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第八話 ルージュ市 デパートで働くお姉さん達と怪しい男

ルージュ市には、デパートがある。

この国で一番、オシャレで最先端な物を発信している。

【アーテル国 デパート】

そこでは沢山の人が働いている。

二十代が中心ではあるが、幅広い年齢層をターゲットにしているデパートで働くからといって、若い女性のみが、売り場で働いている訳ではない。

それでも「華やかさ」などをテーマにしている為、どうしても二十代で若々しく美しい女性が多く働いている。

それ以外の年齢層でも、売り場に立つ以上、それなりの「美しさ」や「清楚さ」または、「清潔さ」を見に着けている女性が選ばれやすい。

人に見られる、接客をする上で大切な素質を持っているかが、店員に必要である。

その為、このデパートでは、華やかな女性店員がそこら中で見つかる。

もちろん、外に出ず、品出しや倉庫作業していたり、管理会社から雇われている者など、実に様々な人達が働いている為、絶対美しくなくてはダメだ!という訳ではない。

顔やスタイルだけが良ければ良いわけじゃなく、お客様に対する姿勢も大事だ。

人として魅力的である事が、とても大事である。

そんな彼女らも、デパートで働いている時は、仕事としてそれなりに頑張っているが、仕事をしていない時間帯は、結構ごく普通の女性である。

彼女たちは、仕事以外の自分の時間は、趣味に恋に、はたまた別の何かに力を注いでいる。

デパートの二階、婦人服売り場で、二十代の女性をターゲットにした洋服ブランドの店舗で働く女性、日吉藍華ひよしあいかは、ココアウサギの種族で、ヴィオラ町出身の女性である。

美人である故なのか、何人もの男が藍華の虜になり、愛を囁いてくれた。

藍華も気に入ればそれに答えていた為、男と何回もベッドで愛し合った。

しかし、今回は天から授かりものを受け取ってしまった。

どこの男が父親か分からないが、藍華は妊娠し、出産した。

二歳になった子供は、つい最近、アーテル村まで行きそこにある乳児院へ預けてきた。

それから彼女は、どことなく寂し気にしている時がある。

けっしてかわいくないからではない。生活に困って預けたのだ。

愛情が無かったわけではない…。

何度自分に言い聞かせても、罪を背負ってしまったかのような気持ちになる。

そのたびに、そばにいる男性が慰めてくれるが、娘にした事は許されないのでは?という気持ちが、藍華の中で渦巻いている。

藍華は、現在アパート暮らしだが、もう二人、同じアパートに住んでいる仲間がいる。

同じアパートで、同じくデパートで働いている、という事で、他の二人を含めた三人は、職場でもアパートでもそれなりに仲良くしているが、それ以上の関係は無い。

一人はキヌネコという種族の女性で、姉妹二人暮らしである。

姉妹は、母親と三人家族だったが、母親が行方不明となり、妹と二人でアパート二階の一室を借りているが、もう一人の女性とルームシェア中である。

もう一人の女性はトイプードルという種族の女性である。

アパートには「A棟」と「B棟」があり、彼女たちは「A棟」の方で暮らしている。

アパートは二階建てで、一階は店舗が入っていたが、今はほとんど空き店舗である。

店舗兼住居といった造りで、店舗と奥に一室あり、藍華はそこで男と住んでいる。

店舗部分は、親が飲み屋を経営していたが、今は経営していない。

その為、そのまま藍華が部屋だけ引き継いだ。

男が店舗側を気に入っている為、そのまま借りている。

店舗には、そのまま店の物が置いてあり、男はそこで生活しているが、寝る時だけは奥の住居スペースに布団をしいて寝ている。

(布団は万年床だが)

この上の階の一室が丁度、藍華の仲間の二人の部屋だ。

広さは取れている為、姉妹とルームシェアしている一人は、部屋を分けている。

DKだけ、三人で使えるようにしてあるが、気を使い一人は自室で食事をしている。

その部屋に住む三人は、絹井紫音きぬいしおん絹井紫月きぬいしづく和田景子わだけいこの三人だ。

紫月は中学一年生の十三歳であるが、母の行方不明により、姉とこのアパートで暮らしている。

姉妹の母は、世間では行方不明となっているが、実はどこに行ったのか分からないだけで、男と駆け落ち、または男と失踪である。

藍華の母も、店を辞め男とどこかへ行ったが、藍華自身はどこへ行ったのか知っているし、連絡も取っている。

しかし姉妹は本当に、母の居場所を知らないのだ。

それでもあまり気にしていなかった。

男女が絡んだ失踪、行方不明者は、この国ではたまに出てくる為、世間一般でもあまり騒ぐ必要のない事と認知されている。

その為、二人も特には気にしていなかった。

母の事は、ひどい母親だとしか思っていない為である。

一方、景子は特になにか問題を抱えている訳ではない。普通に暮らす独身女性だ。

だからといって、二人の事を見下したりはせず、同じ時期にデパート勤務になった同世代の女性、くらいにしか思っていない。部屋だって家賃半分なら、安く済んで嬉しいと考えている。

三人は、藍華が二十五歳、紫音が二十四歳、景子が二十六歳である。

丁度良く付き合える仲間として、出会ってすぐ、仲良くなり、友達や親友という関係ではないが、仲間としては問題ない。

まして同じデパート内、アパート内とよく顔を合わせる為、問題は誰もが避けたいと考えている。

紫音は一階化粧品売り場、景子は一階チョコレートショップで働いている。

デパート自体、建物も規模もそこまで大きくはないが、アーテル国の人は、結構満足している。

そんなデパートで働く三人は、今日も笑顔を振りまき、お客様第一精神で接客しているが、デパートが閉店し、家に帰る頃には、疲れが顔に張り付いている。

今日、花屋「FLORA」で働くラッテラパンという種族の女性は、同じく店で働く子の頼みで、売上金が合わないが、「どうにかする」と言った手前、どうするかと考えた挙句、自分の給料で調節することにした。

店だけで解決できる問題である。

上に報告しないようにすれば問題ない。

店長のミスで片付けば、直ぐに解決する。

しかし、目撃者がいたのを、彼女は気付いてなかった。

「花を買おうと思ったら、先客がいてな、黙って見てたんだが」

店が終わり、閉店の準備をして、従業員控室へ戻ろうとしていた彼女の元へ、その男は現れそう言った。

彼女は「何のことでしょう?」と言ったが、男は「だから花を買おうと思ってきたら先客がいたんだ、私はそれをずっと見てたんだ。困っているなら、その清純そうな体を私に捧げても良いんだぞ。」

