英語中心だけど、白石くんは数学の問題集を繰り返しやってて、いっしょにいても集中できないからって。
登下校はいっしょにしてたんだけど、夏休みになってからは会えない日が続いていたんだ。
*
「今日は補習の日じゃないのかい? 結」
パパが朝食のあと、カルピスを作ってくれてテーブルに置いた。
「うん、一期目は終わり。次は8月のあたまから一週間なんだ」
「じゃ、やっと夏休みらしくのんびりできるね」
「そんなことないよ、補習がなくても自宅で勉強はしないと。またあとで英語のヒアリング練習やって、パパ」
「ああ、そりゃいいけど。友だちと遊びに行ったりしないのかい?」
「みんな、受験生だからね。遊ぶ気分にならないんじゃないかな」
「なんとも、気の毒だね」
宙は朝のおっぱいを飲んでよく眠ってて、ママもベビーベッドにもたれかかってウトウトしてる。
だから、わたしは朝ご飯食べたあとも、パパとのんびりおしゃべりしてる。
「パパはお仕事うまくいってるの? 毎日お家にいるけど」
「ひどい言われ方だな。これでも新しいメニューを考え中なんだけどな」
「こんどはどこのレストラン?」
「ああ、結にも言っておこうか。
パパはね[堂島]っていうレストランの共同経営者になることになりそうなんだ。
一番初めにリフォームコンサルタントの仕事をしたあのレストランだよ」
「へぇー、そうなんだ。じゃやっぱりパパもお料理作ることになったの?」
「シェフになるわけじゃない。新メニューでお客さんを増やしたり、パーティーを企画したり、お店の宣伝したりと、まぁそんな営業マンみたいな仕事かな」
「じゃぁ、もうお家にずっといてくれたりはできなくなっちゃうの?」
「店には週に2回くらい出勤することになるかな。料理作ったり、ホールに立ったりするわけじゃないからね。経営戦略を練るのがぼくの仕事さ」
「ふーん。
パパはさ、そういう自分の進路をどうやって決めたの?」
「進路……か。まぁ、そうなるか。
たとえば子どものころに「大きくなったら 何々になる」みたいなことを言うだろう? 大人になってからでも「将来は何々になる」っていうのはあるもんなんだよ。やりたいことが見つかったら、それが進路って言ってもいいのかな」
「やりたいことが、まだ見つからなかったら? その人はどういう進路を決めればいいの」
「そうだな……。
まずは自分のことを、じっくりと観察してみることだ。
今自分が持っているもの、今やっていることをね。
その中に将来もずっと持っていたい、ずっとやっていきたいと思えるものがあるかどうかかな。
自分から何を取っちゃったら、自分でなくなってしまうのか、自分を自分らしくしているものは何か。それを探すことから始めるべきだと思う」
「その、自分が持っているもの、やっていきたいことが、お仕事とは言えないようなときは、どうするの?」
「そうだなぁ、難しいな。その大事なもの、大切なことを失わないような進路を選ぶのがいいかあなぁ」
「パパはそうやって決めたの?」
「そうさ。パパの大切なものは家族だ。ママや結そして宙。いつも身近にいて、ご飯も一緒に食べ、力を合わせてファミリーを守り、声をかけ励ましあって生活を続けたい、というのがパパの大切なものだ。これをなくしたらパパでなくなってしまう。
これを守っていける仕事を探して、運良く見つかったってことさ」
「……パパの言葉って、いつも考えさせられるって思う。学校では教えてもらえないことだなぁ」
「たいしたことじゃないよ。“生きる”と“生きる術”は違うってことだ」
ママは目を覚ましていて、わたしたちの会話を聞いてニコニコしていた。
(1)-b
白石 悠翔は自分の部屋で、高校受験の過去問集を無心で解き進めていた。両親はもう仕事にでかけていて、家には自分ひとりきりだ。
(もう一週間結ちゃんに会ってない……)
夏休みに入ってからは夏季補習の時間が違っているので、学校では会えない。
夏休み前も、登下校をいっしょにしていたものの、お互いの家で勉強したりすることは少なくなっていた。ふたりきりになると、勉強どころではなくなってしまうので、お互いに自制していたのだ。
(まずは受験を突破してからだ。自分でそう決めたんだから)
とはいえ、いったん休憩して、ベッドに寝転んでいると、日向結のことばかり思い浮かんでしまうのを、止めることができない。
(あー……、結ちゃんももう勉強始めてるかな……)
日向結とおなじ公立高校、しかもできれば上位のところを目指して勉強しているわけだが、その勉強のせいで、結と会えなくなるというのは不条理な気がする。
