夜に花火は咲いて散る
大事な子が、もうすぐ死ぬらしい。
それを耳にしたのは、「彼」と別れてから二年後の春、俺が大学生四年で、彼が大学三年生の時だった。夏の暑い日だったのを覚えている。
彼と俺は商店街の昔からある、耳の遠いばあさんがやっている駄菓子屋の前でばったり会って、懐かしいななんて言って二つに割れるソーダのアイスを二人で分け合って談笑していた。その話の中で、しばらく会っていなかった教え子の「彼」の話になって、その流れで目の前の男はなんてことない雑談の一つの様に言ったのだ。
「今年の紅葉は見られないみたいです。余命宣告されちゃいました」
「……は?」
ぼとり、と食べかけのソーダアイスがコンクリートに落ちてシミを作った。
「なんかおかしいな~、とは思ってたらしいんですけど、まだ若いし大丈夫だろって思ってたら身体がもうダメだって言われちゃいました」
「……死ぬってこと?」
俺が普段出せる声量の半分も出なかった。
「死ぬって事です」
目の前が真っ暗になる。死ぬって、どういうことだっけ。
彼の葬儀は九月に入る前に終わった。
秋までは持つと思ってたが、そうでもなかった。確かに紅葉は見られない時期だな、と喪服のネクタイを緩めながら俺は帰路につく。
彼の名前は七原陽介。家庭教師のバイトをやっていた時代の教え子だ。二年間、勉強を教えていた。大学は俺と同じ所を志望していたけれど、流石に偏差値が足りなかったと悔しがっていたのを覚えている。つい最近の事なのに、つい最近までいつでも会おうと思えば会えたのに。
――もう会えない。死ぬとはこういう事か。
一人暮らしのアパートの階段が錆びた音を出す。古いドアに鍵を差し込んでドアノブを回す。六畳一間の部屋には一人の男が座っていた。口元のほくろが印象的な男は俺を見てぱあっと表情を明るくする。
「先生!お邪魔してます!」
「……幻覚?」
「幽霊です!」
彼は笑顔でそう言った。
彼の話を要約するとこうだ。
神様とかいう奴は本当に居る。そんで、七原陽介と言う人間の死因があまりにも可哀そうなものだったから、何か一つ生き返らせる以外で願いを叶えてやろうと言ってくれたらしい。それに彼は答えた。「幽霊でもいいから会いたい人がいるんです! 少しの間だけでもいいので!」それで何故か俺が選ばれた。幽霊になって遊びに行く場所に。
なんで俺なのかはさっぱりわからない。親兄弟はアレとしても、友人はいなかったのか。そう言うと彼は「友達は強いから大丈夫」と意味の分からないことを言った。
「親より友達より誰より……先生の事が心配だったんです……。だって先生、変に拗らせてるから良からぬことを考えてたらどうしよう……とか、思ったり思わなかったりして」
「俺が犯罪者になるとでも思ったか?」
「少しは」
「お前もう成仏しろ」
そうして塩を撒いてやると彼は大げさに嫌がった。
「あーいけません! いけません! 浄化されてしまいます!」
「先生はリスクを考えて行動する派なので安心してください」
そう吐き捨てたように言うと、彼は見るからにほっとした表情で言う。
「ですよね~。じゃあ、僕は今日からしばらくこの部屋に居候させてもらうので!」
「は?」
「え、先生に捨てられたら雨風しのげる場所無いですよ? いいんですか? 元生徒がそんな可哀そうな目にあって」
「死んでるから雨風関係ないんじゃ……」
「まあ嫌と言っても居座りますが……」
彼はいきなり狭い部屋で大の字になってバタバタと手足を動かし主張する。洗剤をかけたゴキブリに似ている。動き方もしぶとい所も。俺はため息を吐いて仕方なく了承した。
「暴れるな暴れるな。わかったよ、狭い部屋でよければな」
「すぐ出て行きますよ、約束守りに来ただけですから」
「約束?」
覚えのないそれを聞くと、彼は大げさに、それはそれは大げさにショックを受けたような反応を返した。
「約束、覚えてないんですか⁉ 死ぬ前に花火大会行くって!」