「…あなたは、ピアノ奏者で、いつもあなたの音色はとても美しいのに、その発言はとても残念ですね」

「対価を払うか?」

「分かりました。払わせていただきます」

「わかった、じゃあ、閉店した所悪いが、私に花を買わせてくれないか?」

「どうぞお好きに」

そう花屋の店員が言うと、男は花を選んだ。

「これでいいか、よし、足りない分大目に払うから、計算してくれ」

「分かりました。足りるようにしますね」

美しい顔には似合わない取引だったが、男がどんな男なのか知っていた為に出来た裏技だった。

男は頻繫に花を買いに来る客で、いや、正式には客ではなく、デパートでピアノを弾いてくれと頼まれて来ている男で、藍華と同じアパートに住んでいる。

最近では、藍華と一緒にいる事が多いが、恋人ではないらしい。

無精ひげを生やしているようにも見え、体格も大きいため、怖そうな男と勘違いされるが、種族がライオンの為、そう見えるのだろう。

男の趣味は、金と酒とタバコと女だ。

金の為ならどんな汚い職業でも…と思われがちだが、稼げれば良いわけではない、男の職業は、デパートでピアノを弾いているか、ルージュ市の中学校の音楽の先生不足解消の為、臨時音楽教師をやっている。

(ピアノを弾くためだけに、呼ばれているだけだが)

金は好きだが、働き方は選ぶタイプだ。

どちらかと言えば、女好きで、特定の彼女は作らないが、遊びの女なら困らない程度にいるらしい。

藍華もその一人のように見えるが、一回抱いただけで、今はもう手を出してはいない。

そしてこの花屋の店員が今度のターゲットらしいが、男は彼女を抱いたりはしない。

「デパートの隣のレストランで今度、ピアノを弾く仕事がある。その後、飲みに行かないか?」

「分かりました」

「じゃあ、また連絡する。アイリーン、親切もほどほどにな」

「はい」

男は彼女の頭を大きな手で撫でてから、店を去って行った。




男はアパートへ帰ると、一旦買ってきた花を生けた。

元・スナックのこの店舗部分は、黒いグランドピアノがある。

男はそのスナックで、ピアノを弾いていた。

藍華の母がスナックのママをやっていた頃から、ここで暮らしている。

ここのグランドピアノは、一番気に入っているピアノである。

柄でもないと、最初は笑われたが、花を生けるだけで、ピアノが生きてくる。

昔から男はピアノが好きで、元々は大きなクルージングボートで、ピアノを弾いていた。

自身の出生の事は詳しくは知らないが、世界を船で巡っていると、そんな事どうでも良かった。

女たちはピアノの演奏と、「かわいそう」という言葉だけで寄ってきた。

それから直ぐに女の味を知り、酒とタバコの味も知った。

女と酒とタバコ…そして金は、男の人生にとってその四つが揃ってワンセットだった。

今もあまり変わってない。

この“のらりくらり”としている感じが、男は好きなようで、定職に就かず、ここで暮らしているのはその為だ。

花を見ていると癒される、というのは本当なのか知らないが 女は美しい花が好きで、悲しいお話が好きだと、男は認識している。

出会った女、全てそうだったからだ。

しかし、藍華はちょっとだけ違う。

今は藍華自身、傷を負っているようだった。

元々は、男が出会った女と大して変わらなかったが、子供を施設へ預けた時から、変わってしまったようだ。

店で働いている時以外の藍華は、覇気が無かった。

今日も帰ってきたと思ったら、奥の部屋へ一直線で入って行った。

二階から一階のこのスペースに来たルームシェア中の三人は、藍華がいない事に、心配になったが、気にしない様にして、席へ座った。

ピアノ付近に飾られている花を見て、三人は綺麗な花だと思ったが、特には言葉に出さなかった。

花の価値は、綺麗しか分からなかったからだ。

よく見かけるような気もするが、名前など花に関して詳しくないからこそ、三人は口に出さなかった。藍華の為というのは、なんとなく察した。

その藍華は、部屋にこもったきり出てこなかった。

何ヶ月もたつというのに、ずっとこんな感じだった。

子供は、藍華と一緒にいる時、スカウトされ、芸能事務所に入った。

今は赤ちゃんモデルとして、ちょこっとだけ活動している。

伽芽莉愛きゃめりあという名前は、藍華が付けた。

「かわいいから」というのが、理由である。

自慢の娘だった。

それが今、自分の元にいない。

生きてはいるのは、分かっている。

分かっているし、迎えに行けばまた会えるのだがそんな気も起きない。

お金が無くて、生活が窮屈な為、仕方がなく預けた。

『そんなに悪い事なのか?』

『お金が無くても、やりくり次第でなんとかなったんじゃ?』

『子供がかわいそう、これだからまともに育ててもらえなかった子は、こういう道に進みやすいのよ、あなたのお母さんも罪人よね』

藍華は、子供の事は特に誰かに喋った訳ではないが、噂はどこからか流れ、職場で嫌みを言われるようになった。

藍華も、元々気に食わない人達と思っていた人達から言われたのが、余計腹が立った。

しかしそんな言われた事なんて、一瞬で忘れた。

今もどこかで悪い噂がたっているかも知れないが、どうせそんなこと言う奴は、性格が悪いからだ、と決めつけている。

藍華の心に刺さっているのは、そういう奴からの攻撃ではなく、自分自身の中にあるものと戦っていた。

今の藍華は寂しさに苦しんでいた。

どれだけ色んな人に慰めてもらっても、心に響かず、ただ簡単な返事を返すしか出来なかった。

男といても寂しさは埋まらず、相手がどんな男でも、その寂しさを埋める人は現れなかった。

それもそのはず、藍華は母親を求めていた。

それは最近の母親ではなく、藍華が小さかった頃の母だ。

今、母は再婚して新しい「お父さん」と楽しく過ごしたいから、と出て行った。

それは構わないが、藍華の心の中で寂しさを訴えた時、そばにいて欲しいと願うのは、幼い時傍にいてくれた母だった。

もう戻る事は出来ない過去の記憶に、藍華はすがり付いていたのだ。

それでも藍華の仲間達は、立ち直って欲しいと願っていたが、今の藍華には届かないらしい。




翌日

藍華の仲間である紫音は、職場で暇そうにしていた。

平日の今日、この時間は客が少なく、とりあえず立っているだけに感じる時間だ。

口うるさそうなおばさんが、「最近流行りの口紅はなんだか下品な色ばかりねー。」とぶつぶつ呟いているが、紫音は「その顔こそ下品ですね」と言いたいのを我慢して、遠目から見ていた。

