Step.19 消滅
「伊能さん。私にひとつ……いや、ふたつ、嘘を言いましたね」
阿弓歩乃歌はスマホに何か入力しながら、伊能羅磨に向かって告げる。伊能は靴磨きの手を止めないが、目だけを歩乃歌に向けて訊く。
「私があなたに、嘘を?」
「ええ。ほら」
歩乃歌はスマホ画面を伊能に見せた。
「伊能さん、私や麗子社長に言いましたよね。イタリア東部の諺に、『人を知りたければ、その人の靴と語れ』というものがあるって」
「……よく覚えてますね」
「それから、イタリア西部には、『靴を知りたければ、靴の中を見よ』という諺があるんでしたよね? ネットで検索しても、ないんですけど」
歩乃歌が見せた画面は、サーチエンジンの検索結果のページだった。伊能は動じない。
「日本語で検索しているからでしょう」
「ちゃんとイタリア語でも、何ならラテン語でも検索しました。そんな諺、一つも出てきません。テキトーに言ってますよね?」
歩乃歌に検索結果を突きつけられても、伊能は無表情で靴磨きを続ける。その後ろで由良愛友美がニヤニヤと妖艶な笑みを見せている。この先生はこういう人なのよね、とでも言いたげだ。
歩乃歌はさらに捲し立てる。
「だいたい、あんなイタリアみたいな南北に長い国で、東部とか西部って、具体的にどの辺りを指すんですか? ネットで『南米チリが東西に分裂』っていうフェイクニュースなら見たことはありますけど」
歩乃歌の追求に、由良愛友美は口を押さえてクスクス笑っている。
伊能はつぶやくように返す。
「イタリアの東西は150kmから200kmぐらいの距離はあります。南米のチリも東西は200km近くあって、案外太いんです」
「でも、諺は存在しないですよね? それに伊能さん、先日社長室で麗子社長に『靴で人を傷つける人間も信用できないんです』って言ってました。それは本当ですか?」
「もちろん」
「でも、私と初めてここで会った時、伊能さんは靴で中年社長の足を蹴って倒してましたよね? ご自分も靴で人を攻撃してるじゃないですか」
「……」
「ここの靴磨き工房は、嘘つき店主がインチキなことを言って靴で蹴ってきますって、クチコミサイトに書かれても文句ないですよね」
歩乃歌はスマホの画面をぐいぐいと伊能に近づけて言う。それでも伊能は、靴磨きの手を止めない。
「そんな脅しを言ったって、ここに助手の空きはありませんよ」
「じゃあ、出すしかないですね」
「何ですか」
「これ、聴いてもらえますか」
歩乃歌はもう一度スマホの画面に向き合うと、今度は録音アプリを立ち上げて、再生ボタンを押した。
スマホのスピーカーから、先日のピエディ・ディ・ディオの社長室での会話の音声が再生される。伊能の声が嫌がらせのように大きな音量で、店内のBGMのクラシック曲の調べをかき消す。
<……そこでサロン各店に多くいる女性スタッフの中から、顔もなかなかかわいい、スタイルもまあまあ良い、おっぱいもそこそこ大きい、そういう見た目重視の女性をアシスタントに抜擢した。阿弓さんも、そちらの伊丹さんも木津さんも……>
明らかに伊能の声である。あの社長室での時、歩乃歌は話の流れを危険に感じ、こっそりスマホで録音をしていた。
「セクハラ発言ですよね? 本人を目の前にして」
「……」
「ここの靴磨き工房は嘘つき暴力セクハラ店主が、おっぱいの大きさを本人の前で言ってきますって、クチコミサイトに書かれても文句ないですよね」
歩乃歌の言及に、今度こそ伊能は閉口している。由良愛友美は口を手で押さえて声を殺しながらも、涙目で爆笑している。
歩乃歌はもう一度該当音声を再生しながら、さらにスマホを突き出して訊く。
「伊能さん。本当にもう、助手は空いてないですか?」
「……」
「空いてないですか? 助手」
「……。一級助手はいっぱいですが、二級助手なら空いてたかな……」
「なんですか二級って」
「じゃあ二級は締め切って、三級、いや四級助手が空いてます」
「二級助手でいいです、二級で。阿弓歩乃歌、今日からこちらでお世話になります。靴も自分も磨いていきます。よろしくお願いします!」
悪びれもなく歩乃歌は大きく頭を下げて挨拶した。あれほど神足麗子をボロカスに言い負かした伊能を説き伏せることができたからなのか、歩乃歌は興奮気味に肩で息をして、笑みを浮かべている。
伊能はやれやれという表情で溜め息をついた。由良愛友美は面白い仲間ができたと喜んでいるようで、にこやかにうなずいている。
伊能は靴を磨いていた手を止めて、しっかりと歩乃歌と向き合った。
「……歩乃歌さん。あなたは次の職が見つかるまでの腰掛けのつもりかもしれませんが、ここは一流の技術を求めて一流人がやって来る工房です。やめるなら今です。生半可な気持ちでは務まらない、過酷な仕事場ですよ」
「望むところです。ブラック企業でもパワハラ職場でも、ちゃんと実力を見せてきた私ですよ。なめてもらっちゃ困ります」
「私とあなたとでは、ディソナンツァにしかならないと思いますが」
「上等ですよ。ディソナンツァ……不協和音のことですよね? 社長室で聞いた後に調べましたよ。不協和音も、それはそれで一つの立派な音楽でしょ」
歩乃歌は伊能を睨み返す。
伊能は根負けしたのか、再び手元の美しい靴に目を落として、靴磨きを再開した。
少し笑顔になっているようにも見えた。
この翌月、神足麗子は株式会社ピエディ・ディ・ディオの代表取締役を辞任し、会社を去った。パワーストーン販売事業の実態をめぐって、取締役会で一悶着あったらしい。
その数ヶ月後、中級ビジネスホテルを各地に展開するチアフルホールディングスが、ピエディ・ディ・ディオの全株式を取得して子会社化。本丸のリフレサロン事業とリフレクソロジスト養成スクール事業のみを残して、他の展開事業を全て精算。リフレサロンも「ラ・カリーナ」と店名を変えて、中級ビジネスホテルのテナントとして合うように低予算の簡易フォーマット化。一流ホテルや百貨店などの一等地のサロンは大半が閉店となり、一気に全国25店舗ほどに縮小した。
こうして、神足麗子の緻密なブランディング戦略のもと、そのエレガントさで一斉を風靡したイタリア式リフレクソロジーサロン「カリーナ・カリーナ」は、伊能羅磨のボッテガ・ロマーナとの契約終了後、一年も経たずに、名実共に消滅した。
(第一章 完 / 第二章につづく)
※読者の皆さんの感想を聞かせてください!
また面白いところがあれば、高評価いただけると嬉しいです。(作者)