6・ほんとにここで働くの?酔っ払い隼人の混乱
信じられなかった隼人は何度もお玉さんに確かめ、失礼とは思いながらも改めて屋上から役場に駆け降りていって受付に尋ねた。先ほど研修部屋の前で隼人を案内したメガネの中年女性が再び現れ、隼人を物陰に連れていってヒソヒソ声で説明する。
「間違いありません。あなたは『猫室』に配属されました。龍造寺お玉さんが一切の面倒を見ることになっているのでそちらに全てお任せしてあります」
呆然と立ち尽くす隼人に、一度立ち去りかけた中年女性は戻ってきて小声でいった。
「あと、猫室の話はおおっぴらになさらぬように。普通の人が勘違いしますから」
そして改めて自分とは関係ないとばかりにぷいと立ち去った。
階段を登る隼人の気分はさっきよりもぐちゃぐちゃだった。猫又?猫室?普通でない部署?お茶のせいで火照った体で走ったこともあって心拍数が上がって気分がわるい。このまま帰ってしまおうかとも思ったけれど、気になることは気になるので無視もできない。
自分はなぜ選ばれたのだろう?
優秀だから?無能だから?自分は特別な人間なのだろうか。それともただの落ちこぼれで、誰も行かないような部署に追いやられたのだろうか。
一歩一歩階段を登りたどり着いた二階の廊下の奥に、部屋から移動する研修生の一団が奥へ歩いてゆくのが見える。自分も本当はあそこにいたはずじゃなかったのか。同じ新人仲間と、励ましあい競い合う社会人生活を送るんじゃなかったか。
と、後ろでグループになっていた女の子のうち、一人が立ち止まりこちらを振り返る。
さっきのショートボブの子だ。ずいぶん距離があるので、隼人の気配に気づくはずはないのだが、彼女は明らかにこちらの存在を認識して振り向いたように見える。
釣り上がった切れ長の目に豊かなまつげ 。つんと尖った鼻。小さい瞳がこちらを見て、確かに笑った。こん、とたしかに笑い声が聞こえた。
ハッと気づくとすでに一同は立ち去り、廊下を曲がっていく。その女の子も、、皆と一緒に消えてゆく。
夢だったのかもしれない。
ふわふわとたよりない足取りで隼人は歩き出す。もしかしたら自分は本当に夢を見ているのかもしれない、と隼人は思った。電車の中や、もしかしたらまだ家の布団の中で。働くという緊張のせいで、意味のわからないストーリーを脳がでっち上げているのかもしれない。
この役場での話を考えれば考えるほどそうとしか思えなかった。
はは、馬鹿馬鹿しい。と隼人が笑って前を見る。
と、猫がいた。
駅前で見たキジトラだ。自分からパンをかっさらったやんちゃもの。
階段の上から隼人を見下ろしている。
隼人には、その猫が隼人を疑り、蔑み、哀れみ、馬鹿にしつつ、興味を持っているように感じた。なんとも上から目線の興味だ。
隼人がゆっくり近づくと、その分だけ遠ざかり、振り返っては、情けないなあ、と言っている。
これも夢だろうか。一歩一歩すすむ階段が、だんだん高くなり跨ぐのが一苦労だ。手すりを持つ手に力が入らず、指先を曲げるのがむずがしい。
それでもなんとか階段を上りきると、ドアの前に猫が待っている。
「早く開けなぁよ」
確かにその猫はそう言った。
手を伸ばしてもようやくノブに届くかどうかというほど、屋上に続くドアは大きくなっていた。まるでアリスだ、これが夢でなくてなんだろう。建物が大きくなったのか、自分が小さくなったのか。孤立した人は特別であるのか、爪弾きであるのか。
両方の手の平で抱え込むようにしてなんとかノブを回し、開けたドアから先に行った猫に続いて屋上に出る。
遠くに、ずいぶん遠くに小屋が見える。
隼人はそこで意識を失った。