藍華が元気ないのは、なんだか嫌だった。

自分はまだ、子供を産んでいる訳ではないが、藍華の子供は近くで見ていた為、急にいなくなり、自分も寂しい気持ちになった。

藍華を小さくしたような子供だった。

まだ二歳だが、藍華のようによく喋った。

芸能事務所にも入り、藍華は本当にかわいがっているのを、そばで見ていたからこそ、なんだか悲しかった。

それでも藍華が決めた事なら…と考えている。

藍華はいつも「生活が苦しい、子供もいるし、私だって欲しい物あるし、子供だって可愛いかっこうとかさせたいし」と言っていた。

妹を養っている身としては、その気持ちは分かった。

妹に恨みはないが、消えて欲しいと考えてしまう時もある。

紫音の母は、元々水商売で働いていた。

男を捕まえた所で、ろくでもない男ばかりだった。

父親に関しては見当もつかない。

大体の事は、母から聞いていたが、母は若い時に紫音を産み、そしてまた別の男との間に子を産んだ。それが妹だ。

妹とは父親違いだが、どちらも良い男とは程遠い。

紫音の父は、母が十五歳の時、相手は十九歳の大学生で彼氏だったらしい。

妊娠したと告げると、そのまま行方知れずになった。

その後、母は水商売の道へ進んだ。

妹の時は、店の客らしく、母には「社長」と言っていたらしい。

しかし、その男は会社の社長ではなく、その“社長”の元で働く“従業員”だったらしく、当然金も持っていない。

パチンコが大好きだったとも。

母が言うには、遊びの関係だったらしいが、「社長の事が気に入らないだの言ってたけど、私を騙そうなんて、考える方がバカなのよ」と言っていた。

紫音はずっと、そんな母の姿を見ながら育った為、男は信じちゃいけないんだ、という思いが強い。

その後、母は紫音が二十歳のなったのを機に、行方をくらました。

どこかで男と暮らしているだろう。それかまた、騙されていたりするかも知れないが、さすがに兄弟は増えてないだろうと願っている。

藍華の母は、一回目の結婚は離婚、その後二回目の結婚をした。

藍華とは、そんな母親に育てられた、という境遇が似ていて何かと気が合うのでは?と一緒にいる。

子供の事も相談されたが、妹を養っている自分としては、なにも言えなかった。

紫音は、同じ職場で働く女性に、「休憩入って良いよ」と言われた為、休憩に入る事にした。

従業員専用休憩室には行きたいと思えず、同じくデパート一階にある、食品館の方でチョコレートショップで働く景子の元へ向かった。

デパートは二つのフロアで分かれている。

外装の色が違うので、外からはそれで見分けられるのだが、中は並んでいるショップをみれば分かるようになっている。

グランドピアノが置いてあるメインホールから、左右に分かれている為、紫音はそのメインホールを通り抜け、チョコレートショップへ入った。

中にはチョコレートが並び、化粧品売り場とはまた違った雰囲気だが、景子はさっきまでの紫音同様、暇なのかボケっと突っ立っていた。

「あら、いらっしゃい」

「ふぅー、ここ座って良い?」

「どうぞ、どうせ客も居ないしね」

「あー、チョコレートの匂い、なんかここ天国じゃない?」

「そうね、私はもう慣れちゃったけど」

「ソファーもあるし、良いね」

「そうね、結構、座る客も一杯いるわよ」

「試食食べていい?」

「お好きなものをどうぞ、残っても、もったいなだけだしね」

そう言われ、紫音はピンク色でバラの花のような形の小さなチョコレートをつまんで、口に入れた。

「ねえ、藍華の事、どう思う?」

「ライオンさんが、『相談されたから、私が思う事を口にしただけだ』って言っていたじゃない、決めたのは藍華だよ。なんも、どうもする気もない」

「そうだけどさ、なんか、ね」

「まぁ、いろんな感情が湧いてくるけど、今の給料じゃ、どうすることも出来ないよ。そりゃ別の選択肢もあるんだろうけどさ、それが本当に良いのかって考えたら、それは人それぞれじゃない?藍華は正しくはないかも知れないけど、子供の事を想って施設に預けんたんでしょ?野垂れ死ぬよりましよ」

「…そうね、あの施設は変な施設でもないんでしょ?ちゃんとした施設なら、そこに居てくれた方が安心よね、まぁ怪しいのは芸能事務所の方だけど」

「変な事務所なの?」

「あまり良くないとは聞いた事あるわ。噂だから本当の事も分からないけど」

「ふーん」

「まぁ、海外に売り飛ばされたりはしないのは確かよ」

「なにそれ?」

「闇を抱えた芸能事務所、っての?」

「そんなのあるの?」

「噂だけ」

「なあーんだ」

「でも実際、見えない部分は怖いわよ。会社も人も」

「そうね、それはなんか分かる。」

「まぁ、なにはともあれ、藍華の事、心配ね」

「…普通の家庭ってどういう感じなの?私にはそういうの分からなくて」

「うーん、難しいなー。人それぞれだから」

「そっか」

「でも、支えてくれる人が身近にいるって大事だよ、私はお母さんやお父さんに支えられて生きてきたけど、支えが無くなるって、結構きつい事だと思うよ」

「ライオンさんが、『藍華が欲しいのは男からの愛情じゃなくって、母親からの愛情らしい』って、言っていたけど、そういうのも関係してくるのかな?」

「藍華は昔、お母さんと二人で暮らしていたんだっけ?じゃあ、何かしら影響はあるかもね」

「でも、最後まで自分の親には孫がいるって話さなかったんでしょ?きゃめりあちゃんの事、親には話してないって言ってたから、そこまで影響ってあるの?きゃめりあちゃんを手放したことに罪悪感があるんじゃなくて?」