「お前死んだじゃん」
「だから心残りだったんですよ~! 僕がいきなりいなくなって誰も行く人がおらず一人寂しく花火を見るなんて悲しすぎます!」
「だから俺が一緒に見てやるよって?」
「そうです!」
「いらね~」
花火なんて元々興味ない。あんなのは火薬と化学反応の産物だ。夏の風物詩でも何でもない。その証拠に年がら年中テーマパークやイベントでドカスカ上がっている。幕張あたりに住んでいると花火は珍しくも無いし。ただあの時は。
『じゃあ死ぬ前に花火行くかー』
『え?』
『お前好きだっただろ、花火大会。受験生の時に友達は行ってるのにってブーブー言ってたじゃんか』
『それは勉強したくなかったからで……、ああ、いえ、そうですね』
『なんか不満でも?』
『いえ、楽しみにしてます』
あの時は、少しでも元気を出してほしいと思った。それから、八月の下旬の花火大会。紅葉が近づくその時に、元気でいられる希望を持てるようにおまじないとして。
「花火大会までは……ってもう明日なのか」
カレンダーに過去の自分がご丁寧に赤丸をつけた花火大会は明日。色々ありすぎて頭からすっぽ抜けていた。
「はい。だから神様も許してくれたんです。まあ数日現世で迷子になるくらいのトラブルなら上司も許してくれると思うって」
「神様上司いるんだ……」
そんなわけで、幽霊とのたった一日の共同生活が幕を開けた。学校もバイトも休みだったのが幸いだった。この夏は予定もなにも入れていない。恋人とは別れた。全部、彼の為に使うつもりだったから。
「おーはーよーごーざーいまーす! せんせー! 起きて!」
「うー……」
「僕、今日で成仏しちゃうんですよ⁉ 一秒一秒を大切にしてください!」
「一秒一秒を噛み締めて寝させてください」
どうやら彼の幽霊が現れたのは夢ではないらしかった。だとしたら、彼が死んだのも夢じゃなかったのか。俺はその事が途方も無く虚しかった。
「なあ」
「はい?」
「死ぬって寝るのと違う感覚なの?」
数秒の沈黙。彼は小さな声で言う。
「寝落ちの時に近いですけど、明日がないって理解させられる瞬間は寂しいですよ」
「そうか」
死ぬっていうのは寂しい事なのか。実際に経験した人間が言うならきっとそうなのだろう。寂しい、寂しいとはどういう感情だったっけ?
「先生、お昼ご飯作ってくださいよ。もう夕方も近いので夜ご飯ですが……」
「出店で食えばいいだろ」
「よく考えてくださいよ。故人にご飯をあげる時は仏壇に供えるでしょう? あれが外で出来ると思いますか?」
「ウチに仏壇無いけど」
そう言うと彼は俺のスマートフォンを操作し、彼の入学祝に遊園地に連れて行ってやった時の写真を表示して、ティッシュの箱にそれを立てかけた。
「簡易仏壇」
「アホか」
仕方がないので冷蔵庫にあるもので簡単に屋台飯っぽいのを作ってやった。やきそばだ。半熟の目玉焼きを乗せてやったそれを彼はキラキラした目で見る。
「おお~!」
「食べれるのか?」
「気持ちだけいただいてます!」
「作らせておいて……。自分で食うか」
だが不思議な事に、かなり濃い味付けにしたのに味がしない。ウチには実家にも仏壇がないからわからないが、仏さんにあげると味は無くなってしまうのだろうか。気持ちだけと言うのはそういう意味か? もぐもぐと残った「無」を食べていると、彼が言った。
「食べ終わったら花火大会の場所取りしましょうね」
「見えればいいだろ」
「兄さんに花火大会行くって言ったら穴場教えてくれたんですよ。折角だから行かせてください」
そう言った後、彼は恐る恐る俺に聞いた。
「……兄さんは無事でした?」
「兄貴は立派に喪主やってたよ。ひとつしか歳違わないくせしてな」
「……そうですか」
味のしない食べ物を片付け、出かける準備をする。辺りは暗くなり始めていた。星が既に空に瞬いて、快晴の空に二つ三つと自己を主張している。今日の花火は良く見えるだろう。
「そろそろ行くか」
「そうですね」
