8・猫にとって世界は広い。黒猫隼人の挑戦!
研修、と言われ隼人は我にかえる。そうか、仕事で来てるんだった。こんなめちゃくちゃな状況でも研修と言われたら頑張るしかない。
「さあ、ここまで登ってくるんじゃ」
小屋の屋根からお玉さんがいう。
「ええ?そんにゃところにですかにゃ?」
猫の姿で見上げる小屋は、まるで巨大なマンションのようだ。入り口の段差でさえ目線くらい高いのに屋根の上に登るなんて考えられない。
「無理ですにゃ。人間の時にゃったらジャンプすれば手が届いたかもしれにゃいですけど、今僕こんにゃにちいさいんですにゃ」
弱音を吐く黒猫隼人にお玉さんが笑っていう。
「はっはっは。その通り。隼人くん、今君は猫になっているんじゃ。自分の体がどう変わったか試してみるとよかろう。ほれ、ワシがこの木を伝ってここまで登ったのは見ていたじゃろう。やってみるんじゃ」
言われて隼人は木を見上げる。自分では抱えきれないくらいの大木で、神社にあるしめ縄をされた御神木のようにそそりたっている。
絶対無理だ、と人間としての隼人は考える。
でも、と心のどこかで声がした。
こんなに高くみえる木なのに、軽々と登れそうな感覚が体にある。広いはずの屋上なのに、端から端まで人間でいた時よりも早く走れそうだ。フェンスなんて高くは見えるが、なんの苦労もなくヒョイっと駆け上がれてしまうのじゃないだろうか。
考えただけで腰のあたりがうずき、自分とは思えないエネルギーが筋肉に満ちている。
いやいや。と隼人は首を振る。俺は何を猫になった自分を受け入れてるんだ。
しかし、この体のうずきは抑えられない。猫になった自分を試してみたい。
隼人は自然に四つ足で立ち木を見上げる。
尻尾をピンと上げ、ぺろりと舌舐めずりをして獲物である木の枝との距離を測る。ゆっくり二歩後ろに下がり、助走の間隔を開ける。
グッとしゃがみこんで、お尻の肉に力をため、一気に駆け出した。
信じられないスピードで木が近づいてくる。
見計ってバッと上へ跳ね上がり、木の樹皮に爪をたてて垂直に駆け上がる。
わあ、なんて爽快だろう。
猫の凄さを隼人は感じる。
体が羽になったように軽い。ゴムマリのように弾み、髭の先に空気の感覚まで読み取れる。
あと一歩のところだったが、跳ね上がるタイミングが悪かった。枝に届かない、と瞬時に察した隼人は、そのまま反転してパッと木を駆け下り改めて向き直る。
楽しい。小さな心臓が跳ねて全身に血液が送り込まれ皮膚の下で筋肉が喜んでいる。
『木に登る』という目的に意識が集中し、そのために走るべきルート、跳ねるポイントと力加減、枝に飛び移るタイミングまで、頭でなく全神経でシミュレートしている感覚だ。
幼い頃から運動が苦手で、部活動もすべて屋内、体育の授業や運動会が大の苦手だった隼人には生まれて初めての感覚だった。
次のトライに向けて体が勝手に準備を始め、お尻から尻尾にかけて興奮の震えが走る。
よし、いくぞ。
駆け出した隼人は三歩でトップスピードに乗る。そして次の一歩で後ろ足を限界まで踏ん張り水平からほとんど垂直に近い角度で飛び上がる。
タイミングよく手に力をいれ爪を出し着地した樹皮にひっかけ、スピードを落とさぬまま木の幹を駆け上がる。木の枝を目視してタイミングを計算し細かく歩幅を調整してジャンプ。
見事、隼人は目的の枝に着地し、4本の足で器用にその上に立つ。
「やった」
枝の上から見る景色は爽快だった。花壇がはるか下に見え、フェンスよりも高いので遮る物のない景色が、遠く秩父の山並みまで見渡せる。
風が吹き髭を撫でるのか心地よい。木の葉の擦れるサラサラした音がいつもより複雑な美しい調べとして耳に響く。
ニコニコと隼人を見ているお玉さんのいる屋根までは、枝の先から落ちさえしなければ飛び移れるだろう。慎重に枝を進み、しなった限界のところで飛び跳ねる。
だが、まだ猫としての目測が甘かった。
細い枝で力を入れればその分枝も沈みこんでしまって反発が少なく、ジャンプの距離がたりなかった。
ギリギリ屋根には到達したが後ろ足が届かず、爪を出した前足で踏ん張るがずるずるとスペリ落ちてゆく。
「にゃにゃにゃにゃなぁ!!!」