「あるとしたらー、両方かな?母親に対しての感情と、娘に対する感情、両方抱え込んでるんじゃない?」

「あぁ、お母さんは、一人で藍華を育ててくれたんだもんね。けど自分は手放しちゃって、罪悪感抱え込んで、お母さんに助けを求めてる感じ?」

「うん、私の中では、藍華のお母さんがキーワードになってる気がする」

「そっか、お母さんか。藍華のお母さんって、今は新しい結婚相手と二人でどっか行ってるんだよね?」

「そうだよ」

「寂しいのかな?藍華」

「そうだとしたら、私達じゃ何も出来ないね、本人がいなきゃ」

「そうだね…」

そこで会話は途切れた。

藍華の感情は、今までの藍華を見てきた二人の推測でしかないが、二人だからこその会話だった。

藍華の心の中は、藍華しか分からない。

しかし、今まで仲間として接してきた二人は、藍華と会話してきた中で、答えを見つけようとしていた。

元気を取り戻してほしい。それは全員の願いだった。




周りから「ライオンさん」と呼ばれる男は、藍華の店に来ていた。

藍華たちと一緒に生活している仲間の一人で、仲間のうち、唯一の男性だ。

ライオンさんは、年齢不詳で自分からも自分の年齢を口にしない。

産まれた場所も、育った所も、全て謎の男だ。

彼は彼で、藍華が心配で店に来た。

藍華は仕事中は平静を装っている。

見た感じ何もない様に見えた。

「今、他の子は休憩時間か?」

「そうよ」

「藍華、調子はどうだ?」

「別に、特には…」

「そういう風には、見えないな」

「そう?」

「藍華、おまえは願いを叶えられるなら、何を願う」

そう言ってライオンさんは、藍華を後ろから抱きしめた。

そして耳元で「私に、もう一度抱かれたいか?」と呟いた。

「あれは、ちょっとした気の迷いよ」

「そうか?とても気持ちよさそうに私にゆだねてきたじゃないか、もっとこうしてと」

「やめてよ、ここ職場」

「藍華」

「なに、ねえ、離して」

「何が欲しいんだ?金か?男か?それとも、子供を取り戻せる生活か?」

「別に、子供はしょうがないよ。だってお金なくてご飯すらまともに食べれないもん。欲しい物も買えないし」

「娘が働いた金は?」

「あんあの大したお金にはならないよ」

「じゃあ、何が欲しいんだ?母親の愛情か?」

「そんなの、いらない」

「寝ながら、母を呼んでたぞ」

「うそ!やだ、聞かなかった事にしてよ!」

「藍華、母は藍華を、娘を愛している。戻らないわけじゃない。存在してくれているんだ。今は君のそばにいないだけで、君を想っているはずだ。彼女は、そういう女だ。いつも、藍華、藍華って、君の名前を呼んでた。君だってそうだろう。娘が可愛かった。愛おしかった。しかし君は、手放す事を選んだ。けど、間違っている選択に感じるかもしれないが、それは間違ってなかったかもしれない。誰が正解を決めるんだ?学校の勉強じゃないんだ。誰が言う事、思う事が正解も間違いもないんだ。君の選択は、誰かに間違いだと言われても、その人にとって間違っているだけで、君には正解かも知れないんだ。藍華、君の母親と娘を想ってやれ、そばにいなくても、想い続けるんだ。今はそれしか出来ないが、それで良いんだ。

忘れ去られた時が、一番寂しく悲しい時だ。そうじゃない限り、大丈夫だ、藍華。」

そう言ってライオンさんは、藍華と向き合いキスをした。

そして抱きしめ、胸に藍華の吐息を感じていた。

「藍華」

名前を呼ぶだけで精一杯だった。

それがライオンさんの、精一杯の想いだった。




その日の夜

藍華は家に帰ると、テレビを付けた。

CMが流れ、オムツのCMで娘の伽芽莉愛が映った。

施設に行く前に撮影したやつだった。

娘はちゃんと可愛く映っていた。

「まま、いっしょにみようね」と言っていた言葉が浮かんできて、伽芽莉愛の笑顔も思い出してしまった。

しかし、不思議と悲しいとか寂しいといった感情は湧かなかった。

「あの子が元気で笑っててくれるなら…勝手だとは思うけど」

藍華は、娘が幸せに生きてくれる事を願った。




紫音は、アパートの二階にある自分の家で、寝室に入って自分の布団の上で、通帳を開いて見ていた。

リビングとして使っている部分から、テレビの音が響いている。

妹がテレビを見ているらしい。

「お姉ちゃーん、きゃめりあちゃんのCM放送されたよー」という声を無視して、通帳に書いてある事を一つ一つ確認していた。

通帳の所に、母の名前と振り込まれた金額が書き込まれていた。

怒りで震えそうになる気持ちをなんとか押し殺し、ため息をついた。

妹には何も伝えてないが、毎月、日にちは疎らであるが、振り込みがされている。

それは生活費として…というより妹に対するお金だろう。

成人してない妹の為のお金として振り込まれている。

それは正直嬉しいのだが、そんな事をするなら、ちゃんと姿を現し、謝罪して欲しかった。

行方知れずで、どこにいて何をしてるかもわからない状態で、よく振り込み出来るな、という思いと、そんな振り込みするくらいなら、妹をちゃんと母親として面倒見てくれても良いのに。とも思っている。

自分の事は良いから、せめて妹だけでも…。

しかし、そんな気持ちは母には届かないらしい。

「全く、お金だけ送り付けてきて…いったい何がしたいんだか」

紫音は小声でそうつぶやいた。

母の振り込んできたお金は、使いたくなかったが、紫音の稼いだお金だけでは、不十分だった。

父親違いではあるが、姉妹として愛情が無いわけではない。

そのお金は、妹の為に使う為、自分の感情を押し込んで、お金をおろして来ることにした。

「紫月には、バレませんように…」

紫音は、やはり小声でそういうと、チェストの中にしまった。

一方、紫月の方は、なにも知らないまま、テレビを見ていた。

姉の事に関しては、正直、自分のめんどうを見てくれるお姉さんとして慕っているが、母に関しては、興味がなかった。

どちらかと言うと、姉の方が母の代わりに世話をしてくれたので、姉の方が母のようだった。

父親が違うのを知るのは、結構早かった。

母がぽつりと、姉と喋っていたのを聞いてしまった為、子供ながらに泣くしか出来なかったが、今はそんな事実はどうでも良かった。

デパートで働くオシャレなお姉ちゃんがいるというのは、学校でも鼻が高く、皆から羨ましがられる事も多かった。

同時に、両親がいない事をバカにしてくる子もいたが、そんな奴の事は気にせず生きている。

顔が少々整っているのも彼女の強みで、注目されやすい部分もある。

それも彼女の中では、鼻が高くなる要因である。

しかし、彼女は、姉が何に悩んでいるかなんて気付けなかった。

それだけ姉は、隠すのが上手いのかもしれないが。

テレビや雑誌で見たものを友達と共有し、お喋りをしたり、部活動に力を注いだりと、学生生活を楽しんでいる。

ただ、一つだけ楽しめていないとすれば、現在、「彼氏がいない」という事だけが、唯一の彼女の悩みである。

それだけが、気になるが、彼女はいずれカッコイイ男の子と付き合えると信じている。

素敵な恋をして、綺麗になって、友達と楽しく遊んで…。

今の彼女には、それだけあれば良いのだと思っている。




紫音、紫月と同じ家でルームシェアしている景子は、自室で雑誌を読んでいた。

リビングから漏れてくるテレビの音と、笑い声は紫月の声だと分かっていた。

だからといって、「うるさい!」と怒鳴るわけではない。

どちらかというと、「若いって良いわね、元気がありあまってる」というオバサンと同じ気持ちである。

(良い意味でのほうだが)

唯一、藍華、紫音とは育った環境が違う彼女は、二人の事に対して、特に嫌な感情は持っていない。

「生きる環境が違うから」といった言葉も発する事は無い。

“親切なオバサン”みたいなポジションと自分では思っているが、二人がどう思っているのかは知らないが、勝手にそう思い込んでいるだけだ。

ただしその感情を押し付けるような事はせずに、二人とはある程度、距離を取っている。

(はずである)

