第五話 【後編】 アーテル村 コアラファミリー
あれから何年たったのだろう。
ウィリアムはふとそんな事を思った。
長い長い大学生活が終わり、ウィリアムは引っ越しの時を迎えていた。
父からは「結婚式では…」とアドバイスを
うるさいほど聞かされた。
母からは、すっかり祖父母との仲が良い方向へ変わり、「おじいちゃんとおばあちゃんに報告しなきゃ」と朝から騒いでいる。
「写真も送らなきゃいけないのよ、良い顔で写ってね!」
「父さん、母さん、まだ結婚式は先の話だよ。あと一ヵ月もある!今日は引っ越しするだけだ」
「全く、大学なんてさっさと辞めちまえば良かったんだ、早く結婚して働いて、クロエを養ってやれば良かったんだ」
「そうよ、ウィリアム、女の子に苦労させちゃだめよ」
「大学はちゃんと卒業したかったし、ケジメを付けたかったし、クロエとの約束だから」
「で、クロエはどこに?」
「新居に向かっていると思う…」
「ウィリアム、何してるの?女の子を待たせちゃだめよ」
「父さん、母さん、じゃ、元気でね」
「あぁ、必ず遊びに行く」
「ウィリアムもね、体に気を付けて、あっクロエにお土産持った?アーテル国から届いたおせんべい!」
「全て大丈夫だよ、じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
「ウィリアム、ママはいつまでもここで、待ってるからね、いつでも帰ってきなさい!じゃあ、いってらっしゃい!」
父と母に見送られ、ウィリアムはやっと旅立つことが出来た。
二人で住む新居は、二人が今まで暮らしていた地域の真ん中辺りに見つけた。
そこで家族として暮らしていく。
ウィリアムは先生になれる事となった。
就職先は新居の近くの小学校だ。
全て済んだら、ようやく二人は結婚式をする。
その二人の姿は、祖父母にも見てもらいたいが、無理がある。
村長の息子は来てくれると思うが、祖父母が結婚式に出席出来ないのは、そこだけ心残りとなりそうだ。
でも、母が言っていた通り、写真やらビデオやらを用意すると言っていた。
それを見てもらうしかないが、いつかは家族となった二人の姿を見てもらいたいと、思っていた。
結婚の生活は、上手く行っている。仕事も順調だった。
しかし、いつからかウィリアムのクラスの子が、学校に来なくなってしまった。
学校に来たとしても、どこか元気がない。
話しかけても「ほっといて」と言われ、戸惑っていた。
そのうちその子は、完全に来なくなってしまった。
今までは休みながらも、来ていたのだが、それもなくひっそりと消えたかのように。
周りに聞いてみたが、情報は掴めずに、非常に困った。
何かあるなら、自分に話して欲しかった。力になれるなら、全力で力になれたのにと、後悔し、もっとあの時話かけていれば…と思った事もある。
しかし、時すでに遅し。子供は短い命に生涯を終え、この世から居なくなっていた。
いなくなった理由としては、家庭環境と学校での事が原因だったと、後から分かった。
しかしそれは、ウィリアムにとっては、全く知らない事実で、気付くことも出来なかった。
その事実を知り、とても悔やんだ。
教師として、子供達と接していたはずなのに、楽しく過ごしていたはずなのに。
“なんてことだ、なぜ、何も出来なかった、なぜ何も知らずに生きてこれた。どこかで見落とさずにちゃんと見てれば、こんな事起きなかったかも知れないのに。
念願の教師になったはずだ、なのになぜ、こうなってしまったんだ…。
ウィリアムは教師としての自信を無くしてしまった。
人を救えなかった。まだ、小さな子供だったのに。
教師として失格だ、努力もせず、なにもせず…ただ死なせてしまった。
もしかしたら、自分じゃなかったら救えた命かも知れない。
