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ヤラカシ恩師を飼い馴らせ

作者: 畔奈りき

 ――美術館に、お客さんを見に行くのが趣味なんですよね。へえ、作品じゃなくて? そう、人を見るんです。面白いんですか? はい、わかりやすい例を挙げると、春画展で春画を見ている人を観察するような。理解しました、趣味わっるいですねー、先生!


 映画帰りに喫茶店に寄った。若い女が一人の話だ。朝十一時に家を出て、十二時半からアクションを見た。ビルの割れた窓ガラスから飛行するヘリに飛び移る女に憧れながら、映画館を出て徒歩数分。寂れた灰色の銀座で一軒、木製の引き戸が生き残っている。信用に値する味ってことだ。カフェインの味に憑りつかれても、コーヒーの味はよくわからない。わからないながらも、体に入れるなら質のいいものがよろしくて、他人の舌を頼ってみている。それから、なんかいいでしょう。かっこいいじゃない、シャッター街の紅一点。そんな感じで、臙脂の軒先テントの下を、常連にも満たない数だけ潜っている。

 遅めの昼食だ。他の客にとっては丁度おやつの時間で、元々少ないテーブルの上は既に、ケーキなんかで埋められている。甘い匂いで充満しそうな光景なのに、やはり染みついたコーヒーの気配が強くて、全部カフェインにかき消されていた。

 カウンター席の最奥を陣取り、隣の席にバッグを置く。お腹空いたな、ホットチキンカツサンド。本日のおすすめコーヒーは、メニューの中から日毎にランダムで選ばれる。通常の単品よりちょっとお安く飲ませてもらえるから好き。掌大のスケッチブックに書かれた文字を指差し注文して、ウェイターに会釈したところで、店の戸がガラリと開いた。入ってきたのは、黒いタイトなワンピースを着た一人の女性。女性は全開の戸の前でウェイターに指を二本立てる。あら、と思い少し首を反らすと、女性の背後、開け放ったままの戸の先で、坊主頭の男性が一人、黒いフリルの日傘を畳んでいるのが見えた。

男性がひょこひょこと入店して戸を閉めている間に、女性は店内をさっと見回す。ああ。

さりげない素振りでカウンター上のシュガーとソルトに目を遣っていると、案の定ヒールの音がこちらに近づいてきて、尖った赤い爪が隣の椅子をカカッ、と叩いた。

「ここ、いいですか?」

 あ、すみません。嘯きながらバッグを取り上げ、自分が座る椅子の背もたれにバランスをとってかけた。

 隣に座った顔は、遠目で見たほど綺麗ではなかった。いや、不細工というわけではなく、ファッションセンスが少し古臭くないかしら、という感じ。アイメイクは上手だが、ファンデーションの色が首から下と比べて白すぎる。どうやら髪型がバブルっぽさを助長しているんだな。黒いロングをふわふわと巻いて、前髪ごと背中に流している。いかがです? ううん、もう少し若い女性が好みかな。

 女性の向こう側に坊主の男性が座って、カウンター席は満員になった。

 気になりませんか。気になりますねー。やっぱり、先生も? 話題は、隣の二人の関係である。男女で休日に喫茶店となれば、大概恋人だと思うだろう。でもどうにも、いやだって、悪気はないんですけれど。この男性の女性に対する態度は、恋人というより小姓のような感じだった。

 あまり人を不躾に見るものじゃない。右手の爪の長さが気に入らないなあ……指先を眺める振りをしながら、今まで見たものを思い返す。男性は坊主で、Tシャツにチノパン、草履型のサンダルを履いていた。Tシャツの襟が波打つほど撚れていたのが気になるところである。街を歩いていると、撚れたTシャツを着ている男性はざらにいる。しかしこちらの女性の方は、ファッションこそ古めであるものの服自体や小物の手入れは実に丁寧であるように見えた。そんな女性が、隣にいる人をヨレヨレのまま放っておくだろうか? 極めつけは日傘と男性のあの歩き方だ。女性の後ろから日傘を差して、上下にブレながら歩く坊主頭が想像できる。女性が一歩踏み出す間に、二、三歩たたらを踏むんだろう。鞄は? 鞄は、確か、女性は手ぶらだった気がします。なら、男性が持っていたんでしょう。わあ、私平成生まれですから、小姓って初めて見るんです。よかったですね。

仮にも複数人で喫茶店にいるのだから、会話の一つでもしてくれれば判断がつくものを。しかし席についてこちら、男性と女性は一言も交わさなかった。どころか、目も合わせなかった。右手の爪の長さが気に入らないなあ……横の角度から見てみようかな。実にさりげなく首を傾けて、二人の様子を覗き込む。女性は、赤い爪の長さを気にしていた。両手を軽く握って掌を内側に向け、時々、両の爪をこすり合わせてギロみたいな音を出している。男性の方は何を思っているのだろうか。自分の貧乏ゆすりを熱心に見つめている。かと思えば、急に戸口の方を見たり、ソルトとシュガーを交互に見たりする。シャッター街で生き残った喫茶店のカウンターはさすがに耐震性が高く、男性の挙動にも、三人分のお冷が僅かに波紋を浮かべる程度で済んでいる。