景子は多少、他の二人より、食べ物に関しての興味がある。

食べるのも作るのも好きなタイプだ。

常にダイエットしているが、上手く行く事は無いようで、挫折ばかりしている。

レトロでモダンな雰囲気が好きで、インテリアなどは、その辺を意識している。

アパート一階で、藍華、紫音、紫月、ライオンさんと景子が集まって、パーティーや飲み会までは行かなくても、集まる事が多々あるが、その時は皆でお金を出し合ってお菓子やらおつまみやらを買い、みんなで食べるのだが、中学生の紫月はお金を出せない為、姉が二人分支払っているが、たまに景子が「今日は私がおごるから」と女性四人分をまとめて支払ってくれる時がある。

皆、大変なのを分かってやっていく事で、景子のその行動は、他の女性三人にとって、ありがたい事だった。

食べ物を選ぶセンスもあり、集まりの時はいつも美味しい物を選んできてくれる為、皆、満足している。

そうやって景子は、境遇が違う人と分け隔てずに接してきた。

手を貸してほしいなら、言ってくれれば貸します!お気軽にどうぞ!というスタンスで生きている。

そんな景子は現在、ダイエット特集と書かれた雑誌を読んでいるのだが、どれもピンッ!ときていないらしく、「今回はイマイチねー」なんて独り言を言っていた。

今日は店長から「あまり太らないようにね、制服だって限度があるし、あなたはこのデパートで働く従業員なのよ、身だしなみには顔やスタイルだって含まれるわ、気を付けてね」と言われてしまったのだ。

そんな事は分かっている。

しかし、リビングにあるテレビから、誘惑のようなCMが流れ、それが景子の部屋まで聞こえると、どうしても耳が拾ってしまうのだ。

景子は慌てて耳を手で押さえ、「あらら、聞いちゃダメ、聞いちゃダメ、誘惑が…」と言ったが、時すでに遅し!

景子の頭の中にCMが大音量で流れ始めた。

今のCMは新商品のお菓子のCMらしく、景子の大好きな言葉が大きく頭の中で響いている。

「新商品」という言葉にだけは弱いのだ。

景子はその言葉を消そうと「あわわわわ」と言ったが、思うように消えないどころか、さらに大きくなったような気がしてしまう。

これ以上どうすることも出来ず、景子は明日、デパートの地下にあるスーパーで探す事にした。




その頃、ライオンさんは家にいなかった。

レストランで臨時ピアノ奏者のアルバイトを頼まれている為、その仕事で遅くまで帰らない。デパートの隣にあるレストランは、食事を楽しむ人で賑わっていた。

デパートが閉まっても、レストランは空いている。

といっても、もうすぐ閉店時間だが。

デパート内のレストランという訳ではない為、デパートと、このレストランは営業時間が異なる。

この間、ライオンさんに、このレストランへ来てくれと頼まれた花屋の店員、アイリーンは、レストランで一人食事を楽しんでいた。

この時間でも客がまだいるという事は、それだけここのレストランは、繁盛しているのだろうと考えていた。

普段、物静かな彼女に、このレストランの雰囲気はとても合っていた。

店が閉店したら、仕事は終わる、それまでちょっと待たせてしまうが、外で待っててくれ。との事で、閉店前の店にいるのだが、その後はレストランの出入り口付近で待つつもりだ。

アイリーンはゆっくりと食事を口に運び、レストランの雰囲気を楽しんだ。




時間はもう二十三時を回って、周りは静けさに包まれていた。

チラホラ歩いている人はいるが、トラムの駅へ向かう人ばかりだった。

食事を楽しんだ後、最後まで店に残りピアノを聴いていた。

閉店間近になると、段々と人が店から出て行ったが、アイリーンだけは残っていた。

二十三時閉店の店は、今はもう閉まっているが、アイリーンは店の外に出て、店の出入り口の前に立っていた。

ライオンさんは、そこまで時間がかからず出てきた。

アイリーンに声をかけ、「お気に入りのジャズバーがあるからそちらへ行こう。」と誘った。

アイリーンはライオンさんと並んで歩き、少しだけ彼の横顔を見つめた。

たてがみの生えた顔は、表情さえ隠してしまいそうだ。

何を考えているのか、分からない顔をして、ライオンさんは歩いている。

アイリーンは密かに彼に憧れを抱いていた。

好きとかそういう事ではない、綺麗な音色を奏でる彼の演奏を好きになり、どんな人が演奏しているのか見に行った時に、大きな体で繊細な指使いでピアノを優しく弾く彼を見て、人として素晴らしい人なんだと思っていた。

噂では「金と酒とタバコと女が趣味の荒れた奴」

「暴力で解決するしか考えてない奴」という言葉が飛び回るが、実際はそうじゃないのを知っていた。

正直、ライオンさんとの時間は、アイリーンにとって憧れの対象との夢のような時間だった。

“女性にモテるのは、理由があっての事。”