俺達はすっかり色を変えた外を歩く。二人以外には誰もいない、穴場だとか言う川沿いの道で俺はずっと気になったことを聞いた。
「……陽介、なんで母親に首絞められた時に抵抗しなかったんだ? 図体でかいお前なら母親くらいどうにかできただろ」
「……あはは、それ聞いちゃいます?」
家庭教師の必要がない優秀な一つ上の兄と、バスケットボールが得意だけどそれ以外はパッとしない弟、それから母親の三人暮らし。陽介が住んでいた七原家はそんな家庭だった。
医者の不養生、なんて言葉があるが、まさにほぼその字面の通り。医師である母親は息子が病に侵されて、もう長くない事に気が付かなかった。知ったのはどうしようもなくなった後で、何もできないことを理解した上で、壊れた。結果、七原陽介の首を絞めて殺害。今は捕まっている。ニュースでも大々的に取り上げられた。
「残されるのは、辛いです。でも一番怖いのはいつ死ぬかわからない恐怖に毎日怯える事です」
その気持ちは、わからなくはない。だって最低な事に、俺は陽介が死んでホッとしている。今までは今日は無事か、明日は無事か、と毎日不安の連続だったから。
「昔ね、ハムスターを飼っていて、あの子達は寿命が短いから――……、僕はペットがいつ死ぬか毎日怖がってた。それと同じで、母さんも僕が死ぬのが怖いのかな、と思ったら『ああ、いいか』って思っちゃって。それで、ぽっくり」
「母親の事は救えたんだな」
「それ以外を捨てることになったとは思いますよ。約束も守れなかった、だからこうして化けて出てるわけですし」
陽介は昔から優しい子で、駄菓子屋で会った兄に連れられて病室に行った時も元気そうに振舞っていた。花火が病室からだと見えないんだと言う陽介に、言ったのだ。「俺が連れて行ってやる」と。彼は死んでまで律儀にそれを守ってくれた。高校生から弟のように見てきた、大切な子だった。
「……お前、幸せだった?」
「人生?」
「そう」
日が少しずつ落ちていく。世界が暗くなっていく、死者と生者が交わる時間。俺もそっちに連れて行ってくれないだろうか。
「……幸せでしたよ。先生と一緒にいる時、すっごい楽しかったし」
「そっか」
「……死ぬのがわかった時、一番初めにお世話になった先生に会わなきゃって思ったんですど、残されるもんはたまったもんじゃないよなって連絡するのやめて。そしたら兄さんが連れてきたからびっくりしました。それでね、やっぱり家族の事も好きだけど……、先生にも看取ってほしかったなあって最期に思ったんだと思います。僕にとっては家族同然だから」
「だから神様は許してくれたんですね」と、陽介は笑う。俺は全然笑えなかった。
「なんか、認めたくないな。大事な人が死んだって」
「……うん」
「てか、神も神だよな。なんで最初から終わりが決まってるモノを作るんだよ」
「……うん」
「そんなのさ」
足が一歩先に進まない。星が輝く夜の帳のカーテンからは雨粒ひとつ落ちていないはずなのに、地面が円状にジワリと湿った。
「失った時、悲しすぎるだろ。わかりきってるじゃん、そんなこと」
陽介と別れる時は、それなりの覚悟を段階を踏んでから送り出せると思っていた。
よかったね、短かったけどいい人生だったね、そう墓前で言えると思っていた。陽介の兄とも、そう話していた。だが実際はどうだ、死は理不尽にやってくるし、心の準備なんてさせてくれない。その上、さっきまで生きていた人間があっけなく死んでしまう。
陽介が母親に殺された日、母親以外で最後に会ったのが俺だった。「花火大会に連れて行ってやる」そう約束をして、入れ違った母親に挨拶をして帰った。もしあの時、何か忘れ物でもして戻っていれば、もしあの時、母親の表情や雰囲気をよく見ていれば、陽介は死ななかったかもしれないのに。
「先生は泣き虫ですねえ」
そう呆れたように言って袖で涙を拭こうとする陽介に俺は言う。
「なあ、陽介」
「なあに、先生」
「俺もそっちに連れて行ってくれないかなあ」