「お待たせしました、ホットチキンカツサンドと」

 二人がこちらを見た。

「本日のおすすめコーヒー、こちら、当店特製のマイルドブレンドになります」

 おやおやおや、美味しそうですね。今から実食しますよ。チェック柄のような焦げ目がついたパン、持った感じはしっかりしていて重く、指先がじんわりと熱くなる。パンとパンの間では、ピンクの断面をのぞかせたカツが、千切りキャベツに包まれている。

 サク、歯を立てる。パンとキャベツの繊維を越えて、カツの中程で苦戦する。厚いな。前歯の裏側の歯茎に衣が刺さる。唇とカツの接地面から茶色い屑がポロポロ。皿の上に落ちるように首を突き出す。無様だ。無様にカツを噛み切った。

 美味い。美味いな。うんうんと小さく頷きながら一度ホットチキンカツサンドを置いた。おしぼりで指先を拭う。ちらりと確かめれば、隣の二人はさすがにもうこちらを注視してはいなかった。でも、見られてましたよね。見てたねぇ……。

 何だ。午後三時に女が一人、喫茶店でホットチキンカツサンド齧ってんのがそんなに珍しいか。確かに色気はないだろうな。可愛い女の子なら、三時のおやつはショートケーキかパンケーキがよかろう。でもあんたらは知らないだろうけど、これはお昼ご飯なのよ。お昼ご飯ならケーキより、ホットチキンカツサンド食う女の方が好印象というものだ。違いますか? いいと思いますよ。

 しかし、小姓と主人ごときに寂しい女と思われるのは遺憾であった。では、二人はお腹が空いていて、食べ物につい反応してしまったという説はどうですか? 違います。なぜなら二人は、食べ物を注文していません。ウェイターがたった今、アイスコーヒーを二つ運んできた。ご注文は以上ですか。はい。お腹が空いているなら、ホットチキンカツサンドの一つや二つ、素直に頼むはずだろう。

 じゃあもう、可能性は一つしかない。二人は、ホットチキンカツサンド自体に興味があったのだ。確かに、カツにはしっかりと胡椒がきいていた。小姓が好きなんだろう。なら胡椒だって好きなはずだ。あのホットチキンカツサンド、胡椒しっかりきいてんのかな。胡椒ソムリエ。どうしても気になってしまって、こちらをじっと見てしまったのだ。食べた反応も見られていたかもしれない。

 だけど、まあ、恋人なんだろうな。実際のところ? はい。程よく冷めたコーヒーを口に含む。砂糖もミルクも入れず、一年中ホットを好む。味がわかる訳ではないが、ホットのブラックが最も薫り高く、カフェインが多い気がしていた。恋人には色々な形があるだろう。人間関係には色々な形がある。色々な人がいるように、色々な女がいるように。小姓と主人のような振る舞いをして、それが一番居心地のいい恋人たちだっているのだ。ヨレヨレの坊主男とバブリー女なら尤もじゃないか。

 水交じりのコーヒーが、ストローの先でズズズと音を立てた。女性が口を開く。

「次どこ行く?」

「あ、え、えっと僕……。え、エッチなビデオ見に行きたくて……へへ」

 本当に……、本当にどういう関係なのだろうか? 休日に一人でホットチキンカツサンドを齧る女には、適切な男女のお出掛けというものがわからなかった。齧って、口腔で響く咀嚼音の向こう側で、「ふうん、ゲオ行く?」という返事が聞こえる。よろしいならよろしいんでしょう。そういうものですか、先生。

 そういうものですよ、だからあなた、あまり人のことをジロジロ見るのはやめなさい、いい加減にしないと、わいせつ罪で捕まりますよ。へえ、一昨日の先生みたいに?

 馬鹿を言わないでくださいな、私は貴方のように女子生徒を不快にさせたりしませんよ。あーあ、人間観察が趣味だなんて、言い訳にもなりません。卒業してから何年になるのか、当時の私は本当に、貴方に懐いていたんですよ。恐ろしいわ。笑い話。見る目の無いこと。

 ただやはり、心の内の話し相手には貴方が一等具合がよい。特に人の見方に関しては、貴方が最もよく知っている。テスト中に授業の光景を思い出すように、人を見ると、心の内で貴方が喋る。

 困ったことに、人を見る目は未だ養われてはいなかった。だって、あの坊主男を恋人にとは思わない。バブリー女を恋人にとも思わない。でも、男女は恋仲だった。隣の二人は、結露した空のグラスを残して席を立った。湯気の立たないカップ越しに背中を眺める。店の外に出た女性が、後ろも見ずに歩いていく。それを男性が追いかけて、広げた日傘を女性の頭上にかざす。坊主頭は太陽を反射している。私に見る目はないけれど、二人が互いを認めているなら、二人とも良い人なんだろう。少なくとも、先生よりはね。

 ビルの割れた窓ガラスから飛行するヘリに飛び移る女に憧れながら、バブリー女に憧れることにする。誰に憧れようがよろしかろう。よろしいならよろしいんでしょう。大事なのは、全部が嘘じゃないってこと。


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