7月に一回目の模擬試験があった。悠翔はとりあえず[大阪府立みよし高校]を第一志望校として書いていた。
二番手校グループのなかでは上位レベルで、理数科もある。電車で40分くらいで通学も便利だからだ。
二番手校と言っても、主要大学へ進む生徒も多い進学校で、大阪教育大付属高校を筆頭にする、難関校グループに比べればレベルは下だが、悠翔の学力相応な、いい高校だと思っている。
夏休み前に模試の結果が戻ってきたのだが、志望校の合否判断はB判定だった。合格確率は60~80%、「当日の獲得点数次第」と講評にはあった。
結も悠翔と同じ高校を目指して、[大阪府立みよし高校]を第一志望校にしたが、B判定だったという。
ふたりとも合格圏内ではあるが、不確定な判定……。
ふたりで同じ公立高校へ行くという目標を優先するなら、確実に入れそうなA判定の高校を第一志望で受験するというのも選択肢だ……。
まだはっきりと決める必要はない時期ではあるが、悠翔は勉強する意味と意思が揺らいでしまっている。
優先順位がどちらなんだろう? 結と同じ高校か、それとも、より上位の高校か。
(結ちゃんと話したいなぁ……)
本棚に飾ってある埴輪を眺めながら、また結のことを考えたが、
(勉強、勉強)
頭に浮かんだ結の顔を無理やり追い払って、ベッドから起き上がり、数学の過去問集を再開した。
一日勉強をし続けた夜、悠翔は結にLINEでメッセージを送った。
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@Haruto
結ちゃん久しぶり。明日駅前の図書館で勉強しない? あそこならふたりいっしょでも集中できるかも
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(2)
7月27日(火)
きょうは白石くんと図書館で勉強することになってる。昨日の夜、LINEで約束したんだ。
図書館は静かだし、他の人も勉強してるから、いっしょにいても集中できるよねって。
(そうなんだよ、ふたりっきりだと緊張しちゃうんだよなぁ……)
白石くんの家は日中ご両親がいないので、お部屋で勉強してても静かなんだけど、集中できない。
すぐに白石くんの方を見ちゃうし、白石くんもチラチラわたしを見てくるので、ふたり目が合っちゃうことがよくある。
そうすると、なんか……、こう……触れ合いたくなっちゃうっていうか、話しかけちゃうっていうか、並んで座ってる距離を詰めちゃうというか……。
とにかく勉強どころではなくなってしまうんだ。
*
朝の8時半に図書館の入口で待ち合わせ。
図書館の閲覧室が8時45分から開くからなんだけど、もう20人くらい行列している。
(ノースリーブのほうが良かったかなぁ……)
紺色と白の細かいチェック柄のワンピースにラタンサンダルという格好に、水色の手提げバッグ。
去年までお気に入りだった麦わらのハットは、子どもっぽいなって思いはじめて、もうかぶらなくなっていた。
「おはよう、結ちゃん」
白石くんがタオル地のハンカチで汗を拭きながらやってきた。
「おはよ、もう暑いね」
「本当だよね、まだ朝なのにいやになっちゃうよ」
「ちょっとだけ、顔見るの久しぶりだよね、悠翔くん」
「そうだね、結ちゃんなんか今日、大人っぽく見える」
「えっ、そう? そんなことないよ」
おしゃべりしている間に図書館の入口のドアが開いて、行列していた人たちはゾロゾロと建物に入っていった。
クーラーが効いていてホッとする。わたしたちはふたつ並んだ席を確保できた。
「じゃ、始めよっか、結ちゃん」
わたしは英語の過去問集の長文問題をひたすら解いていく。
白石くんはやっぱり過去問集の数学をスマホのストップウォッチかけてやっている。
ふたりが望んだ通りの、集中した濃密な時間が静かに流れていった。
*
「お昼はどうする? 結ちゃん」
「どこかでお店に入って、ふたりで食べなさいって、ママが白石くんの分もお金くれたんだ。何食べる?」
「えー、悪いよそれは。ぼくはとなりのショッピングモールのフードコートで、なにか食べようと思ってたんだけど」
「じゃ、それも払ったげる。わたしあそこのクロワッサンサンド食べたい」
「ぼくは……、ハンバーガーとかでいいかな」
「じゃぁもう行こう。ちょっと早いけど、すぐに混んじゃうから」
わたしたちは、離席カードをもらって、席に置くとランチタイム前の駅前へと出ていった。
