Step.03 ボッテガ・ロマーナ
伊能と呼ばれた蝶ネクタイの男性が勧めた革張りのチェアに、神足麗子社長は腰を下ろした。ヨーロッパの古城の室内にあるような格調高い椅子だ。
「こちらのお連れ様は」
「ああ、紹介しておくわね。うちのスタッフの阿弓よ」
伊能の問いに麗子社長は答え、歩乃歌は慌てて懐から名刺入れを取り出して名刺を差し出した。社長のバッグを抱えながらなので、マリオネットのような変な姿勢になっている。
「ピエディ・ディ・ディオの阿弓歩乃歌と申します」
「阿弓様でいらっしゃいますね。お鞄、お預かりしましょう」
伊能は名刺を受け取ると、両手を差し出した。歩乃歌は麗子社長の顔を確認すると、首を縦に振って了承したので、安心して伊能にバッグを渡す。
伊能は受け取ったバッグを洒落た棚に置き、もう一脚チェアを用意して歩乃歌に席を促した。正直かなり歩き疲れていた歩乃歌はホッとして、恐縮しながら座る。
伊能は名刺を差し出した。名刺の交換よりも先に、重いバッグを受け取り相手を椅子に座らせてから名刺を差し出すあたり、とても気遣いのできる人っぽいな、と歩乃歌は伊能に少し感心をして名刺を受け取る。
「ルストラスカルぺの伊能、と申します」
伊能の名乗りを聞いて、歩乃歌は首で挨拶をして名刺に目を落とす。
『ボッテガ・ロマーナ 伊能羅磨』
と書かれてある。先ほど名乗ったリストラなんとかというのが分からない。
「リストラ……えっと……」
「ルストラスカルぺ。イタリア語で、靴磨き師のことよ」
麗子社長が微笑んで教えた。さすがは足にまつわることなら何でも詳しい麗子社長だ、と歩乃歌は感心する。
伊能が靴磨きの道具を用意している間、麗子社長は名刺を見つめているままの歩乃歌に、話を続ける。
「彼のその名前の読み方は、"いのうローマ"。お父様が縁のあるイタリアにちなんで名付けたんだって。そうよね、伊能くん」
「その通りです」
麗子社長の呼びかけに、伊能が応える。日本人の名前にローマというのは珍しい。歩乃歌はクイズ番組で見た知識を思い出した。確かにイタリアの首都ローマは漢字では「羅馬」と書くという。ちなみにロンドンは「倫敦」でハリウッドは「聖林」だ。クイズ界ではベタ問である。
「それから、このアトリエの名前の”ボッテガ・ロマーナ"というのは、何だったっけ」
「イタリア語で、”ローマの工房”という意味です」
麗子社長が問い、伊能が説明する。
名前がローマ、アトリエ名もイタリア語、恐らく室内の家具も調度品もイタリア製にこだわってるのだろう。歩乃歌は大学の卒業旅行でイタリアに行った時のことを思い出してきた。
「羅磨さん……ステキなお名前ですね。実は私も、これまで行った海外の都市の中で、一番好きな都市がローマなんです」
歩乃歌は共通の話題が自分の中にあることが嬉しくて、つい喜んで言った。その言葉を聞くと、靴磨きの用意をしていた伊能が手を止めて、歩乃歌のほうに目を向けた。
伊能が立ち上がって進み寄ってきて、歩乃歌は焦る。伊能は歩乃歌のすぐ前に立つと、端正な顔を近づけてくる。歩乃歌はもっと焦る。
(え、え、え……、何……? ステキな名前って言ったから、愛の告白だって思われちゃった? 初対面の異性に、それ以上は……あ……ダメ)
迫ってくる伊能の視線に耐えきれず、歩乃歌は硬く目を閉じて首をすくめる。何かあったらボディブローでも打ち込もうと拳を握る。
すると、頭のこめかみあたりを指先で優しくトントンと触られる感触があり、歩乃歌は驚いて目を見開いた。
「失礼。髪に汚れが付いてましたので、払わせていただきました」
「あ、なんだ……。ありがとうございます」
伊能の説明に、歩乃歌は安堵の息をつく。ところが離れかけた伊能は歩乃歌の全身を、まるで品定めをするように上下に見てきた。
そして、なぜか再び顔を近づけてくる。
「え、え、え……、何ですか?」
歩乃歌の顔はまた熱くなっていく。伊能は耳元まで近づいた。
(つづく)
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