女を直ぐに抱くとも噂されているが、アイリーンはそれでも良かった。

あまり人を好きになれない彼女は、そういう行為に対して、嫌悪感があるが、彼ならば抱かれたいと思う女性の気持ちが少し分かる気がした。

繊細な行為で女性を引き付け、優しさで包み込む彼は、まさにアイリーンにとって理想の男性だった。




ジャズバーに着いた二人は、カウンター席に座った。

お酒を飲む人達にとって、これからの時間こそ本番だった。

一次会が終わり二次会へ行く人、朝まで酔いつぶれたい人など、酒に酔う為の時間だ。

ジャズバーでは、アルトサックスの甘い音色が店内を包み込んでいた。

音色に酔いしれている人もいれば、お酒の味に自分の想いを重ねている人もいる。

酒は人々に寄り添い、時には涙を流させてくれる。

オシャレなカクテルなどを飲んで、楽しい時間を楽しむ人、カラフルなフルーツのように、甘酸っぱい恋をし、酔いしれている女性もいる。

そしてここにも、過去の過ちを、誰にも話した事の無い、過去の恋を胸に抱え込んでいる男が一人、美しい顔立ちの女を連れている。

「アイリーンはあまり、こういう所に来ないのか?」

「はい、ほとんど真っ直ぐ家に帰ります。」

「そうか、親御さんと一緒に暮らしてるのか?」

「いえ、妹と一緒に住んでいます」

「家はこの辺なのか?」

「ヴィオラ町出身で、今もヴィオラ町に住んでいます」

「なら、妹さんに悪い事してしまったかな?」

「大丈夫です、遅くなると連絡しておきましたから」

「それなら良かった。たまには君みたいな子と、こういう所で、酒を飲んでみたくてね。いつかは誘おうと思っていたんだ。そう思うと、君と一緒に働いている彼女に感謝だな」

「あの時は、ありがとうございました。」

「いや、気にするな、お互い様だ」

「あなたはいつも優しいですね」

「そうか?」

「はい、特にピアノに関しては、とても優しいです」

「アイリーンみたいな子に、そう言われると、素直に嬉しいもんだな」

「結構、隠れファンの方もいらっしゃるんですよ、ライオンさんの演奏が好きな方」

その言葉に一瞬、体が反応した。

それは昔、彼がまだ十代だった頃、体験した恋の相手が発した言葉だった。

体が震えてしまいそうなのを、お酒を飲んで隠した。

しかし、恐ろしいのは思考回路の方だった。

一瞬でその時の記憶が呼び覚まされてしまった。

過去の恋をしていた自分の気持ちが、一気にぶり返す。

悲しく、辛い経験だった…。

まさかここで、思い出してしまうとは。

「ライオンさん、どうかしました?」

子供のような、大人のような、純粋な心の持ち主の声は、ライオンさんの心に、甘くとろけて入ってくる。

横を見ると、白く美しい顔がこちらを心配そうにのぞき込んでいた。

まだ、少女のようなあどけなさの残る顔で見つめられ、彼は彼女の名前を呼んだ。

「アイリーン、少し私のくだらない昔話を聞く相手になってくれないか?」

「はい、私で良ければ」

「ありがとう」

店内はサックスの音色と、悲しげなピアノの入り混じるBGMに切り替わっていた。

あの日、ライオンさんは、後悔してもしきれない事に巻き込まれた。

十代も終わりに近付いた頃の、深く悲しい恋の思い出である。

どうして彼女を好きになってしまったのか、恋をしなければ、傷つかずに済んだのに…。

いつの間にか、自分は泥沼にはまっていた。

しかし、それが全て悪い事だけじゃない。

彼女の体は愛おしく、そして暖かかった。

それだけは、忘れたくても忘れられずにいる感覚だ。

今でも時折、思い出しては無性に彼女を抱きしめたくなるが、彼女はもう、彼の前にはいない。

何度、誰もいない空に向かって、愛した女性の名前を呼んだことか…。

呼ぶたびに見つめた微笑みは、今も彼の心の中で、輝いているのに…。

「私が、まだ十代の頃だった、って言っても十八とか十九の時だな。私はとある女性を好きになった。元々、女性には不自由していなかったが、初めて私は、その女性と肌を重ねたんだ。私が抱いた、初めての女性だった。その女性は、三十代前半、既婚者だった。分かってたんだ、分かってたんだが、その思いは止められなかった。

彼女は、私がアルバイトをしていた店の常連さんだった。ピアノがある店で、丁度この店のように、ジャズを聴きながら、お酒が飲める店で、私はピアノを弾いていた。彼女はいつも、二人で来ていた。いつもの席、そこは、ピアノが一番近い席で、彼女は連れの女性と酒を飲んでは、ピアノの演奏をじっくり聴いていた。しかし、妙だなと感じたんだ。どこかその辺の客と違うなって思ったんだ。けど、連れの女性とその彼女は、いつだか私の仕事終わりまで、店の外で待っていた。連れの女性は『娘は耳が聞こえないけど、あなたの演奏がとても好きなの。最初は特には無かったんだけどね、この店に毎週連れてくるたびに、あなたの演奏を聴きたいって言いだして、それでいつもあそこの席に座らせてもらっているの。耳の聞こえないお客に対しても、分け隔てなく接してくれるマスターに、私達はとても感謝しているわ。それに素敵な演奏をしてくれるあなたにも』と、言ったんだ。私は訳が分からなかった。耳が聞こえないのに、私の演奏が聞こえるのかと、そしたらそうじゃないんだと言われた。彼女は、耳だけで音をとらえている訳ではないんだと、目で心で感じているんだと言われたんだ。

それから私達は、店が閉店した後、三人で帰るようになった。少々強引ではあるが、私は特に何も考えていなかったんだ、そうしているうちに、彼女と私は、二人でも会うようになった。会話は当然言葉で発しても、相手には伝わらない。まどろっこしい手話ってやつを覚える気にはなれなかった。しかし、いつ頃だろうか、筆談で彼女は私に『夫が誰かと浮気をしている。夫は私を愛してないの、耳が聞こえない私をかわいそうと、面倒をみているフリをしたいだけなのよ。夫は私を自分を輝かせる道具としか思ってないの。それなのに私は、バカだから全然そんな事に気付けなくて、最初はとても優しい夫に恋をして、結婚をしてしまったの…。でも、気付いてしまったのよ。夫は最初から私を利用する目的で近付いただけって、全く愛していなかったの。夫は他の人を愛してるわ』と告げた。

なんだか悲しくなったんだ。思わず彼女を抱きしめてしまった。

自分よりだいぶ年上の彼女に、いつの間にか心が奪われていたんだ。その時に初めてその気持ちに気付いた私は、彼女を強く抱きしめた、聞こえないのを良い事に、耳元で「愛してる」と囁いたんだ。その時、彼女はふいに涙を流した。

なぜだか分からないが、とにかく彼女は泣き出したんだ。しかたなく私達は人気の無い場所へ行く事にした。彼女が良い所を知っていると、筆談で言っていたので、彼女についていったんだ。彼女は私に、ホテルを案内した。ここが良い所だと、確かに雰囲気はとても良かった。ただそこは、普通のホテルではなく、そういうホテルだったんだ。私は初めてその中へ入った。耳の聞こえない彼女とどうやってそういう行為をすれば良いのか分からないが、彼女の方からリードしてくれ、私は彼女と肌を重ね合わせた。年齢だとか、既婚者であるとかは、もうどうでも良くなっていた。彼女の体を抱き、火照り合う体をお互いに交わせ、とろけるような想いの中、目を閉じたんだ。それからというもの、彼女とは店で会い、ホテルに行った。そしてあの晩…」

