第9話 甘えてよ
白いタンス、白いゴミ箱、白い折り畳み式のテーブル。
ベッドの枕のそばには、可愛い猫のぬいぐるみが鎮座していた。掛け布団のカバーは赤青緑の花柄で、これまた可愛らしい。
薄ピンクのカーテンがエアコンの風に当たって揺らめき、テレビはピカピカと退屈なバラエティ番組を映す。それをぼーっと眺めながら、僕は特大のため息を吐く。
「何やってんだろうなぁ……」
階段から落ちた瞬間、どうにか手すりを掴んで頭を打つことは回避したが、代わりに左足首を捻挫してしまった。
天城の肩を借りて、ひとまず彼女の部屋へ。
湿布を貼り包帯で固定して貰ったが、当然この状態では鍵など探しに行けない。
『佐伯は休んでて! あたし、鍵探してくるから!』
そう言って、天城は夜の街へ繰り出した。
バカだ、僕は。もうバカ丸出しだ。
鍵を失くして、階段から落ちて、この有様になって。仕事で疲れている天城に余計な心配をかけ、一人で夜道を歩かせてしまっている。
人生で初めての女子の部屋にもう少しドキドキしたいところだが、今の心にそんな余裕はない。
ただただ申し訳なくて、いたたまれない。足の痛みを忘れてしまうほどに、頭が重くて息苦しい。
「ただいまー」
玄関から天城の声が響き、無事帰って来たことに少しだけ胸が軽くなった。
「お、おかえり。どうだった?」
「ごめん、見つからなかった。暗いから見落としてるかもだけど」
言いながらベッドに腰を下ろし、ふーっと息を漏らした。「暑ぅー」と額に滲む汗を拭い、手のひらで顔を仰ぐ。
「とりあえず、大家さんに連絡してみたら?」
「あ、そうだな」
部屋で何かトラブルがあった際は、大家に連絡するよう言われている。
早速電話をかけてみるが、一向に出ない。引っ越して早々の夜、水道が故障した時も翌朝にならないと繋がらなかった。大家はかなり高齢なため、この時間帯には寝ているのだろう。
どうするんだよ、これ。
解錠業者を呼べば済む話だが、下手をすればぼったくられると聞くし、そうでなくても安くつくわけがない。今夜だけ実家に避難するのもありだが、無理を言って一人暮らしを始めた身分なため、鍵を失くしたなんて知られたらどんな嫌味を言われるか。
……でも、仕方ないか。一晩宿がないより、嫌味を言われる方がずっといい。
この足では歩いて帰れないため、父さんに電話を掛ける。手間をかけて申し訳ないが、車で迎えに来てもらおう。
「あ、もしもし。父さん?」
《おぉー真白ぉ! どしたぁ、くれてやる金ならないぞー! がっはっはっ!》
「……」
電話を切った。
あのご機嫌な声は、酔っぱらっている時の声だ。酒飲みに運転などさせられない。
あと我が家で運転できるのは兄貴だけだが……まあ、無理だろうな。ホストが俺の生きる道だとか言って、最近は夜働いてるみたいだし。
「大丈夫? どうにかなりそう?」
「……無理っぽい」
嘆息混じりに返すと、天城は「ふーん」と呟いてベッドを降り、僕の隣に腰を下ろした。甘い体臭と汗の匂いがふわりと舞い、緊張から距離を取ろうと身動ぎするも足が痛くて動けない。
「じゃあ、今夜はうちに泊まればいいじゃん」
「……は?」
「部屋に入れないし、怪我してるし。あんまり動かさない方がいいでしょ?」
「い、いやいや。まずいだろ、それは!」
昨晩も天城と一緒に過ごしたが、同じ空間で勉強するのと寝るのとでは天と地ほどの差がある。
仮に彼女が同性だったとしても、昨日今日知り合ったばかりの人間にそこまでの手間はかけさせられない。
……が、天城はそう思っていないらしく。
むぎゅ、と。僕を逃がさないためか、腕を力強く抱き寄せた。否応なくやわらかな感触襲われ、唇を噛み締めてにやけそうな口元を律する。
「大人しくあたしに甘えてよ。お礼しなきゃって、思ってたから」
「お礼?」
「夕方、学校から連絡があってさ。柳田に謝られたの、自分が間違ってたって。あたしの悪口言ってる動画、佐伯が撮ってくれたんでしょ?」
件の女子二人に目を付けられては困るため、撮影者が僕だというのは隠してくれとお願いしたのだが、天城には喋ってしまったらしい。
「ダメじゃん。昨日今日で、どれだけ佐伯のこと好きになったらいいわけ?」
「そ、そんなこと言われても……」
「今夜は絶対、お世話させてもらうから。どうしてもって言うなら、あたしを無理やり引き剥がして行きなよ」
むぎゅ。ぎゅううう。
天城を無理やり引き剥がす? いやいや、絶対に無理だ。
腕力で負ける気はしないが、こちらが少しでも抵抗の意思を見せれば、向こうはいっそうくっ付いてくるだろう。そうなった時、天城よりも先に僕の理性が引き剥がされてしまう。
「別に変なことじゃないでしょ? 友達が困ってる時に手助けするのは、当然じゃない?」
もっともらしいことを言って、猫が甘えるように僕の肩に頬を擦り付けた。
息遣い、熟した視線。そして心地のいい感触と匂いに、脳細胞が破壊される。必死に握り締めた理性が、絹ごし豆腐のように崩れてゆく。
「……だめ、ダメだ。何かあったらどうするんだよっ」
「あたしは全然おっけーだけど」
「いや、でも、だからそのっ!」
「ねえ、佐伯――」
空いた右手で、僕のネクタイを掴む。
天城の双眼に宿った蠱惑的な光に、今朝の記憶がフラッシュバックする。
「あんまりぐだぐだ言うなら……その口、ふさいじゃうから」
朱色の唇が紡ぐ、暴力的な誘惑。
エアコンの冷たい風に当てられながらも、全身にびっしょりと汗が滲む。室温が高いわけでもなく、風邪をひいているわけでもないのに、喉の奥から熱い息が漏れる。
文句を垂れようにも、口を開けない。
今の天城には、本当に僕を襲いそうな気迫がある。冗談では済まなさそうな凄味がある。
「……わ、わかった。わかったから」
「ほんと?」
「一晩だけ世話になる。ただし、不純異性交遊になるようなことはしないでくれよ」
言うと、天城は「やったー!」と叫びながら跳び上がり、ベッドの上で大の字になった。
本当にわかっているのか不安になるが、ここは彼女を信用するとしよう。