涙を拭おうとした彼の動きが止まって、そのまま下がった。
「やっぱり、残されるのは辛いわ」
生きてる理由、特になし。そんな人間が生きてる意味あるか。幸せを、希望を一瞬でも感じられる瞬間が死の瞬間しかないなら、許されても良くないのか。
だけど陽介はふるふると首を横に振る。
「よかった、先生の所に来て。先生絶対そう言うと思ってたから。僕、先生検定合格ですね」
夜空に、大きな音と共に花火が打ちあがった。太鼓の音の様に腹に響く振動に一瞬驚く。だけどそれは一瞬で、パラパラと火の粉が夜空に散って消えた。
「あのね、先生。人生は花火と同じだと思うんです」
「消えモノだと?」
「そう、終わる為に生まれた消えモノ」
「世の中の全てのものがそうだ」
「うん、でも他と違うのは」
もう一つ、大きな大輪の花が咲いた。
「花火は自分の人生を全力で輝かせる為に力を尽くせる、って事ですよ!」
色のついた火花が、陽介の顔を照らす。その表情には後悔の表情なんて一つも無かった。
「僕の人生は、それこそ花火みたいに一瞬で短かった! 十九年って笑っちゃいますよ」
彼は笑っている。あれだけ悲惨な目にあったのに。あれだけ、世界や神を呪っていい立場のはずなのに。
「でもね! 先生や家族や友達と出会えたから不幸じゃなかったんです! これだけは言い切れるんです! 死ぬっていうのは怖いし、寂しいけど、でも人生自体は悪いものじゃなかった!」
「ばかじゃないのか……」
当人であるお前がそう言い切ってしまったら、残された俺たちはどうすればいい? 何を恨めばいい?
「おまえはばかだ……」
音が、花火が次々と打ちあがってゆくのを教えてくれる。
「そんなことを言いに帰ってきたんなら、迷惑過ぎる……」
「だって、葬式の時の先生が人殺すか死ぬかしそうな雰囲気だったんですもん」
確かに、そう思った。この兄弟の母親を殺して自分も死のうと。でも、本人が望んでないなら、この気持ちはどこに置いていけばいいんだ。
「先生に伝えなきゃって、先生がちゃんと間違いなく綺麗に散れるように」
花火の音にばらつきが出てくる。花火大会の終了の印だ。
「……僕は、先生の枷より、花火みたいな、一瞬でも何かを残せる……、先生にとってそういう存在になりたいんです。出来るだけ綺麗なものでいたい。だからお願いします」
最後は、消え入るような声だった。最後の、大トリの花火にかき消されるような小さな声。それが妙に頭に残った。
「僕を、貴方が生きるための呪いにしないでくださいね」
「よう……」
顔を上げた先には、誰もいなかった。
パソコンの電源をつけ、検索エンジンを開くと、自分が今まで調べた検索履歴が出てくる。
「獄中 殺し方」「自殺 確実」「出所 タイミング」「千葉県 ××病院女医 殺人事件」
悩んで、悩んで、悩んで、消した。
それが陽介の望みだから。よくドラマや漫画で「天国の仏さんはそんなこと望んでないぞ!」なんて言われるシーンがあるけどまさにそれ。俺はそれを本人から直接言われてしまったわけで、希望なんてあるわけなかった。
昔の夢を見た。
「先生、この間隣町で男の人と手、繋いでたでしょ」
あまりの事に採点していたペンを落としてしまった。家庭教師を受け持って数か月目に、恋人と手を繋いでいたのがバレた。それはつまり、同性愛者であることが同性の生徒にバレたという事で、非常にまずい事だった。
「……ひいたか?」
恐らく声は震えていただろう。だけど陽介は「なんで?」とまるでわからないと言うように言った。
「先生に恋人がいるのにはびっくりしたけど、別に引くなんて無いです。だって先生は先生でしょ? なんにも変わらないです」
その時初めて「部外者」から肯定された。
大事な人だった。恋愛感情なんて無い。ただ、純粋に、この子の笑う姿をもっと見たいと思ったし、幸せになってもらいたい、笑わせられたらいいと思った。俺がこの子に救われた分、返してあげたいと思った。