長々と一人で語っていた彼は、急に口を閉ざした。

「それから、どうしたんですか?」

アイリーンは、心配した顔で、彼の顔を覗き込んだ。

「ライオンさん」

「すまない、アイリーン、それからあの晩…」

彼はやはりそこで言葉が途切れる。

アイリーンは彼の言葉を待つ事にした。

お酒は好きではないが、今日はなんだか美味しく感じる事が出来た。

アイリーンが飲んでいるお酒は、どこかジュースみたいだった。

甘酸っぱく、そして少し人を惑わせるようなアルコールの大人の味。

ライオンさんの脳裏に女性の声で「レオナルド」という彼の名前が響いていた。

聞いた事もないはずの彼女の声だ。

耳が聞こえず、声も発する事の無かった彼女の声は、甘ったるく優しい声だった。

ライオンさんは、上を見上げたが、柔らかなオレンジ色のライトが自分を照らしているだけだった。

「あの晩…、あの晩の事は、今でも忘れられないんだ。」

ライオンさんのやけに静かな声に、アイリーンは再び耳を傾けた。

「あの晩、彼女は珍しく一人で家を出たらしい、店にくる途中の出来事だった、彼女は横断歩道で、信号無視で走ってきた車に轢かれたんだ。歩行者の信号は青だったのに…。誰もが危ないと叫んでいただろうな。しかし彼女は何も聞こえない、普通に歩いていたんだろう。耳が聞こえるか聞こえないかは、見ただけじゃわからないからな。誰も彼女が聴覚障碍者だと気付かなかったんだろう、彼女に必死に呼びかけたんだろうが、彼女には届かなかったんだ。それから私は、彼女の死を、彼女の母親から聞いたんだ。彼女の母親が店に来て『娘はこの店へ来る途中事故にあった』と…それで、葬式に来てほしいと頼まれ、私は彼女の葬式と日時と場所を聞いたんだ。それから何日もしない間に、葬式の日が来て、私はその場所へ向かった。今思えば行かない方が良かったんだ。あんな場所…しかし私は最後の彼女の姿に会いに行ったんだ、そこで、彼女の夫だという男に会った。どういうつもりだと言われ、私は混乱したが、彼女の夫は私に『これが全ての証拠だ』と言われ、写真を見せられた。そして『君を訴える』と言われてしまった。それからの私は地獄のようだった。おかげで金に執着するようになってしまったがな。ただ、間違っている事をしているとは思えなかった、よく考えれば、彼女の夫だって彼女とは別の女と不倫してたんだから、私を責める立場ではなかったはずだ。しかし私は、まだ若かった。罪は償うもんだと思って、彼女の夫が言う事に従った。それから私は、その場所から海へと向かったんだ。バイトも辞めた私は一人、住む所もなくなり、どうするか迷った挙句、船に乗る事にしたんだ。そこでまた、ピアノと出会った。私はピアノと縁があるのかもな、大きな船内でピアノを弾き、外に出れば一面大きな海、波の音を聞いて、彼女を忘れようと思ったんだ。女もやはり不自由しなかった。しかしあの時感じた感覚は、もう失っていたんだ。どんな女を抱いてもあの時のように感じなくなっていた。気持ちよさは分かるが、そうじゃないんだ、あのなんとも言えない、あまくてとろける感じをもう一度味わいたかったんだ。有り余る熱と心地よさ、あれは彼女だから感じる事が出来たんだな。今ならそう思える。酒とタバコは、すでに知っていた味だったんだが、彼女とのあの時間だけは、他とは別物だった。酒もタバコも、全く違う味に感じていたんだ。それが今はもう、私はあの時、全て失ったんだ」

「そうでしょうか、ライオンさんは、全く失ってはいない気がします。」

「どの辺が?」

「人を愛する気持ちと、優しく包み込む気持ちは、ずっと持ち合わせていると思います。たとえそれがいけない恋だったとしても、誰かを愛してしまうのは、間違っていないと思います。でなきゃとっても悲しい人になってしまいます、愛を知らないまま生きていく事になるより、どんな恋でも、人を愛するってことを知ってた方が良いと思います。その人もたぶん、ライオンさんだから、愛してしまったのだと思います」

アイリーンは目に涙を浮かべていた。

「君はやはり優しくて純粋な心の持ち主だな」

「私は…」

「アイリーン、長々と私の話を聞いてくれてありがとう。ここは私に出させてくれ、それと、君の家まで送るよ」

「ライオンさん、最後に聞いても良いですか?」

「なんだ?」

「あなたのお名前は、何でしょうか?」

「そういえば、まだ名乗っていなかったな、私の名はレオナルド・フォレスター」

「レオナルドさんですね、ふふっ、嬉しいです。皆さんはライオンさんと呼びますけど、私はレオナルドさんとお呼びしても良いですか?」

「かまわないよ」

「レオナルドさん」

「なんだ?」

「私はそんなレオナルドさんが好きです。それにその女性もあなたに愛されて幸せだったと思います。今は触れられなくても、きっと今もお傍にいてくれると思います」

「君にそう言われると、不思議と彼女が近くにいてくれる気がするな」

「ふふっ、想いはきっとお相手に届いてますよ、レオナルドさん」

ライオンさんは、アイリーンの声を聞いて、愛し彼女の声を想像した。

彼女はどんな声で話し、愛を囁くのだろう…。

その声は、アイリーンのような声の気がした。

柔らかく甘酸っぱいような、少女とも大人ともとれる声で、きっと純粋無垢な感じの声だろう。

「アイリーン、さっ、帰るか」

「はい」

アイリーンの微笑みが、愛しい彼女に見えた。

忘れたかった想い、忘れずに抱えていくしかなさそうだ。

ライオンさんは、家に帰宅途中、藍華に言った言葉を思い出していた。

まさか、その言葉は自分に帰ってくるとは、思わなかったが。




家に帰ると、外で藍華が風にあたっていた。

「藍華、こんな時間にどうした」

「あなたが傍にいないからよ。私を慰めて」

「藍華、私は女に不自由しないぞ。今だって女を抱きしめてきたんだ、それでも良いのか?」

「なんてね、もう全て吹っ切れた。昼間のあの時のおかげよ、ありがとう」

「藍華」

藍華の頭にたてがみが触れた。

「ちょっと!」

「藍華、寂しくないか?」

「今日は、あなたが寂しいのね。良いわ、相手してあげる」

二人は抱きしめ合い、唇を合わせた。

優しいキスの味が、二人を包み込んでいた。

二人は気付かなかったが、藍華に用事があって、紫月は外に出ようとしていたが、声が聞こえた為、そこで立ち止まり物陰から様子を見ていた。

月明かりの中、二人はキスをしている。

それが彼女には、とても衝撃的だった。

ここから新たに、別の感情が芽生えてしまった。

それに気付かないまま、紫月は家へ戻った。

玄関のドアは静かに閉じた。

姉は気付いていないらしい。

リビングに向かい、ソファーに座ったが、なんと呼んで良いのか分からない感情が、紫月に襲いかかってきた。

急に涙があふれて、どうするか迷ったが、とりあえず泣きたいだけ泣くことにした。

見てはいけない物を見てしまった。

それと同時に、変な感覚に襲われている。

紫月は声を出さない様にして、泣き崩れた。

姉にも誰にも言えない感情が芽生えてしまった。

彼女は今、ちょこっとだけ大人に近付いたらしい。

十三歳の彼女には早すぎる気がするが、そこは女性として成長するのに必要な事だった。

誰かを好きになり、愛していくのは必要なことである。

そこから学ぶ事もあるのだ。

今、彼女はぞの大人になる為の階段を一歩上ってしまったのだ。

本人がそれに気付くのは、少し先の未来になりそうだが…。




紫月は、翌日学校での授業の後、吹奏楽部の部活に参加した。

顧問の先生が不在の時は、ライオンさんが吹奏楽部の様子を見ている。

臨時音楽教師として、この学校に来ているのだが、普段は特に思う事はないが、今日はやけに存在を気にしてしまう。

昨日あんなものを見せられたからだ。

紫月は、チェロ担当だが、まだあまり上手くない。

チェロなんて初めて見たし、吹奏楽部に入って初めてそんな楽器があると知った。

演奏する姿がカッコイイからと、楽器を弾けるようになりたくて入っただけで、なんの楽器でも良かった。

吹奏楽部にチェロがある事が珍しい事も、値段も何も知らないまま、彼女はチェロを弾いている。

ふと見つめた先に、ライオンさんの姿がある。

女生徒に教える姿を見て、なんだかモヤモヤしている。

昨日の時点で、二人が付き合っている事に気付いたが、改めてライオンさんは女生徒にやけに密着しているように見える、「藍華さんがいるのに、なにあれ」と小声でつぶやいてしまいそうになり、慌てた所、チェロから変な音が出てしまった。