他の人なら、上手くやれたかも知れない。
ダメだ、この仕事は自分には出来ない。
また、気付かないうちに、自分のせいで、子供が死ぬかもしれない。
この仕事は辞めよう。そうすれば、誰かがちゃんと、自分の代わりに仕事をこなしてくれるだろう。
その方が良いはずだ。きっとそうだ、早く気付けば良かった、そうすれば、クロエだって困らせる事にならなかった。
折角、遠距離恋愛を乗り越えて結婚したのに、大学を卒業し、引っ越して一緒に暮らし始め、結婚式をし、幸せにすると誓ったのに。
実際、事件が起きるまでは幸せだったじゃないか、なんとか学校にも顔を出してくれていた。
その時に…。
いったいどうすれば、良かったのか、何が正解だったのか、他の人はどう動くのだろう。
ウィリアムは仕事を辞め、家の中に引きこもるようになっていた。
毎日、毎日、後悔ばかりだ。
クロエも出来る限り、ウィリアムを支えようと思っていたが、あまりにも落ち込むウィリアムを見ていて、気分が落ち込み、最悪の状況である。
そんな時、電話が鳴り響き、クロエは衝撃的な一言を耳にした。
ウィリアムの父からだった。
「ウィリアムのおじいさんが亡くなったんだ」
そんな事を聞いたら、ウィリアムはさらに落ち込むだろう。
「土地は、ウィリアムの名義になった。あと、悲しいけど、祖父母の家は、おばあさんが亡くなり次第、取り壊すことにしたらしい、聞いてるか?クロエ」
聞きたくない言葉だった。
あの家が無くなるなんて…。
土地ばかり気にかけていた。
家はずっと祖父母が住むとは聞いていたが、取り壊すまでは、聞いていなかった。
「えぇ、ちゃんと聞いているわ、とても残念な言葉で、その、出来るなら聞きたくない言葉だった。いつまでもあの場所は、あのまま残る物と思っていたから。」
「家は、住む人がいなくなれば、取り壊してしまうのもしょうがない事だ。そんな決断も必要な時もある。おばあさんは電話で、ウィリアムとクロエと過ごした時間をとても懐かしそうに、喋っていたよ。忘れる事の出来ない、四人の生活だったと話してくれた。孫との時間、クロエとの時間、全て大切な宝物だと、言っていた。
おじいさんも同じ思いだと…。
時に言葉が通じず、苦労したが、それもまた良い思い出だと…。」
そこで二人共黙ってしまった。
涙は自然と流れてくるものなのか、こんな時に、悲しい感情を抱き、泣けるものなのか…。
「クロエ、ウィリアムは大丈夫そうか?君からこんな話をするのはつらいだろう、クロエ、息子を呼んできてくれないか?」
「大丈夫、私が話します、ウィリアムには、辛い事も乗り越えて欲しい。あの人は、優しすぎるのよ、全く…。なので、大丈夫です、私に任せて下さい。」
「…分かった、じゃ、頼んだぞ、クロエ」
「はい」
クロエは受話器を置いて、ウィリアムがいるであろう、二階の部屋の方を見つめた。
ピアノが弾きたいウィリアムの為に、防音室を作ったのだ。
ウィリアムは毎日、そこにいる。
ピアノを弾くわけじゃないのだが、どうしてもその部屋にいたいらしい。
食事を運んでも、手を付けない日が、何日も続いた。
そのままで過ごせるらしい。
そのくらい、ウィリアムは、精神を病んでしまっているらしい。
何とかして、せめて飲み物だけでも。と思っていた所だ。
祖父には悪いが、今の電話は、ウィリアムを救う為の電話に思えた。
祖父の事を聞けば、今まで耳を貸さなかったクロエの言葉も、嫌でも聞こえるだろう。
クロエは泣くのを止め、二階に上がり、ウィリアムの元へと歩き出した。
ドアの前まで来ると、戸を叩き、声をかけても無言だと分かっていても、大きな声を出して、ウィリアムに自分が部屋に来た事を知らせた。
相変わらず、部屋の二人掛けソファーにうなだれていた。
