Step.10 表参道の社長室
阿弓歩乃歌に伊能羅磨からのメールがあったのは、その数日後だった。
神足麗子社長から預かっていたいくつかの靴のシューケアを終えたため、翌日に自ら伊能が本社に持って行くので麗子社長の時間を取ってほしい、という連絡である。
「うぅ……。あの人、簡単に言ってくれる……」
歩乃歌は唸る。超多忙の麗子社長のスケジュール管理は大変だ。10分の時間を空けるだけでも調整が複雑で、しかも翌日の話となるとなおさらである。靴を渡すだけなら社長本人でなくても、歩乃歌や他の社員に渡せばいいだけではないか。何なら配送でいいのに。たかが靴のことで麗子社長に連絡をするというだけでも、気が引けて胃が痛くなる。
ところが、恐る恐る伝えてみると、麗子社長は伊能を迎えるために三十分ほどの時間を強引に空けた。二人はそれほどまでの信頼関係なのか。まさかディープな愛人関係とかではないだろうな。歩乃歌はつい疑ってしまう。
翌日、伊能が箱を抱えて株式会社ピエディ・ディ・ディオの本社にやって来た。歩乃歌は受付で伊能を出迎える。パリッとしたスリーピーススーツに蝶ネクタイのいつもの姿。靴磨き屋だけあって、自身の革靴はピッカピカだ。
ピエディ・ディ・ディオの本社は「カリーナ・カリーナ」1号店の創業地でもある港区の表参道にある。六階建てのそのビルは二年前から自社保有となり、いかに同社が高収益の発展をしているかが分かる。
ビルの築年数はやや古いが、オフィスの中はカリカリのコンセプト通りの落ち着いた欧州スタイルのインテリアで統一されている。歩乃歌は伊能を社長室へと案内しながら、チェーンのついた緑の石を見せた。
「あの、これ、やっぱりお返しします」
「棄ててなかったんですね」
「ご自分で棄てたらいいじゃないですか」
「いえ、ちょうど今から必要になるかもしれませんよ」
伊能はまたフッと微笑みを見せると、歩乃歌にそのクソダサな緑の石を持たせたまま、オフィスを抜けて社長室へと入った。
広い社長室。絶好調の経営状態を表しているかのような、豪勢なれど洗練された空間。中央正面の大きなデスクで、麗子社長は様々な書類に目を通しているところだった。
右側にはアシスタント用の作業机が三つあり、そのうち二つの机でパソコンに向かって仕事をしていた若い女性社員二人がすぐに立ち上がって、姿勢良く伊能へ頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
首から掛けたIDパスには名前が書かれている。左のデスクの伊丹元香さんはブラウス姿、右の木津琴奈さんはオフショルのワンピース姿。サロンでのスタッフ用の白い制服は統一されているが、本社勤務の社員はかなりオフィスカジュアルが認められているようだ。二人のアシスタントはとても若く美人で、社長室が華やいでいる。もう一つの空いている席が、歩乃歌のデスクだ。
麗子社長は仕事の手を止めず、目だけを上げて言った。
「伊能くん、ごめん。仕事をしながら聞く感じになるけど」
「いえ、お気になさらず」
「急に伊能くんが自ら来るっていうもんだから、何が何でも会わなきゃって思ってね。例の話よね」
「ええ。お時間いただいて恐縮です。お預かりした靴は、後ほどご確認ください」
伊能は持ってきた2つの箱を、歩乃歌に手渡した。靴が入っているのだろうが、先日歩乃歌がボッテガ・ロマーナに同行した時には、麗子社長は靴を持っていってなかったはずだ。定期的に受け渡しをしているのだろうか、と歩乃歌は勘繰る。やはりあれほどファッションにこだわる麗子社長ほどの女性だと、このようにお気に入りの靴をプロに任せるのは当然なのだろう。
麗子社長は何かの書類にこだわりの万年筆を走らせながら、伊能へ確認する。
「伊能くん。私の不安の正体、突き止めてくれたってことね」
「はい、大まかには。今日は最後にいくつか、直接確認をさせていただこうと、お時間とっていただきました」
「まあ。伊能くんから私の時間を求めてくれるなんて、嬉しいわ。じゃあ、これから私は、枕を高くして安心して眠れるってことかしらね」
「どうでしょうか。露呈すると逆に安心が崩壊するという真実も、世の中にはありますから」
伊能の言葉に、パタンと乾いた音がする。神足麗子が万年筆をデスクに叩きつけた音だった。歩乃歌も作業中のアシスタントたちも、ビクッと体を震わせる。途端に社長室の中に緊張の空気が張り詰めた。
「どういうこと、伊能くん。何か重大な事実が、隠されてたってこと?」
「隠されていた……、誰にですか?」
「……いいわ。聞かせてもらおうじゃない」
伊能の妙な疑問詞を聞くや、神足麗子は万年筆や書類をさっと横に払うと、伊能を見上げた。立ち姿の伊能は、微笑んで小さく頷いている。
歩乃歌は固唾を飲んだ。麗子社長も伊能も、口角をあげてにこやかに見つめ合っている。しかし明らかにそれは、対立する敵のような睨み合いにも見えた。まるで今すぐにでも殺し合いが始まるのではないかというぐらいの緊迫感が漂っているのである。
横の二人の女性アシスタントも、作業の手を止めてオロオロしながら二人を見ている。ただならぬ空気があった。
神足麗子は重厚な革張りのチェアにもたれて、足を組み、腕を組んだ。視線は伊能から離さないままだ。とても美しい姿ではあるが、何でも言ってみろという挑戦的な恐ろしい態度にも見える。
「伊能くん。一言で教えてよ、私の不安の正体」
まるで挑発するかのような口調で、神足麗子は言った。
伊能は微笑んで返す。
「リピート、ですよね」
「……!」
神足麗子は息を呑み、目が見開く。
(え、何のこと……?)
伊能の横に立つ歩乃歌は、ピリピリとした空気の中で、背中にぞくりと悪寒を感じていた。
(つづく)
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