第13話 ねぇ、お兄ちゃん
十月に入り、今日から冬服に。
しかし日中はまだ暑く、汗で背中に張り付くワイシャツの感触を鬱陶しく思いながら帰宅する。
いつも一緒に帰りたがる天城は、仕事のため不在だ。
といっても、夕方の五時くらいには帰れるらしい。今日はバイトもないことだし、頑張った天城に美味いものでも作ってやろう。
今日の夕食はフレンチの予定だ。
仕事のたびに中華を作っているため、たまにはジャンル変更もありだろう。見た目を洒落た感じにすれば、あいつも喜びそうだし。
「よし、やるか」
エプロンを身に着けて、キッチンに立つ。
前菜はトマトとアボカドのミルフィーユ、スープはじゃがいもポタージュ。魚料理にたらのポワレ、口直しにレモンソルベ。メインはローストビーフで、デザートにティラミス。
ポタージュとソルベ、ローストビーフとティラミスは昨日のうちに作っておいた。
フルコースなんて手間のかかることは初めてやるため、料理の流れがこれでいいかはわからないが、天城も素人に細かいことは求めないだろう。
……しかし、天城に勉強を教わり始めてもう一ヵ月か。
二学期最初の中間試験を目前に控えながら、フレンチのフルコースに挑戦する余裕があることが、天城の優秀さを物語っている。
一学期の頃が嘘のように、今は何の不安もない。
バイトは依然大変だが、勉強時間が圧縮されて短くなっただけでかなり違う。肉体的にも、精神的にも。
「試験が……終わったら……」
独り言ちて、頬に熱が溜まるのを感じた。
九月初め。
足を捻って天城の部屋に厄介になった際、中間試験終わりにどこかへ遊びに行こうと約束した。もちろん試験の結果次第ではあるが、おそらく問題ないだろう。
誘われた時は特に何も思わなかったが、予定が迫るにつれて現実味が増してきた。
女子と出かけたことなんてないし、高校に入ってからは平太とすら遊びに出ていない。
意味もなく、今から緊張してしまう。出さなくてもいい手汗がにじみ、エアコンの冷たい風に吹かれながら体温が上がる。
「あっ」
呼び鈴が鳴った。天城が帰って来たらしい。
手を洗ってエプロンで拭い、玄関へ向かう。
「今開けるからな」
と言って、扉を開く。
しかし、そこにいたのは天城ではなかった。
かつて通った中学の女子制服。
青色のリボンで括った、長く黒いツインテール。
赤みがかった瞳は妖しく輝き、朱色の薄い唇が弧を描く。
「今開けるからって、誰か来る予定だったの? ――ねぇ、お兄ちゃん」
佐伯美墨。
僕を実家に戻すために盗聴器まで仕掛けるエキセントリックな妹が、そこに立っていた。
◆
「へー、ふーん。久々に来たけど、ちゃんと綺麗にしてるじゃん」
美墨はベッドの上に座り、キョロキョロと部屋を見回す。
天城が来るからと言って、追い返すわけにはいかない。そんなことをしたら、余計な疑念を持たれてしまうから。
「お茶淹れたけど、茶菓子にティラミスはどうだ? 昨日作ったんだよ」
「あ、じゃあもらおっかな。お兄ちゃんの作るお菓子は美味しいからねー」
幸い、ティラミスは結構な量を作った。美墨に分けても問題はない。
適当にもてなして、早いところ帰ってもらおう。天城とバッティングしたら、この生活が終わってしまう。
「すごいね、お兄ちゃん。尊敬しちゃうなぁ」
「な、何だよ、いきなり」
テーブルにティラミスを置くと、美墨はニッコリと笑いながら言った。
「だって今、テスト前でしょ? 普段からよっぽど勉強してないと、ティラミスなんて作ってる余裕ないよね」
「そう、だな……お兄ちゃんは、が、頑張ってるから」
「それとも、勉強を教えてくれる心強いお友達がいるのかな?」
「ゴホッ! ゲホッ! ……な、何のことだ? そんなやつ、いるわけないだろ」
天城のこと、知ってるのか?