それは、引っ越し祝いに二人で買ったソファーだ。
クロエもこの部屋でピアノを聴けるようにと、ウィリアムが選び、購入したものだ。
結局ウィリアムの憩いの場になっているが。
そのソファーで、うなだれているウィリアムに向かって、独り言のように話しかける。
返事が無くても良い、生きてくれればそれで良いのだ。
「ウィリアム、聞いて、今、あなたのお父さんから電話が来て…、電話の内容、なんだけど、おじいさんが、あなたのおじいさんが、亡くなったそうよ」
そこでかすかに、ウィリアムは動いた。
「おばあさんはまだ生きてるけど、土地はあなたの物になったわ。それと、おばあさんが亡くなった際は、あの家は取り壊すそうよ!そのままで良いの?ウィリアム?あなたがあの家で、私に話した、教師になるって夢は?あなた話してくれて、実際教師になったじゃない?あなたすごく嬉しそうで、おじいちゃんとおばあちゃんに連絡するって真っ先に電話して、その時、喜んでもらえたって、言ってたじゃない?ねぇ、ウィリアム、そのままで良いの?おじいさんの顔やおばあさんの顔を思い出してごらんなさい。喜んでいる顔を、思い出してみなさい。それが、今のあなたの姿を見たら、彼らがどんな顔をするか、分かるでしょ?悲しい顔をするわ!また会いたい、元気でねと言われたあの日、まさか忘れてないわよね?もうおじいさんには会えないのよ?あなた、教師になった姿、見てもらいたいって…、言ってたのよ、もう、その願いは叶わないのよ」
ゆっくりとウィリアムは顔を動かして、久しぶりに、クロエの顔を見た。
口はほとんど動かないが、ウィリアムは全身の力を込めて、口を少しだけ開き、誰にも聞こえないような声で「お、じ、いちゃ…」とアーテル語で祖父を呼んだ。
「今、飲み物を持ってくるわ、喉か湧いたでしょ?」
そう言って、クロエはウィリアムに背を向け、部屋を出て言った。
ドアはあえて閉めず、そのままキッチンを目指した。
キッチンでは、飲み物を用意し、なにか飲ませた後、ご飯を食べる事が出来れば…と思ったが、急に食べるのは危険である。クロエは何か無いかと探した。
「飲み物はこれで良いとして、食べ物よね、あー、たしか、アーテル国から送られてきたっていうやつ、あれならあるわ」
クロエは食糧が入っている戸棚を開け、アーテル語で書いてある食品を手に取った。
簡単に調理出来て、量も多くなく、何より何も食べていないウィリアムにはちょうどいい物だ。
まずは、飲み物をウィリアムへ渡しに行き、クロエは再びキッチンへ戻った。
「これ、私が風邪ひいた時も食べたけど、結構食べやすくて、美味しいのよね。ウィリアムなら、間違いなく目の色を変えて食べ始めるはずよ!全く、なんで今までこの存在を忘れてたのかしら?」
そう独り言を言いながら、クロエはその食材をパッケージごと鍋に入れ、水を足して、鍋を火にかけ、鍋の中の物を暖め始めた。
アーテル国に行った時も、あまり食欲が無いとこれを出された。
あの時は祖母の手作りだったが、これはスーパーで手軽に買えるパッケージをそのまま湯煎で温めれば食べられる、というものだ。
それでクロエは、そのまま温めているのだ。
パッケージに書いてあった通りに温め、火を止めた。
器に中身を移し、少しスプーンでかき混ぜた。
薄く濁りのある白い食べ物は「おかゆ」といった物だ。
オートミールやリゾットでは、ウィリアムの心を動かせなかった。
その時、全くこの存在は忘れていた。
タイミングという奴なのだろうか、今頃この存在が出てくるとは…。
少し冷ましてから、ウィリアムの元に持っていく事にした。
ウィリアムの部屋へ、おかゆを持っていくと、飲み物を少しだけ飲んでいた。
何も飲まないより、少し飲んでくれただけでも、ありがたかった。
「回復したいのね、良い事だわ」
