第10話 ありがと
その後すぐ、昨日同様に勉強会が行われた。
授業を一時間ほど受けたところで、時刻は午後十時に差し掛かる。流石にお互い空腹が限界で、冷凍のパスタをチンして胃袋を満たす。
あとは風呂に入って寝るだけ。
……なのだが、ここは天城の部屋だ。風呂に入るということは、服を脱ぐということ。何をやらかすかわからない天城のテリトリーで、まったくの無防備になってしまう。
「じゃあ、あたしお風呂入ってくるから」
「お、おう」
「佐伯はこれね」
と、テーブルにお湯が入った風呂桶が置かれた。
まさか、ここで全裸になってこの深さ二十センチもないところに入れと? 意図がまったく掴めず困惑していると、彼女は桶の中へタオルを放り込む。
「捻挫した時は、身体温めちゃダメなんだよ。それであたしがいない間に、汗とか拭いといて」
かなり常識的な対応をされ、「へ?」と上擦った声が漏れた。風呂に入っているところを全裸で襲撃してくるのでは、と想像していた自分が恥ずかしい。
「もしかして、一緒に入りたかった?」
「そ、そんなわけないだろ!」
ニシシと笑いながら、天城は居室を出て行った。
扉が閉まったところで、肩から力を抜く。どうにも頭の中がピンク色なのは僕だけで、天城にいいように弄ばれているような気がする。
これは健全な外泊。そう自分に言い聞かせて、大きく深呼吸した。
落ち着いたところで、ワイシャツのボタンを外し、下のTシャツを脱いで床に置く。次いでゆっくりと腰を上げ、ズボンのベルトを緩めたところで――バンッと、勢いよく扉が開き。
天城が現れた。
「な、何だよ! 何しに来た!」
「え? いや、油断させて服脱いでもらってから裸見ようと思って」
「素直に白状すりゃ何でも許されるわけじゃないからな!?」
早く風呂に行けと手でジェスチャーするが、なぜか天城はじりじりと近寄ってきた。ふへへと、エロオヤジのように口角を上げて。
「背中拭いてあげる」
「拭かなくていいです」
「でも佐伯、結構汚れてるよ? うわすっごい、背中の垢が盛り上がってお城みたいになってる」
「んなわけあるか!」
言うと、突然天城の両目から光が失せた。
人形のような瞳で不気味に笑う様に、僕は寒気を覚える。
「……あれ、ちょっと臭くない?」
「は?」
「うん、臭い。たぶんこれは、普段から背中をちゃんと拭けてないからだよ」
「ま、待てまて。そんなわけ――」
「ないと思う? まあそうかもね。佐伯がそう思うなら、そうなのかも」
嘘なのは明白だが、その目は僕の不安をこれでもかと煽った。
しかも言い方がいやらしい。そういう言葉選びをされては、突っぱねるのを躊躇ってしまう。
「……変なとこ触るなよ」
「わかってるって!」
現金なもので、途端にいつもの表情に戻ってタオルに手を伸ばした。
僕はベルトを再び締めて、ベッドに腰を下ろす。タオルを絞った天城は、膝立ちでベッドの上を移動し僕の後ろへ回る。
「じゃ、いくよー」
「頼む」
身構えはしたが、拍子抜けするほど普通に背中を拭き始めた。
上から下へ、右から左へ。ゆっくりと丁寧に、力強く。首筋にかかる吐息は気になるが、呼吸するなとは言えないため我慢する。
「気持ちいい?」
「あ、あぁ」
「よかった。痒いとこあったら教えてね」
不意に、天城の手のひらが肩甲骨に触れた。
彼女なりに緊張しているのか一生懸命なのか、滲んだ手汗がやけに熱い。それに気づいたのか、「あっ」と小さく漏らして手を離しゴソゴソと音を立てる。ベッドのシーツで拭ったのだろう。
「今日のことだけどさ」
「ん?」
「動画撮ってくれたこと。今後、あたしにちょっかい出して楽しんでる連中がいても無視してよ。もし佐伯に飛び火したら悪いしー」
手を止めず、あっけらかんとした声でそう紡いだ。