でも、もうどれも叶わない。何をしてあげたくても会えない。残ったのは途方もない真っ白のような気持ち。寂しいとはこういう気持ちなのだろうか。
「……センセイさあ、マジであの女に会いに行くんですか」
「うん」
医療従事者でありながら、息子の病に気づけなかった責任、勤務地が被害者、七原陽介の入院先であり、経過を一番知れる立場であった事、被害者がもう助からないと見込まれていたこと、これらのストレスから七原女医は心神喪失からの無罪には『ならなかった』。理由は本人が至って正気であること。つまり、普通の精神状態で「息子を殺す」と言う選択を七原女医は行ったわけだ。情状酌量の余地はあり、罪は軽くなる可能性は高いが、そんなことを言われても陽介は帰ってこない。
「あら先生、こんな所まで来させて申し訳ないわね」
俺と陽介の兄である日葵は後日、加害者である七原兄弟の母親の元へ面会に向かった。日葵は俺の付添人だ。
「いえ、それよりも冷静な貴方がどうして陽介を殺したのか聞きたくて」
「安楽死の選択肢を与えてあげただけよ」
「陽介はそれを望みましたか?」
「あの子はそんな事考えられないわ」
「じゃあ、陽介は貴方のエゴで……、貴方が楽になりたいがために殺されたんですね」
二人の母親はあっさりと認めた。
「そうよ」
それから先は覚えていない。どうやら俺は暴れたらしいが、日葵と職員さんに止められたようだった。と言うのも、気が付いたら部屋で寝ていて、日葵から『殺してやるって暴れてましたよ。寝たら落ち着きました?』と連絡があって初めて自分が何かしでかしたことに気が付いたから。
そんなことは望んでいないであろう本人には悪いけれど、あの女は殺そうと思う。陽介を奪ったアイツが、何よりも憎くてたまらなかった。復讐は、残されたものの為にある。
あれから数年。明日、あの女が出所する。
「あはは……、陽介は怒りそうだなあ」
天国の仏さんは復讐なんて望んでない。なんとでも言え。陽介と日葵が許しても、俺はあの女を許せない。あの面会日からずっと、俺はあの女の出所を待っていた。
日葵には計画を話した。お前の母親を殺すと。彼は反対も賛成もしなかったけれど、たった一言。「陽介は喜びませんよ」とだけ言った。
夏の暑い日の夜の事だ。俺は最後の晩餐を買いに少し遠くのコンビニに足を運んでいた。
明日、奴が出所した瞬間、俺はあの女を殺す。逃げる気はない。すぐに通報されて、俺はその日のうちに捕まるだろう。だから、最後に好きな物を食べることにした。が、食べたかったコンビニ限定スイーツの棚には「ご盛況につき売り切れ」の紙が貼られており、仕方なく新商品だと言うやきそばまんを買って帰宅しているところだった。
数年前、陽介と花火を見た川沿いの道を歩く。今日はいっとう星が綺麗だ。まるで、あの夏の日と同じように。
陽介曰く、神様はいるらしい。母親を地獄に落としてくれるだろうか。そればかりが気がかりだ。もし、家族は仲よく、なんて言って陽介と同じ場所に送ったりしたら、俺は神も殺すかもしれない。
トートバッグには今日買ったナイフが未開封のまま入っている。これであの女を殺すのだ。めった刺しにしてやる。血で染め上げてやる。現場を想像した時、一瞬だけ目線の先が赤く染まった。大きな音と共に。
「……花火?」
そうか、と思い出す。今日は花火大会の日だったか。千葉県では年がら年中どこかしらで花火が打ち上げられているから、気にもしなかった。正直、ベランダからいつでも見れる。だけど今日の花火はやけに明るく見えた。
人生は花火の様だと、陽介はあの時言った。最初から終わる事を目的に生まれたのだと。それは全ての存在がそうだ。でも、他と違うのは。
『花火は自分の人生を全力で輝かせる為に力を尽くせる、って事ですよ!』
「あ……」
陽介はもういない。死んでしまった。俺に希望の言葉だけを残して。今の俺は、天国の彼に見せられるほど輝いた人生を送れているだろうか?