ウィリアムの返事はない。
「これ、アーテル国のおかゆよ」
テーブルの上に、お盆ごと乗せた。
お盆の上には、おかゆが入っている器と、スプーンがある。
ウィリアムはやはり、目の色を変えた。
これなら食べてくれそうだ。
「ウィリアム、食べて元気出して、そしたら、そしたらまた、アーテル国へ旅行に行きましょ?二人でまた会おうって約束したじゃない、おじいさんにはもう、会えなくなってしまったけど、それでも、行きましょう、あの場所へ」
そう言って、クロエは部屋を出た。
ウィリアムが、部屋を出で来れるようになったのは、祖父が亡くなったと連絡が来てから、一週間経ってからだった。
少しずつ飲み物と食べ物を食べ、体を動かすようになり精神的にも落ちついてきたらしい。
「クロエ、おはよう」
そうウィリアムが発したは、とても弱々しかったが、クロエはそんな事どうでも良かった。
「ウィリアム、おはよう」
「なんだかとても疲れてるんだ。ベッドで休んで良いか?」
「当り前じゃない、ゆっくり休みなさい」
朝、寝室に現れた彼は、すごく疲れた症状だったが、どこか回復したいという希望に満ちているように見えた。
祖父の死は、非常に悲しい事だった。そこでさらにふさぎ込んでしまうかと思ったが、なんとかそれがキッカケで立ち直ってくれそうだ。
自然と「またアーテル国へ行こう」という言葉が出た。
どんよりした空で、どこか暗い街並みを、もう一度頭の中で思い出していた。
そんな場所でも、楽しい思い出で一杯だった。
それは、ウィリアムが傍にいてくれたからだ。
そんな彼は、今、二人のベッドの上に座り、横たわった。
ふぅー、と息を吐き目をつむった。
「ひと眠りすれば、大丈夫そうね。ゆっくり休んで」
「ありがとう、クロエ」
キッチンで朝ご飯を用意した。
とりあえずは自分の分だけで良さそうだ。
コーヒーとパン、それとボイルしたウインナーとスクランブルエッグ。
そのメニューはどこか、納得できなかったが今はそのメニューを用意する事しか出来ない。
仕方なく…といった感じで、パンをトースターに入れた。
また、新たな朝がやってきたのか。
コーヒーの香りがキッチンに充満し始めると、食欲が増してくる。
あれから、ウィリアムの両親は、葬式に行ったらしい。
連絡してきたのはすでに、出かける前だった。
本来なら自分達も行けたら良かったのに、と思ったが、ウィリアムがあの状態だと、どの道行く事が出来ない。
何とか出来ないか?と思ったが、今はウィリアムの回復を待つしか出来なかった。
“せめて、消化に良い物から食べさせて、しばらく様子をみて、それから少しづつ普通の食事をさせて、体を動かしてもらって、心に潤いを与えなきゃ。”
クロエは頭の中で、やることを整理して考えた。
失ったものは戻らないが、何かまた夢中になれるものを見つけてもらわなければ…。
クロエの課題はそこにありそうだ。
何時間も眠った。
もう、数日、目が覚めないかと思ったくらいに、眠った。
ウィリアムの目が覚めたのは、夕方近くだった。
正直まだ眠いのだが、ウィリアムは体を起こした。
部屋を出て、トイレを済まし一階へ降りた。
階段を降りたら、おじいちゃんとおばあちゃんの声が聞こえる気がする。
「ういりあむ、おはよう」
「あら、起きたの?今、朝ご飯用意するわね」
そんな言葉が聞けそうだと思ったが、リビングに入っても、その言葉は聞こえて来なかった。
心にズシンッといった感じの重みが襲っていた。
失った物はとても大きかった。
「そっか、ここはアーテル国じゃないのか。おじいちゃんとおばあちゃんに、会いたい」
そう言うだけで、精一杯だった。
「ここは、私とあなたの家よ」
どこからか、クロエの声がした。
