Step.18 次の一歩
ボッテガ・ロマーナの作業カウンターで、伊能羅磨は一人、ひたすらに一足の革靴を磨いている。オーソドックスなダークバーガンディカラーでありながら、赤紫とも濃翠とも表しづらい珍しい美しい色ツヤを放っている靴に、何度もブラシをかける。
間もなく夕刻という頃。黙々とシューケアを続けている中、いきなり扉が音を立てて開き、靴音を立てて若い女性が入り込んできた。
阿弓歩乃歌だ。かなり興奮気味の形相である。
「歩乃歌さん。どうされたんですか」
「責任取ってください、伊能さん!」
手元の作業を止めずに目だけを向けた伊能に、歩乃歌は歩み寄って叫ぶように言った。まるで掴みかからんばかりの勢いだ。
「何ですか、責任って」
「クビになったんですよ。ピエディ・ディ・ディオを。伊能さんがあんなに会社を引っ掻き回して。麗子社長はあれから荒れに荒れて。なぜか私が背任行為で解雇ですよ。私、何かしましたか? 何もしてませんよね?」
「不満なら、解雇は無効だと、会社を訴えればいいじゃないですか」
「訴えて会社に残れたところで、地獄ですよあの空気。とてもまともに働ける雰囲気の場所じゃないです」
「じゃあ、辞められてよかったんじゃないですか。歩乃歌さんの新しい門出ですね」
「他人事みたいに言わないでください。誰のせいなんですか!」
歩乃歌は作業机に拳をドンドンと叩きつけている。伊能に言っても何の解決にもならないことは、歩乃歌も分かっている。だが、誰かにこの怒りをぶつけないと気が済まない。どうせなら、怒りを向けようと平気でかわしそうな伊能ならサンドバッグにしてもいいんじゃないかと思ったのか。
「私、職を失いました」
「そうですか。職探しは明日からなのですか」
「伊能さん、あの時、私に言ってくれましたよね」
歩乃歌はくるっと踵を返し、扉の方にコツコツと数歩進むと、パッと振り向いて肩越しに言う。
「『どうかあなたが、次の素晴らしい一歩を踏み出せますように』。って」
揃えた人差し指と中指の二本をこめかみに当ててピッと離す。どうやら社長室での伊能のモノマネらしい。
「だから私、一歩を踏み出してここに来ました」
「あの流れだと、誰が見ても麗子社長への言葉でしょう。なんで歩乃歌さんへの励ましと思ったのですか。それに、そのチャオみたいな仕草も、やってないですよね」
目だけを向けて見ていた伊能は、溜め息をひとつ吐くと、再び手元の美しい靴の磨き作業に目を戻す。
歩乃歌はすぐに作業カウンター越しに伊能の前に移り、カウンターに手をかけて乞うような目でいう。
「雇ってくださいよ、ここで。行き場がないんです」
「ご冗談を」
「お一人みたいですから、大変でしょう。助手が必要ですよね。それに伊能さん、いつも革の手帳を使っていて、スマホやタブレットなども使わないでしょ。ここにもPCとかないですし。デジタル業務も代わりにやりますよ。あの多忙な麗子社長のアシスタントやってたんですから、有能ですよ私」
「残念ですが、助手の座はもう空きがなくて、歩乃歌さんにやっていただく仕事はここにはありません」
作業を続けながら、伊能は冷たく言い放つ。歩乃歌はカチンと来て、カウンターをバンと叩いた。まるであの日の神足麗子だ。
「助手なんて他に誰もいないでしょ。それに何ですか、さっきから歩乃歌さん歩乃歌さんって、下の名前で呼んで馴れ馴れしい。前日まではずっと阿弓さんって呼んでたじゃないですか。なんで今日は、阿弓じゃないんですか! 阿弓って呼べばいいじゃないですか!」
「いや、ここではその名前は……」
伊能が歩乃歌の言葉を遮ろうとした時、伊能の作業カウンターの後方にあったドアがガチャリと開いた。
「なぁに、先生ェ。私の話……?」
眠そうに目をこすりながら一人の女性が出てきた。見た目の年齢は30代前半ぐらい。ウェーブのかかった長い明る目の茶髪、ネグリジェのようなヒラヒラした薄手のブラウスは胸元が大きく開き、豊満な谷間が見えている。
(えーっ! めっちゃエロい愛人みたいな人が出てきたーー!)
歩乃歌は目を見開く。この工房にはまだ奥に部屋があることを知らず、てっきり伊能一人しかいない作業場だと思っていた。
「ど、どなたですか……」
「彼女はうちのスタッフの由良愛友美さん。ここでアユミさんと言ったら、彼女のことなので」
「どうも、由良アユミです。ちょっと寝入っちゃってて、ごめんなさいね」
愛友美と名乗った女性は寝起きの半目で、色っぽい声でぺこりと挨拶をする。歩乃歌は応えて首で挨拶を返すも、唖然としている。こんな時間にこんなセクシーな格好で裏で寝ているなんて、いったい伊能とどういう関係なのか。というか絶対愛人だろこれ。
「あの……。伊能さんの……お付き合い中の方とか……?」
「え、私が? 伊能先生の? あははは、ないない! こんな靴オタクの頑固な変人さん、まともに付き合える女性なんていないでしょ。私、結婚して子どもいるし。これから保育園に子ども迎えに行くし」
「はぁ……」
あっけらかんと笑っている愛友美に、歩乃歌は呆然としてしまう。ここまで伊能を馬鹿にできる女性は初めて見たからだ。
「そういうことで、助手の席はもう空いてないんです。お帰りを」
伊能は靴磨きの手を止めずに、歩乃歌に言った。だが歩乃歌は食い下がる。
「いいえ、帰りません。私、伊能さんに言っておきたいことがあります」
歩乃歌はポケットからスマホを取り出すと、何やら操作を始めた。
(つづく)
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