明日、あの女を殺せば俺はきっとやりきった高揚感で満たされることが出来るだろう。悔いは残らないと思う。でも、それを陽介に「ちゃんと輝いて終われた」と見せられるか? 俺は、俺の為に人生を消費しているか? 陽介の死を理由にして、生きがいを見出しているだけじゃないのか?
俺にとっての花火になりたいと、綺麗で咲ききった花火になりたいと陽介は言った。人生は短かったけど、不幸では無かったとも。そして、俺の枷になりたくないとも。
――今の俺は。
『僕を、貴方が生きるための呪いにしないでくださいね』
俺が選ぶ選択は、本当にあの女を殺すことで合っているのか?
陽介はこんな事望んでない。わかってる。最初からわかってた。それでも、憎くて、憎くて、憎くて。……誰が?
「……そっか、俺かあ」
滲んだ涙が眼鏡の視界を歪ませる。あの日以降、初めて泣いた気がする。裸眼から眼鏡に変わるような月日が経っても、泣き虫なのは変わらず、同じようにボロボロと涙が零れた。嗚咽が漏れる。ごめん、ごめん陽介。
俺は、結局自分が一番憎かったのだ。あの時、母親の異変に気付かなかった自分が一番憎くて、だからあの女を殺して自分も罰されたかっただけだったのだ。
「俺は、お前を呪いにしようとしてたんだな……」
多分、陽介がやってほしくない事ビンゴなんてものがあったら、トリプルリーチくらいはゆうにかかっていただろう。彼を呪いとして心の中にしまって、自分の人生なんか考えていなかった。俺は、お前が嫌な事ばっかりするダメな先生だ。
「ごめん、ごめんな……」
大輪の花が夜空に散った。いっそ、自分もああやって散ってしまおうか。でも、それも結局は言い訳なのだ。俺は俺が勝手に持った途方もない罪悪感から逃げたいだけなのだ。
俺は、この感情を持ったままでは花火の様に散れない。幸せなまま満足に死ぬことは出来ない。これから一生、きっとそうだ。だって、俺の人生を肯定してくれる人は、もう俺を含めて誰もいないんだから。
どんと、大きな打ち上げ花火が舞った。
残された者は、どう生きれば正解なんだろう。みんな総じて生き物は終わりに向かって、一秒一秒を進んでいく。陽介だけじゃない。一瞬を生きて、死んでゆく。生きている意味も正解も無いんじゃないかと思う。
でも、陽介は俺に望んでいる気がするのだ。あの花火の様に立派に輝けば、幸せに散る事が出来れば。だからもし、俺にもそういう生き方が出来れば、少なくとも俺と陽介にとっては、それは意味が無い事なんて言えないのではないかなあ、と。そうやって「これから」の理由をつけた。人生を肯定できるように。
ポケットからスマートフォンを取り出し、ある番号にかける。数コールの後、彼はすぐに電話に出た。
「もしもし、日葵?」
『センセイ、どうしたんですか?』
「……やっぱり、あの女殺すのやめるわ」
数秒の沈黙の後、彼は優しい声色で言った。
「陽介もそっちの方がいいって言いますよ。……その音。センセイ、外にいるんでしょう? そこからは見えてますか? 陽介が楽しみにしていたもの」
「見えてるよ。だから、思い出せた」
死ぬってどういうことだっけ、今の俺なら答えられるだろう。
咲き切ることだ。自分の人生が幸せだったと、そう言い切って終わることだ。
俺にとってのその理論は、陽介による形を変えた呪いの一種かもしれないけれど、それでもこれからの生が、花火の様に輝いて終われるように尽くしていければいいと思う。少なくとも人を殺すよりはマシな生き方だろう。
「一瞬で終わったとしても、か」
神様、お願いします。いつか死ぬそれまでに、俺が咲ける理由を見つけられますように。これからの人生が、天国の陽介に「輝けた人生だった」と胸を張って言えるようなものでありますように。
俺はそれを願い、帰路に就く間に彼に語り続けるのだ。
――なあ陽介。俺は笑って報告できるような人生を咲ききることが出来るかな。残された者として、立派に人生を終われるかな。
黒インクを溢したような空に、光の線が描かれる。夜空を見上げると、また一つ。俺に応えるように花が咲いた。
(了)