「一旦、母国へ帰ってきて、私達は離れ離れになった、それでも愛を育んで、大学卒業してこの地へ来て結婚した」
「クロエ…」
「すまない、という言葉は禁止よ。よく眠れた?ウィリアム」
その言葉はダイニングの方から聞こえてきた。
ウィリアムはダイニングの方へ、ゆっくりと歩いていく。
「クロエ、おじいちゃんとおばあちゃんに会いたいんだ」
「私もよ、今すぐに」
ふと、何かがウィリアムの目を奪った。
ダイニングテーブルに何か、雑誌のようなものが置いてあった。
クロエはダイニングの椅子に座り、ウィリアムを見つめている。
「その雑誌は、どうしたんだ?」
「別に、本屋に行ったら置いてあったから、買っただけよ」
「良く見せてくれ」
言ってすぐに、ウィリアムはダイニングテーブルの上にある雑誌を取って、そのページを見つめた。
「素晴らしい、真っ白なグランドピアノだ」
まだ、疲れが残っている目で、ウィリアムはそれを見つめた。
価格はとんでもない値段だ。
「とても素晴らしい。良いな。こういうのを思い切って弾きたい」
「いつか、叶うと良いわね、といっても今はさすがに無理だけど」
「そうだな、いつか、このピアノを弾きたい」
「で、おじいちゃんとおばあちゃんがどうしたの?」
ウィリアムはそんな事を忘れたかのように、その雑誌を見つめ続けた。
頭の中では、さも自分が手に入れたように、弾いている。
雨の中、ただただピアノを弾いている自分。
それは、いつかの自分と重なった。
「ウィリアム、話があるの」
それは母の声だった。
「実は、あなたに隠していたことがあって、その、あなたのおじいさんとおばあさんの事なんだけど」
その言葉は、あの時のウィリアムにとって、ものすごい衝撃だった。
とても悩んだ。
見知らぬ土地、顔も名前も知らない祖父母の存在。
あの時、彼は初めて、母方の祖父母の存在と、アーテル国という国の存在を知る事となった。
そして、実際のアーテル国に、一歩足を踏み入れた自分、祖父母と初めて会った時の思い。
それからの自分と、クロエと出会ったあの日。
「クロエ、おじいちゃんが待ってる!アーテル国へ行こう」
「えぇ、いつかね、あなたがもっと元気になったらね、旅行でもなんでも行きましょう」
「違う、住むんだよ。あの土地に、あの家に!僕たちはあの国で、あの家で、ずっと一緒だったじゃないか、四人で暮らしてたあの家で暮らそう」
「ちょっと待って、この家はどうするの?」
「あぁ、そうか。やっと手に入れたのに、もったいないな」
「それと、お金!そんなお金ないわよ」
「それもそうか、あー、こんな真っ白なグランドピアノ買えるくらいの大金が手に入ったら良いのに。」
まだ、疲れは残り、本調子じゃないというのに、大好きなピアノを目にして、元気が戻ってきたように見えたが、やはり直ぐには無理なようだ。ウィリアムは、リビングに戻り、そのままソファーの上にドスンと座り込んだ。
「ほら、気を付けなさい、全く…」
「だって、おじいちゃんとおばあちゃんに会いたいんだ。後悔が無い様に、会って一杯話をして、
沢山笑って、知らなかった世界を見たいんだ。
教師になるのも僕の夢だったけど、色んな世界を見たいんだ。知らない土地に行って、色んな人に会いたいんだ、世界を旅したいんだ、大学生の時のもう一つの僕の夢だ」
「あら、そんな事考えてたのね」
「クロエは?君はどんなこと考えてた?」
「私は、植物とかの事しか、頭になかったわ、後は結婚して子供を産むとか…」
「…君らしいな」
「で、ウィリアムはどうしたいの?」
「だから、あの土地に行かなきゃ、後悔しないように」
「もう、一回は行けたじゃない、おじいちゃんとおばちゃんと、二人で過ごした、楽しそうだったわよ、毎日」
「あぁ、楽しかったさ、途中からクロエもいて、四人で。だからこそ、あの土地に戻りたいんだ」