*
「悠翔くんにも会えるし、勉強も集中できるし、今日みたいならはかどるね」
まだ混んでいないフードコートで、ハンバーガーセットを食べてる。
クロワッサンサンドを食べたかったんだけど、白石くんと同じハンバーガーショップでわたしも買うことにしたんだ。
わたしは久しぶりに、白石くんと仲よくおしゃべりできてニコニコだ。
「うん、ぼくも結ちゃんの顔見れたらすごくやる気出た」
「へへ、照れちゃうな……、わたしだってそうだよ、悠翔くん」
「うれしいな、またいっしょに勉強できて」
「ごめんね、悠翔くん。いっしょにいると、わたしがなんか、悠翔くんのお勉強を邪魔しちゃってたみたいだよね」
「そんなことないよ」
「だってわたし、くっついて座りたがったり、手を握ってって言ったり、なんか、わたし……、いつもすぐ近くにいたいって思っちゃうの、悠翔くんといると。やだよね、そんなベタベタする女の子」
「そんな事ないって。それはぼくだって同じなんだよ。
ぼくね、最近考えてることがあってさ、神様が言ってたことも、覚えている部分を思い返してみたりしてる。
それで、ぼくは思うんだ。
感情は融合したがるものなんだよ。
そのために手をつなぎたくなったりね。
それがきっと、人間の本来の姿だから」
「どういうこと?」
「思考は感情を飼い慣らそうとする。
試しに別々に勉強してみようとかね。
感情を全部使いきっちゃわないよう、知恵を使って考えるんだ。
体はひとつなのに、感情と思考がそれぞれ支配しているから
「会おう」とか「会わないでいよう」とかさ、
一見矛盾した行動をするけど、
最初に生まれるのは感情の方で、そっちのほうが大事。次に生まれる思考がそれを支えているんだ。
そういう優先順位なんだと思うな」
「悠翔くん…、今神様みたいだったよ。どうしたの」
「そうかい、ぼく最近こういう事をよく考えるようになったんだ」
「なんか、神様Q&Aのときみたいに、
悠翔くんが言っていることが、きっと“本当のこと”だって腑に落ちるのがわかる。納得できるって。
きのうパパも似たようなことを言ってたんだ。進路のことを話してたとき。
“生きる”と“生きる術”は違うんだって」
「さすが結ちゃんのお父さん。
いつも本質を教えてくれる、さりげなくね。
心に残る言葉をいくつも持っているよ。きみのお父さんもお母さんも」
なんか、ますますハルトっぽい口調になってきたけど、わたしは嫌だとは思わない。
もっといつものように話してほしいけど、白石くんの言葉が深くて思わず聞き入ってしまうよ。
で、わたしは考えた。
そのハルトっぽい悠翔くんと、パパのことばに従えば、
「わたしが、“悠翔くんといっしょにいたい”と思うのが感情であり、“生きる”ってこと。
そして、“勉強に集中して、同じ高校に入る”って考えるのが思考であり“生きる術”、つまり進路ってことね」
「だからぼくたちは今、一所懸命に受験勉強しているんだよ、結ちゃん。
離れてても、会えなくても、感情を僕たちは共有している。そして思考もそれを支えているんだよ。
いつでも、どこにいても結ちゃんのこと考えてるよ、好きだよってこと」
最後の言葉は、他の人に聞こえないような小さな声だった。
わたしはドキッとしてうつむいちゃう。顔が火照って熱くなる。
でも、心の中にはあたたかい気持ちが、“感情”がずっと残っていた。
最近ちょっと大人びてきた白石くん。わたしは置いていかれそうな気がしてちょっとだけさびしい……かな。
*
図書館には16時までいて勉強した。閲覧室を出て本棚の間を通っているときに、わたしはある本を見つけて足を止めた。
「『前方後円墳と日本古代史』。覚えてる? これを借りようと思って見てたとき、悠翔くんを見かけて、わたしたちはじめて口をきいたんだよ」
白石くんは黙ってその本を見つめている。窓からの日差しが逆光になっていて表情がわからない。
クーラーからの涼気が、まるで本物の風のように吹き抜ける。
「悠翔くんの自由研究も前方後円墳だったんだもんね」
「ぼくはなんで前方後円墳をテーマに選んだんだろう」
「えっ、まぁこの辺にはいっぱい古墳があるからね。自然と気になっていたんじゃないかな」
「結ちゃんはなんでこの本を借りようと思ったの」
「わたしはお母さんが応神天皇陵に勤めていたから……」
「なんで結ちゃんは破損した石室を見つけちゃったんだろう」
「えっ?」
「全部導かれていたんじゃないかな」
「神様に……ってこと?
