第32話 襲いたくなる
ピピピ、ピピピ。
体温計が鳴り表示を見ると、何てことのない平熱だった。
昨晩、しっかり食べて薬を飲んで、ぐっすり寝たのが効いたのだろう。今日は問題なく学校へ行けそうだ。
「……」
まだ若干寝ぼけた頭で、あたしは昨晩の出来事を思い出した。
『……す、好き、です』
『僕も好きだよ』
真白は確かに言った。
好きだと、このあたしに。
「うぅーーーー!! うぅー! うぅううう!!」
枕に顔を押しつけて、バタバタと両足を動かしながら悶絶する。
やばい。ちょー嬉しい。意味がわからないくらい嬉しくて、今なら空も飛べそうだ。
まず何をどうすればいいのだろう。
手を繋いでデート……は、もうしたし。そうだ、キスがしたい。付き合っているわけだし、真白も断らないだろう。
「…………あれ?」
ふと、我に返った。
付き合っているのだろうか、あたしたちは。
あたしは好きだと言ったし、彼も好きだと言った。それは確かなのだが、付き合おうとは言われていない。
今までにされた告白の数々を思い出す。
誰も彼も、「付き合ってください」と言っていた。むしろその台詞なくして、付き合う方法に見当がつかない。
「もしかして、あたしたちまだ付き合ってない……?」
そう独り言ちて、いやいやと首を横に振った。
だから何だ、という話だ。
今日彼に会った時、あたしたちもう恋人同士だよね? と確認すればそれで済む。まさか彼も、この期に及んで否定したりしないだろう。
「これで真白も実家に帰っちゃうなー」
そう呟いて、ベッドから立ち上がりうんっと身体を伸ばした。
これからは、朝時間を合わせて登校するのは難しくなるだろう。
毎晩のように一緒に夕飯をとっていた時間もなくなってしまう。
勉強を教えることも減ってしまうかもしれない。
昨日のように体調を崩しても、彼はすぐに来られるような距離にいない。
時折聞こえてくる物音に、そこにいることを感じて安心することもない。
そして何より、心配性の彼を実家へ帰せば、また心が落ち着かない日々を送らせてしまうことになる。
「…………ん?」
何だこれ、妙だぞ。
「付き合わない方が、あたしにとって得じゃない……?」
熟考に熟考を重ねた結果、あたしの脳みそはそんな答えを弾き出した。
恋人同士がするようなことはしたい。もうぐちょぐちょにやりたい。
でもそれは、今の幸せを手放してまで必要なことなのだろうか。何よりも、真白の不幸を引き換えにしてまで、手に入れるものなのだろうか。
ちょっと前は、自分のことだけを考えていれば楽しく生きていけた。
しかし、もうできない。
彼が苦しいのは嫌だし、彼が楽しくなければ楽しくない。
「……え、どうしよう」
色々と思うところはあるが、付き合いたいという欲求が死んだわけではない。
何をどうすればこの問題が解決するのかわからず、あたしは頭を抱えた。
◆
杏奈を寝かせてから部屋に戻った僕は、心配事が一つ解決して泥のように眠った。
朝日を浴びて、ふと、冷静になる。昨夜のやり取りを思い出し、枕を顔に押し付ける。
「あぁああああああああああああああああ!!!!」
やばい。やばい。やばい。
絶対にまずい。勢いに任せて大変なことをしてしまった。
『僕も好きだよ』
じゃねえよ! 何だよ好きって!
いや、まあ、好きなのは本当だけどさ!!
