Step.02 靴と語れ
蹴った右足を若き靴磨き師に片手でつかまれた中年社長は、片足立ちになってプルプル震えている。
靴磨き師が靴をポイと押しやると、中年男性はバランスを崩したが、とっさに右足を床につけ持ち堪える。
「このぉぉっ!」
なおさら憤慨した中年男性は、再び踏み込んで横から右足で回し蹴りを繰り出した。空手か何かの格闘技経験者なのか、プロレスマニアなのか、明らかに見事な軌道の蹴りである。
だが靴磨きの男性がスッと立ち上がった途端、中年社長は蹴りを相手に到達させる前になぜかガクリと崩れ落ち、先ほど座していたチェアにぶつかって一緒に床に転がった。いつの間にか、軸足の左足を蹴られたらしい。
若い男性は涼しい顔で、痛がる中年社長を見下ろして言う。
「足が何かに引っ掛かったようですね。大丈夫ですか」
「キ、キサマが足を蹴ったんだろうが!」
「足元が疎かになると、簡単に倒れてしまう。よくお分かりでしょう。人も会社経営も、同じことです」
「え、偉そうに! キサマなんか、クビだ、クビ!」
「私はあなたに雇用されておりませんし、偉そうなのはあなたです。先代社長のお付き合いの延長でしたが、御社との契約は今をもって終了ということでよろしいですね。では、お引き取りを」
靴磨きの男性は恭しく頭を下げると、入口の扉を指し示した。
中年社長は頭に血が上って再び立ち向かおうとしたが、次を待ちながらニヤニヤと見下ろしている女性と目が合うと、ハッとした。愛読する経営誌などでも何度も顔を見たことがある神足麗子だとすぐに気づいたようだ。
「ぐ……ぐっ……、こんなところ、二度と来るかっ。覚えてろ」
怒りと照れが混在しながら立ち上がった中年社長は、舌打ちをして捨て台詞を吐く。神足麗子は鼻でクスッと笑うと、ぼそりとつぶやく。
「二度と来ないのに、覚えさせなくてもよいのでは? ふふっ」
「……っ!」
小太りの中年社長は神足麗子の皮肉が耳に入った途端、カーッと顔を赤らめて、鼻息荒く大きな足音を立てて、扉からそそくさと出ていった。
歩乃歌は何が起こったのかよく分からず、呆然と立ち尽くしている。
蝶ネクタイの男性は軽く両手をはたいて、倒れたチェアを元に戻してサッと布で拭き、こちらに目を向けた。
「お待たせしました、麗子社長」
「ふふ、相変わらずね、伊能くん。面白い演劇を見せてもらったわ」
「またご冗談を」
神足麗子の戯れを、伊能と呼ばれた靴磨き師はさらりと受け流す。先ほどあんな立ち回りをしていたのに、息一つ切れていない。
「それにしても、いろんな人がいるものね。靴を見るだけでその人のことを見通せるなんて、さすがは伊能くんね」
「別に見通しているつもりはありません。足を見ればその人の状態を推測できるというのは、麗子社長のお仕事でも同じことでは」
「まあ、確かにそうね。でも履き物でしかない靴からその人の内面を知るなんて、大したものだわ」
「イタリア東部にこのような諺があります。『人を知りたければ、その人の靴と語れ』。私はただ、皆さんの靴と対話をしているだけです」
「興味深いことを言うわね、伊能くん。やっぱり、早く来てよかったわ」
神足麗子は笑みを浮かべている。歩乃歌は普段あまり冗談など言わずに忙しく動き回っている麗子社長を知っているだけに、談笑をしている麗子社長の姿に驚いている。
伊能は両手の白い手袋を新しいものに付け替えた後、革張りのチェアを指し示して、言った。
「確かに麗子社長のご予約のお時間はもう少し先ですが、先客様がお帰りになられまして、このように空きました。もう始められますか」
「そうね。じゃあ、お願いしようかしら」
神足麗子は笑みを浮かべると、伊能の前のチェアに向かった。
歩乃歌は麗子社長の後ろにつく。室内に流れる優雅なクラシック曲の音色とは裏腹に、慣れない雰囲気に心臓がドキドキしていた。
(つづく)
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