どういうこと、どうしちゃったの、悠翔くん」
白石くんはハッと目が覚めたような様子で顔をあげた。
フワリと前髪が風に揺れる。
「そう、そんな気がしただけ。
なんでこんな事言いだしたのかな。ごめんね、結ちゃん」
「うふふ、きょうは勉強がんばりすぎて、頭疲れちゃったもんね。わたしも頭クタクタだよ」
「そうだね、ぼくはお腹も減っちゃったよ」
(3)
7月28日(水)
この日自宅でひとり勉強に励んでいた白石悠翔が、眠りについたのは0時を過ぎていた。
白石悠翔は夢を見ていた。今年の春に行ったキャンプ場の夢だ。
夕焼けの丘の上で日向結とハグをした、前にも見たことのあるこの夢。
今夜見た夢にはその続きがあった。
記憶にはない追体験をするという不思議な夢。
そして、悠翔にはこれが夢だという自覚があった。
(神様の視点だ。ぼくは今、神様があの日見聞きしたことを、夢で見ているんだ)
結といっしょに丘から戻ったあと、仲間と夕食を食べ、焚き火の周りで話をした。男子3人でテントに戻ったあとも、ずっと話をしていた。進路のこと、将来のこと、人気のある女子のこと。眠ってしまうまで話し続けていた。
そして夢を見た。それは夢の中で見る夢。
(キャンプ場で見た夢を、今また見ている。ぼくは覚えてないけど)
神様――ハルトの見たのは真っ暗な空間に浮かんでいる夢だった。ハルトの考えが声になって聞こえてくる。
「やはりそうだ、人間は思考だけを肉体から遊離させることができる」
(なんだ? この真っ暗な空間は。ぼく浮かんでいるのかな)
「条件がそろえば、こうして上位の次元にまでくることができる」
ハルトは白石悠翔の情報に接触した。悠翔の生まれたときから現在まで、未来までの情報のフラッシュバックが映像として見える。そして白石悠翔もそれを見ていた。
(あの赤ちゃんがぼくなのか? あれは、ぼくが生まれたときのお父さんとお母さん? 幼稚園の頃のぼく。小学生の頃のぼく。そして未来の……? あれは未来のぼくなのか?)
ハルトが接触している悠翔の未来の映像は、何重にも重なり合っている。不明瞭だが、白い光となって輝き揺らめいている。
「未来は確率的に存在しているんだ」
夢で見ている夢の中から、ハルトが語りかけてくる。
「きみの道は、日向結と出会うことで、それまでとは大きく違う人生に分岐しているね。
彼女と重なった道を行くかどうかは、これからのきみの選択しだいだよ」
(どういうことですか? 未来は神様にもわからないんですか)
「きみがある選択をしたとして、
次の分岐点までの未来は知ることができるけどね。
でも、そこまでだ。その先はわからないよ。
次にきみが何を選択するかしだいなんだ」
(結ちゃんを選ぶ。結ちゃんが幸せになる道を選ぶ。そういうことですか)
「だから、きみしだいだよ。
きみはもうわかっているはずだ。
さて、ぼくは確かめたかったことがわかったから、もう行くよ」
(確かめたかったこと?)