「美墨……は、たぶん聞いてないよな。ICレコーダー、取り上げたばっかだし」
もし何らかの方法で昨晩のやり取りを知っていたら、僕に何かしら一報入れるはずだ。
急いでスマホを確認したが、何も来ていない。最悪のケースは回避できたらしい。
「……い、いやいや。回避できてないだろ、全然」
美墨はどうでもいい。今大切なのは杏奈だ。
あれだけ僕と付き合いたがっていた杏奈に対し、あんなことをキメ顔で口にしたのだ。向こうは絶対に、僕を恋人だと思っている。
付き合って欲しいと言ったわけじゃないからセーフ、と思いたいところだが……。
流石の僕でもわかる。
その主張は、屑以外の何物でもない。
そんなことを言ったら、杏奈は確実に悲しむ。
怒ってくれればまだいいが、昨日のようにふさぎ込まれたら僕の心がもたない。好きな女の子のあんな有様は、もう二度と見たくない。
「……でも……でもなぁ……!」
ワシャワシャと頭を掻いて、部屋を見回した。
人生で初めて手にした、僕だけの空間。
たった六畳しかないが、ここは世界で一番幸せな六畳だ。
自分だけの時間があって、自分だけの風呂とトイレがある。本棚の漫画を誰かが無断で借りて行くことはないし、エロ本だって漁られない。
それに実家に戻ったら、杏奈との勉強会を開くのが難しくなる。
一緒に食事をする日も減るだろう。
話す時間も減って、一日顔を合わさないなんてこともあるかもしれない。
……それは、嫌だな。
「よし、決めた」
昨晩、あれだけのことをしたのだ。杏奈から何か、アクションがあって当然だろう。
もし仮に……き、キスなんかを迫られたら、それはもう受け入れよう。
受け入れて、覚悟を決めて、実家に戻る。不純異性交遊をしたと、堂々と両親に宣言してやる。
絶対にないとは思うが、今まで通り何もなかった時は……。
その場合は、現状維持で問題ないだろう。お互いに好きだと言い合っただけで、不純異性交遊になるわけがない。
◆
杏奈にスマホで連絡を入れると、体調が回復したから今日は学校へ行くらしい。
時間を合わせて、部屋を出た。一日ぶりに見たバッチリメイクの杏奈に、僕の単純な心臓は駆け足気味に鼓動する。
「お、おはよう」
「おはよー。昨日は、あ、ありがとね」
杏奈からの視線が照れ臭い。
向こうも緊張を隠せず、薄っすらと頬を染めている。
「……えっと、じゃあ、行こっか」
「お、おう」
杏奈と共に学校へ向かうが、一分経っても二分経っても会話がない。
いつもなら僕が黙っていても、向こうが適当に喋ってくれた。それなのに今日の杏奈は、明らかに挙動不審でチラチラと僕を見るばかり。……いや、挙動不審なのは僕も同じか。
「…………手」
心臓の音があまりにも煩くて、僕はついに口を開いた。
「手、とか……つ、繋ぐ?」
もしかしたら杏奈は、僕から行動を起こすのを待っているのかもしれない。――そう思った上での提案だったが、あまりに慣れない台詞を吐いたため声が上擦っており、今すぐ自分を殴り飛ばしたいくらい気持ち悪かった。
もうちょっとスマートになれよ、僕。
死にたくなるだろ。
「えっ」
と、杏奈は目を剥いた。
「あ、い、嫌だった?」
「嫌じゃない、けど……いいんですか?」
「何で敬語なんだよ」
「いや、別に。どうしてそんなこと言うのかなって、思って……」
「それは……え、えーっと、杏奈のことが、アレ……だから」
「アレ?」
すぐさま意味を理解し、ぼふっと耳まで朱色に染まった。
「――――――――――――」
蝶の羽音のような聞き取れない声で、そっと何かを口にした。
そして、おずおずとこちらへ手を伸ばして、僕の小指に自分の小指を引っかける。
「何て?」
「ううん、何でもないよ」
ニンマリと、そこには見慣れた笑顔があった。
……よくわからないが。
まあ、笑ってくれているならよしとしよう。
◆
真白と学校へ向かう道中、あたしは必死に欲求と戦っていた。
もう何もかも我慢しなくていい。でも、我慢しないと真白と離れてしまう。
悶々とするあたしに対し、彼は突然、
「手、とか……つ、繋ぐ?」
向こうからそんな提案をされたのは初めてで、脳みその機能が停止しかけた。
なぜこのタイミングで、そういうことを言うのだろう。今までこんなことは、一度もなかったのに。
「それは……え、えーっと、杏奈のことが、アレ……だから」
「アレ?」
ギギガガと錆びついたロボットのように動いていた頭でも、それが何を指すかは瞬時に理解できた。
真白が何を望んでいるのか、まったくわからない。
実はもう実家に戻る決心ができていて、それであたしにアピールをしているのだろうか。それとも、黙っていたあたしに気を遣ってそんなことを言ったのだろうか。
「今のあたしに、襲いたくなるようなこと言わないでよ……!」
とは言いつつ、手は繋ぐ。
ふわりと、邪念が溶けて解けて落ちて行った。
たったこれだけのことで、幸せになれる。
心が満たされて、細かいことがどうでもよくなるのだから、あたしはおめでたいやつだ。
「何て?」
「ううん、何でもないよ」
真白の気持ちはよくわからないが、ほんの少しだけ前に進んだのだから、しばらくはこのままでいいだろう。