「あたし、昔から勉強は誰よりもできたし、運動も男子に負けなかったし、ぶっちゃけ顔も悪くないしさ。小中の頃はもう無敵って感じで、態度に出てたんだろうね。色々言われたり物隠されたり、そういうの慣れてて平気だから気にしなくていいよ」
思わず後ろへ目をやると、彼女の沈んだ双眸と視線が絡んだ。
瞬間、何でもないようにニコリと笑って、瞳の奥の炎に無理やり薪を突っ込む。別に暗い話をしたいわけじゃない、自分はいつも通り明るいままだ――と、言いたいように。
天城の気持ちは理解できる。
好きな人が自分のせいで余計な被害に遭うのは、自分が嫌な思いをする以上にきつい。僕が天城の立場なら、同じことを言うだろう。
しかし、
「気にするに決まってるだろ」
前へ向き直り、そう言った。語気を強めて。
「お前のこと悪く言って楽しんでるとこ見せつけられて、そんなの無視できるほど僕は強くないんだよ」
昨日は見ていて可哀想だったから助けたが、今日の行動原理は単純に怒りだ。
天城はすごい。
僕が知る誰よりも……もしかしたら、これからの人生で出会う誰よりもすごいかもしれない。
すごいやつが鼻につく、というのはわからなくもないし、陰口を叩くくらいは仕方のない衝動だろう。
だとしても、今日のように直接耳に入ればムカつくし、何とかしてやりたいと思う。
ましてあの二人は、直接危害を加えていたのだ。天城の頑張りに傷を付けるような行為を、許容できるわけがない。
「てか、いじめに慣れもクソもあるか。自分が平気じゃないから、僕に飛び火するのが怖いんだろ」
「そ、それは……」
「心配するなよ。僕は何かされても、泣き寝入りするようなたまじゃないから」
もしもの時は、今日みたく教師に告げ口するし、必要なら警察に相談するつもりだ。
弱っちい小市民には、弱いなりに抵抗の仕方がある。他人に悪意をぶつけて喜ぶような最初から負けている奴に、大人しく負けてやる義理なんてない。
「……ぅ……んぅう……っ」
言葉にならない声を漏らしながら、天城は僕の肩に両手を置き、首の付け根に額を押し当てた。
変なとこ触るなよ、と言ったはずなのだが、どうにも様子がおかしく振り払えない。
「大丈夫か?」
「……嬉しくって」
「な、何が?」
「昔、嫌なことを嫌って言ったら、先生からお前は羨ましがられても仕方ないんだから多少は我慢しろって言われて。……佐伯みたいに心配してくれた人、いなかったから」
声を震わせ、指に力を込めて。
その唇が紡いだ言葉に、同情を通り越して怒りを覚えた。
羨ましがられても仕方ないから我慢しろ? 何だそれは、どういう理屈だ。
子供の嫌がらせを止めるのが大変だから、天城の優秀さに甘えて放置しただけじゃないのか。
「――ねえ、佐伯」
突然、肩に置いた手に力を込めて上半身を持ち上げ、僕の耳元に唇を寄せた。
瑞々しい吐息が耳たぶにかかり、ぬっと狭い穴を分け入って鼓膜を揺らす。
「ありがと、あたしの初恋になってくれて」
はらりと垂れた天城の髪が、僕の背骨の上をなぞった。
騒がしいバラエティ番組を映すテレビからの音はやけに遠く、代わりに自分の心臓の音が激しく脳を刺激する。
と、その時。
首筋に何かが触れた。
しっとりとやわらかい、濡れた桜の花弁のような感触。
そこへ手を伸ばすと、僅かな湿り気と熱が残っている。
振り返った僕に、彼女は誤魔化すように笑って見せた。
そのままベッドの外へ下がっていき、「わぁっ!」と背中から床に落下する。
「あ、あはは。失敗しちゃった」
紅潮した頬をぽりぽりと掻いて、そそくさと居室を出て行った。
するりと廊下へ吸い込まれた金の髪を見送って、首筋から手のひらへと移った淡い温度へ視線を落とす。
「…………コンニャク、だな」
きっと天井にコンニャクが張り付いていて、それがピタッと首筋に落ちてきたのだろう。
あの感触はそれだ、そうに違いない。
だから、これは不純異性交遊ではない。絶対に。