「夢のことと、きみの気持ちだよ」
(えっ?)
唐突に夢は終わり、悠翔は目を覚ました。
もう朝で、人の話し声がテントの外から聞こえてくる。
神様の視点はもうなくなり、もとに戻った悠翔は、今見た夢をしだいに忘れていった。
だが、現実の悠翔はまだ夢の中だ。
(この夢はいつ覚めるのかな?)
「また、会いに来るよ」
急に重力を感じて、体が落下する感覚があった。
ベッドにドサッと落ちたと思った途端、悠翔は目を覚ました。
(4)
8月2日(月)
今日から夏季補習の後期が始まった。
3年1組から3組は午前中、4組と5組は午後の授業となる。わたしは1組で、白石くんは5組なのでいっしょに登下校はできないんだ。
いつも白石くんと待ち合わせる、花屋さんの前をさびしく通り過ぎて学校へ通う。わたしが毎朝白石くんを待っていたブナの木で、セミが盛大に鳴いている。
(夏休み終わったら、すぐ模試と中間テストがあるんだよなぁ)
勉強勉強でいやになっちゃうけど、力がついているか試したいという気持ちも、無いわけではないんだけどね。
数学がやっぱりまだ苦手かな。英語はパパにヒアリングの練習をしてもらってるから、最近はかなり自信がついてきた。パパとママが英語でしゃべってるのも、だいたい聞き取れるようになってきた。
「美沙と内緒話ができなくなってしまったよ」
ってパパが言ってたもんね。
*
今日の補習授業は、英語、国語、数学と三時限で終わって、お昼前に下校する。
白石くんはいないので、クラスの女の子2人と途中までいっしょに帰るんだけど、女の子同士で他愛もないおしゃべりをするのも楽しいな。
「結さぁ、なんか英語の発音すごく本物っぽくなってきたよね」
「え、本当? うれしい。パパと特訓してるんだ」
「結のパパ英語ペラペラだもんね、って当たり前か、ははは」
「やっぱり、アメリカ人だとお母さんとキスとかするんでしょ?」
「うん、まあ、するかな」
「えー、結も?」
「わたしはほっぺにチューくらいだよ」
「きゃー、それでもすごい。あたしされたことないよ」
「ははは……」
(キス……か)
「それじゃね」「また明日」「バイバイ」途中で女の子たちと分かれてからも、ひとり歩いてると白石くんとのキスを思い出して顔が火照ってくる。
(暑い、暑いなぁ……)
ハンカチで汗を拭き拭きマンションに着いた。
*
「ただいまー」
「おかえり、結」
「おかえりなさい、暑かったでしょ」
帰るとパパがお昼ごはんを作っている最中で、ママは窓側のベビーベッドでお昼寝中の宙を見守っていた。
「宙もただいまー」
小さく声をかけて宙をのぞき込む。
「おっぱい飲んで、今眠ったっとこなのよ」
「こっちもランチができたぞ、早く荷物置いて手を洗っておいで」
パパがお昼ごはんのトルコライスをテーブルに運びながら言った。
「わぁ、これ久しぶりに食べる。美味しそう」
「ちょっとアレンジしてあるからね、前よりももっと美味しくなってるぞ」
ドライカレーにビーフカツがトッピングされて、デミグラスソースがかかっている。
「本当に美味しいわ、ジョー。カレーの風味だけが活きてて、辛くはないのね。母乳にも影響がなさそう」
「そうだろうとも、スパイスを工夫してあるんだ」
パパは、作ったお料理を食べてもらってるのを見るのが好きだ。ニコニコしてる。
「これもパパのレストランで出すの?」
「うーん、[堂島]は和風料理の店だからな、どうかな。シェフに相談してみるか、ははは」
*
「ふー、美味しかった。ごちそうさまパパ」
「ごちそうさま、ジョー」
わたしはソファに行って、ゴロリと横になった。
パパとママは向かいのソファに並んで座って、なにか英語でおしゃべりしてる。
「We’ll start giving him solid food soon.(そろそろ離乳食を始めないと)」
「Leave the solid food to me. I’m ready.(離乳食もぼくに任せておけって。準備もできてるんだ)」
