Step.20 観念と屈辱
伊能羅磨が鋭い眼光で詰め寄り、速見喜志也は全身を震わせながら、ボソボソッと伊能の耳元で質問に何やら答えた。それを聞くと、伊能はそれ以上は無関心とばかりに踵を返して、元のカウンターに戻る。
速見沙羅は脱力で崩れ落ち、床に両膝をつけて肩を落とす。
「愛友美の目の前で……、こんな屈辱……」
肩を振るわせる沙羅は、旧友の名をつぶやく。高校時代に何もかも勝てなかった阿井愛友美(旧姓)への対抗意識で頑張ってきたつもりだったが、その本人を前にしてこうやって不正を暴露され、あまりに惨めであった。
一連の様子を黙ってソファーから眺めていた由良愛友美は立ち上がると、小さくなっている速見沙羅の横に膝を屈め、その肩に優しくポンと触れた。
「沙羅……。気を落とさないで。あなたはもうとっくに、私には勝っているじゃない。私はあなたには勝てなかったわ。完敗よ」
「え……?」
速見沙羅は、由良愛友美の穏やかな声に癒されていく。こんなに醜い姿を晒している自分の中に、あの愛友美が敗北を認める部分を見つけてくれるなんて。
「私が、愛友美に勝っている……? それは……どこが……」
「夫選びよ」
「え……」
「あなたは速見さんと結婚して速見沙羅になった。私は結婚して、今の名前は由良愛友美。や行よ。あいうえお順の出席番号だと、私は圧倒的にあなたに負けているわ」
「……くっ」
愛友美の優しい言葉に、速見沙羅はがくりと手をついてうなだれた。全く嬉しくない評価。由良愛友美はいつまでも、不思議ちゃんだった。
結局、速見夫妻の悪事は世に知らされることはなかった。ただ、京極甲次郎の靴に盗聴器が仕掛けられていたという事実だけは明かされた。京極甲次郎が司会の女性を蹴ったというのが虚報だったと明らかにするためである。実際には、京極甲次郎が靴を履く時につま先で地を蹴る癖から伝わった衝撃音が、盗聴者に誤解されただけであった。
この時より、速見沙羅は全てのクライアントとの契約を打ち切り、パーソナルショッパーを廃業した。その後は東京でその姿を見る者はなく、夫と共にどこかの地方に移り住んで別の仕事をしていると、やがて風の噂に聞く。
あのコンサートの慌ただしい日から数日後。
亜弓歩乃歌はボッテガ・ロマーナのアトリエの作業カウンターで、先輩の由良愛友美が靴を磨いている様子を横で見て技術を覚えている。足立進道が分解して小型盗聴器を取り出し、再び縫い合わせた京極甲次郎の革靴だ。
現在、伊能羅磨は足立進道と共に海外へ出張中である。歩乃歌は伊能が近くにいるとイライラすることが多いので、不在の今はのびのび仕事ができて楽しい。
シューケアを終えた京極甲次郎の靴を見ていると、歩乃歌はあの速見沙羅の一連の事件を思い出してしまう。
「それにしても伊能さん、あのトラットリアの時にはもう沙羅さんを怪しんでいたなんて。本当かなー。私は三人の部長の誰かだと思ってたのに」
「あの時は歩乃歌さん、三人の靴の種類が違う、靴に性格が現れる、とか言ってた段階だったものね。ふふ」
歩乃歌のつぶやきを聞いて、由良愛友美はクスクスと笑う。
「笑わないでくださいよー。なんかあの人、早めに解決の糸口を見つけて突き進みますよね」
「伊能先生の推理はいつも、リゾルートだもの」
「リゾルート? 求人?」
「リクルートじゃなくて、リゾルート。きっぱりと決然的に、っていう意味のイタリア語の音楽用語よ」
「……なんで由良さんも、イタリア語の音楽用語で話すんですか。伊能さんみたいに」
「私、ピアノ弾くから。イタリアでも学んだの。私も京極甲次郎のステージで弾いたことあるわよ」
「え……」
一体この人は何者なんだ……。歩乃歌はとてつもない自慢話なのにあくまで自然体すぎる由良愛友美の美しい表情を見て、唖然としていた。
その時。ボッテガ・ロマーナの入口の扉が突然開いて、一人の男性が入ってくる。
「伊能羅磨さん、いるー?」
派手なスーツを着て、煌びやかなゴツい腕時計を腕に巻き、高級そうな革靴を履いた男。
その人物を見て、歩乃歌はギョッとした。
(つづく)
※次回は恐らく、第二章の最終回です。第三章へつながるための回。
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