それに気付き、ライオンさんが近付いてきた。

「絹井、どうした?」

「あっべつに、てか、ライオンさん、絹井って」

「んっ?絹井だろ。君は私の事は、先生と呼びなさい」

「別にライオンさんで良いじゃん」

「良くない。君と私は今、先生と生徒なんだから」

「そんなの!」

そう言った所で同級生から「どういう関係?」と聞かれた。

紫月は、「同じアパートで暮らしてるの。他にもデパートで働くお姉さん達と暮らしてるの。私のお姉ちゃん、デパートで働いてるから」と言った。

そこで、わっと二人の関係を聞かれ、「父親代わりのようなもんよ」と答えた。

間違ってはいないが、ライオンさんには変な噂が付きまとうようになってしまった。

今すぐ仕事を辞めるという事はないが、雲行きが危うい方向へ行ってしまいそうだった。

ライオンさんはちゃんと説明して、噂は消し去ったが、尾ひれがついた方の噂は、消すのが困難で、どこかでチラホラ耳にするようになってしまった。

紫月の事は、責めなかったが、紫月はそれが面白くなかった。

家に帰り、一階の元・スナック部分の出入り口から中に入り、ライオンさんを訪ねた。

「いたいた。ねえ、学校での事、なんで私に何も言わないの?」

「何か言って欲しいのか?」

「べーつーにー!口うるさい事なんて言われたくないもん!」

「そうだろう、私だって言いたくない。」

「でも、私のせいで、なんか言われてるじゃん!」

「君のせいなのか?」

「たぶん」

「じゃあ、君が悪い」

「なにそれ!ねえ、私知ってるんだから!藍華さんとの事!」

「藍華?」

「付き合ってんでしょ!」

「…私は今、誰とも付き合ってないし、付き合う気持ちもない」

「うそ!だって…こう、なんかしてたじゃん!」

「なんか?何のことだ?」

「昨日の夜中の事!私、藍華さんに用事あって話しかけようと思ったら外にいて、その…」

「あぁ、そんな時間に起きてたのか」

「起きてちゃ悪い?宿題が終わらなかったの!」

「確かに私は藍華とキスしたが、特に付き合っているということない。それにキスは私がいた国では、それだけで男女の関係になるとは限らない」

「外国の事なんて知らない!とにかく!そういう行為してたじゃない!」

「遊びでもするもんだ。君にはまだ分からないだろうが…」

「遊び?遊びって何?」

「まぁ、君はこれから世の中の事を知って行くんだ。ゆっくり知って行けば良い」

「なによ、子ども扱いしないで」

「私からすれば、君は子供だよ」

「もう大人だし」

「じゃあ、今から私とキスするか?」

「えっ…それはちょっと。」

「顔が真っ赤だな。顔が赤くならなくなったら、君も立派な大人の女性だな」

「からかわないで!」

「…私は手を出す気はない。ましてやこのアパートにいる女性は特にな」

「藍華さんは?」

「あれとは遊びだ、本気じゃない。藍華は遊びかそうじゃないかは、結構、線を引いてるからな」

「なにそれ、変なの」

「そういうのが分かったら、また来てくれ。私はまた仕事なんだ。」

紫月とすれ違うようにライオンさんは、出て行こうとした。

その後ろ姿を見つめて、思い切って紫月はライオンさんに抱きついたが、ライオンさんは振り向かずに「背も伸びて、胸が大きくなったら、今みたいに私に抱きついてくるんだな」と言い放った。

「ただの変態じゃん。ねえ、一緒に居て」

「誘い文句が、やっぱり子供だな。それに変態と一緒に居たいのか」

「そういう意味じゃないけど」

「どういう意味で言ってるんだ?」

「とにかく、ね、寂しいから一緒にいよう」

「お姉さんにでも甘えとけ」

そう言ってライオンさんは、紫月の腕を離した。

「どうして?」

「私は十三歳で満足する男じゃない、せめて二十歳になってからだな」

なにも言い返さなくなったのをみて、ライオンさんは再び歩き始め、出入り口から出て行った。

一人取り残された紫月は、元・スナックのこの場所を見回した。

普通なら大人しか入れない場所だか、今は特別に入れてもらっている。

慣れ親しんでいる場所だが、今はやけに大人の雰囲気を醸し出している気がした。

ここは自分が居て良い場所じゃないと感じ、紫月は出入り口から外に出た。

アパートの場所は塀で囲まれてるが、出入り口の所は空いている。

その空いている所から、女性が入ってきた。

名前だけは知っているが、声をかける気にはならない。向こうも声をかけて来なかった。

「あの人、大家の娘だよね」という独り言だけがその場に響いた。

「はぁ、バカみたい。おっさんになにしてんだろ。私、彼氏いないからって、焦りすぎ!あー早く彼氏作りたーい。」

大きく空に向かって手を広げた。

空はうっすらと星が見える程度に暗くなっていた。

“家に戻ろう”そう思い、紫月は歩き始めた。

彼女の恋は、彼女の知らない所で勝手に進みだしたらしい。

十三歳の彼女に、ライオンさんは年が離れすぎているが、その頃の子供特有の「憧れの大人に早くなりたい」という思いが恋心を動かしているらしい。

彼女自身、その思いに気付ければ良いのだが、もう少し彼女はモヤモヤしそうだ。

まだ、彼女は未熟である。

なにも知らない子供であるゆえに、失敗も多くなる。

その失敗を得て大人に一歩一歩近付くのだが、成長段階では気が付けない事が多く、それは大人になってから後で気付くものだ。

紫月はまだ、未来なんて良く分かっていない状態である。

“とりあえず大人になりたい”とそれしか考えてなかった。

家に入り紫月は、リビングに行きテレビを付けた。

お気に入りのタレントが出る番組を思い出し、彼女はチャンネルを変えた。

一瞬で先ほどの事は忘れてしまった。

まだ彼女には、大人の男性よりテレビに出ているタレントに熱を発するようだ。

目を輝かせ、テレビに映るタレントに微笑んで、楽しそうに見ている。

笑い声が部屋中に響き渡っている。

全くと言っていいほど、彼女は深い悲しみや、辛さを知らずに生きている。

姉や周りの女性の事や、ライオンさんの心の悪にある気持ちを、知らずにいる。

一番幸せなのは、まだ十三歳の彼女なのかも知れなかった。


              第八話 終わり。


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