「I’m sorry for leaving the cooking to you, Joe.(お料理を全部ジョーにやらせてごめんなさいね)」
「Don’t worry. Never apologize. Love doesn’t matter, Misa.(気にしないで、謝ったりしないでよ。愛あればこそだよ、美沙)」
わたしはパパとの特訓の甲斐があって、なんとなく聞き取れているんだけど、わからない振りをしてた。
それで、そのあとパパとママがキスし出したのも、いつものように見ないようにしようとクッションを顔に押し当てたんだ。
でも、きょうはクッションから目だけ出して、ふたりのキスの様子をじっと見入ってしまった……。
か……顔が、わたしきっと顔が真っ赤になっている。あ……熱い、顔が熱い。心臓もドキドキしてる。
……でも目を逸らせない。
パパとママの熱烈なキスは何十秒間か続いた。
(5)
白石悠翔は午後からある、夏季補習授業の準備をしていた。教科書と筆記用具をそろえながら、ふとバッグのポケットに触れる。
そこには日向結からもらったお守りがふたつ入っている。
(結ちゃんはもう下校してお昼ごはん食べてるころかな)
忘れ物がないか、もう一度バッグを点検してから家を出ていった。
*
悠翔のいる5組も、英語、国語、数学の三時限だ。
授業の内容はどの教科も、1,2年生からのおさらいと小テストで、悠翔は数学の小テストで、満点を取れたので満足していた。
(やっぱりぼくは、数学が1番好きだな)
ただ好きというのではなく、ここから繋がっていく、高校数学や物理、さらに大学や大学院での天文学、宇宙物理学、素粒子学などに興味があるので、それらを学ぶ上で基礎となる、今の中学数学にも力が入っているのだ。
(前は地理や世界史の方が好きだったんだけどな)
都市伝説が好きだったせいで、人類の謎、世界の謎に触れる文系の学科が好きだったのに、〈万物の正体〉とチャネリングするという体験をしてからは、宇宙の起源や成り立ちに興味の対象が変わっていた。
(でも、神様におよそのことを、教えてもらっちゃってるようなものだけど……)
〈万物の正体〉が語ったことが、真実であると証明することは、現在の人間にはまだできないだろう。でも、この分野の最先端に立つことは無理だとしても、宇宙のことを学びたい。
(真実が解き明かされたときに、それを理解できるだけの学問を身につけていたいんだ)
悠翔の考える進路は、少しづつ方向を変えつつあった。
*
「ただいま」
もう仕事から帰ってきていた母親に声をかけて、悠翔はすぐに自分の部屋に入った。
バッグを机の上に置いて、ベッドに寝転ぶ。手をのばして本棚から読みかけの本を取って広げる。
『宇宙は何でできているのか』。先週買ってきた本の続きを読んだ。
今のところ〈万物の正体〉が語った、世界の真実を言い当てている本は見当たらない。都市伝説界隈でもそんな仮説は聞いたことがない。
“思考が先に生まれた”というのが本当のことだと信じるのは、〈万物の正体〉の話に説得力があったからだ。
あの神様が言っていることが、本当だということだけはわかった。
(でも、無限の時間とか、無限の広さとか……。無限というものがわからないんだよなぁ)
日向結には、それが受け入れられるのだと矢納が言っていた。時間の長大さや、空間の広大さを理解することはできなくても、それを受け入れて、その先の真実にたどり着けるという。
悠翔には、そんな結のことが、世界の真実と同じくらい愛おしく思える。
(結ちゃん……)
「悠翔ー、もうご飯ですよ」
母親の呼ぶ声がした。
「はーい」
悠翔は読んでいた本を本棚に戻した。そこにはほかに『中学生からの宇宙物理学入門』『素粒子の不思議』など、最近悠翔が買ってきた本が並んでいる。まだしまっていない、あの埴輪をブックエンド代わりにして。
(つづく) 8月30日 07:00投稿予定
最後まで読んでいただきありがとうございます。完結まで、毎日朝7時に投稿しますのでお楽しみに。