いや、仮に知っていたとしたら直接言うはずだ。こんな遠回りな言い方はしない。きっと鎌をかけて、僕にボロを出させようとしているのだろう。
「んで、今日は何だよ」
「用が無いと来ちゃダメなの? ひっどいなぁ、こんなに可愛い妹がむさい男部屋に清々しい春を届けに来たのに」
「お前その台詞、言ってて恥ずかしくないのか?」
「んー。わたしレベルに可愛くなかったら赤っ恥だよね」
そう言って、ふふんとあどけない顔に大人びた笑みを刻む。
僕と美墨は一個違い。
去年一昨年と同じ中学に通っていた頃は、様々な男子から妹を紹介してくれと頼まれ大変だった。
それくらいには可愛いし、生徒会長を務めるほど外面がいい。
自分の容姿に自信満々で、兄を実家へ送還するため盗聴器を使うような性格だとは、家族以外誰も知らない。
「まあ、大体予想つくけどな。平太のことだろ?」
「……う、うん」
先ほどの自信たっぷりな表情はどこへやら。
急にしおらしくなり、頬を淡い色に焼く。
僕の可愛い妹は、あろうことか平太に恋をしている。小学生の頃から、ずっと。
そして、十月十日は平太の誕生日。もう十年近く、平太に何を贈ればいいか相談に乗っている。
「いい加減、僕じゃなくて本人に聞け。何が欲しいのか」
「無理だよ、恥ずかしいし。っていうか、武市さんに欲しいもの聞く子、すごい沢山いるでしょ。その子たちとプレゼント被るとか絶対に嫌っ」
「じゃあ自分で考えろよ。休日に一緒に出掛けるくらいには仲いいし、色々知ってるだろ」
「出掛けるって言っても、スポーツ用品店とかバッティングセンターに行くくらいだよ。武市さん、わたしのこと自分の妹みたいに思ってるし」
あのクソイケメンめ。
何だよ、スポーツ用品店とバッティングセンターって。お前がいつも部活の連中と行くところじゃないか。美墨に手を出されるのは嫌だが、異性扱いしていないのも腹が立つ。
「わたしも一応、候補を五十個まで絞ってきたから一緒に考えてよ」
五十個は絞ったうちに入らないだろ、と思ったところで。
ピンポーンと、玄関から音が鳴った。
◆
最近、仕事がとても楽しい。
これまでも楽しかったけど、それよりもずっと大きな不安があって、帰りの電車がすごく憂鬱だった。でも今は、街灯に照らされた薄暗い道の先で佐伯が待っている。
頑張ったなって褒めてくれるし、美味しい料理も作ってくれる。
しかも今日は、フレンチのフルコースらしい。
フレンチなんて食べたことないけど、佐伯が作るのだからきっと間違いはないだろう。
というか、まあ、彼と食べるなら何でも美味しいと思うけど。
「ふんふふーんっ」
軽やかな足取りで階段をのぼり、小走りへ彼の部屋の前へ向かう。
会う前に、前髪を軽く整えて……うん、よし、変じゃない。
ピンポーン、とボタンを押した。
バタバタと扉の向こうから慌ただしい音。佐伯は扉を僅かに開いて、ぬっと顔だけを出す。
「わ、悪い、今取り込んでて……」
声のボリュームを絞り、申し訳なさそうな顔で言った。
その時、あたしは見逃さなかった。玄関に置かれた、明らかに佐伯のものよりサイズが小さいローファーを。
「誰ー? お客さん?」
それは、紛れもなく女の子の声だった。
佐伯はビクッと肩を上下させ、「ちょっと待っててくれ」と扉を閉めた。
バタンと、勢いよく。
「……え」
乾いた声を漏らし、閉ざされた扉を見つめた。
何だ、あの靴。誰だ、あの声。そして佐伯の、あの挙動不審な態度はどういうことか。
わからない。まったくわからないが……可能性は三つある。
一つは、佐伯の家族説。
十三人家族だと聞いたが、それならお姉さんや妹さんも多いだろう。不純異性交遊をしていないか確認しに来ていたとしたら、ああして慌てるのも頷ける。
もう一つは、佐伯の友達説。
あたし以外に女の子の友達がいるなんて聞いたことはないが、いたとしても不思議ではない。佐伯は粗雑な風を装いながらも面倒見がよく気遣いができるため、女の子から内緒の相談を受けているのかもしれない。だとしたら、あたしを中に入れないのも納得できる。
そして、最後の説は――。
「彼女……だったり、して」
そう呟いた瞬間、眩暈に襲われ後ろの手すりにもたれかかった。
夏の香りを残しながらも微かに冷気を孕んだ夜風が、あたしの後ろ髪をすいて流れてゆく。