「そうね、でも、よく考えてから行動してね」
「分かってる、分かってるけど…」
「まずは、少し消化の良い物を食べて、ちゃんとしたベットで眠って、元気になるのよ」
「わかった、おかゆ…」
「鮭、梅干し、たまご…プレーン」
「梅干し」
「あなたの舌は、お母さん譲りね、私はどうしても無理だった」
「親子だからね」
ぐったりしながらも、喋るウィリアムを見て、困った顔のまま、話を聞いていたクロエだったが、正直安心出来た。
ウィリアムの回復は、もう目に見えている。
今は心と体のバランスがおかしいようだが、時期に落ち着いてくるだろう。
一息ついてから、クロエはキッチンに向かった。
それからというもの、ウィリアムは、毎日その雑誌の「真っ白なグランドピアノ」のページを開いて、見つめていた。
なんか無いかと、新聞を開いた時、とある記事がウィリアムの目に留まった。
【ケン&ジェフ 高額の宝くじに当選!二人はそのお金でジャズを始める!】と書いてある。
ウィリアムは一瞬、これだ!と思ったが、高額当選するなんて夢のまた夢といった感じだ。
クロエからも「よく見て、当選者の確立や、二人の経緯、彼らは今まで苦労してきた、だからその確率に当てはまる事が出来たのよ」と言われた。
確かに新聞の記事では「二人は、幼い時から苦労してきて、ジャズを始めるのにも、何個もの問題を潜り抜けてきた。」と書いてあった。
「そう上手く行くなんてないよな」とは、言ったものの、やはり気になってクロエに内緒で、宝くじを買ってきてみたが、当選すらしなかった。
一方クロエは、ウィリアムに何か“新しい挑戦を”と考えていた。
そんな時、クロエの友人から「アーテル語を教えて欲しい」と頼まれた。
理由は、クロエが楽しそうに留学の時の事を話していたので、自分も興味が湧いた、という事だった。
「それなら私より、ウィリアムやウィリアムのお母さんに教わった方が良い。」と言い、ならば、ウィリアムを紹介してくれ。と頼まれた。
ウィリアムだって、まだまだ、人に会うほど回復してなければ、言葉をしっかり話せるわけではない。
事情を説明したうえで、ウィリアムのお母さんに頼む事となった。
ウィリアムのお母さんに連絡すると、快く引き受けてくれた。
さらに、アーテル国についても、それなりに教えてくれる、との事で、友人はすごく喜んでいた。
その場所に行く前に、事前に情報を掴んでおくのは大事な事、と考えているクロエも、嬉しい話だった。
その話はウィリアムにとっても、もしかしたら良いかも知れない。
今は無理でも、いつかちゃんと回復したら、個人レッスンといった感じで、人に何かを教える、というのは、彼の長所を生かした仕事である、とクロエも思っている。
だからこそ、教師という仕事は、辞めて欲しくなかった。
しかし、ようやく夢を叶えた矢先、自分が持ったクラスで大きな問題が発生した。というのは、誰だって精神的に大きなショックを受けるだろう。
よほどの事が無い限り、立ち上がるのは時間がかかる。
あの優しいウィリアムの事だ。自分を責め続けてしまうのは、どうしてもしょうがない。
しかし、あの事件では、ウィリアムが悪いわけではない。
子供の周りの人間に信頼できる大人や友達がいなかった。
誰も味方がいない中で、幼い子が上手く生きられるわけがない。
ウィリアムにさえ警戒して心を開けなかったのだ。
SOSを発信させても、人はそこまで察する能力があるわけではない。
何かアクションを起こしてくれれば、良かったのだが…その子の周りの人間関係では無理だろう。
心のどこかで、ウィリアムも分かっていたのかも知れない。
けどそれは、ウィリアム自身の問題で、クロエがどうこう出来る事ではない。
冷静に判断するのはとても難しい。
可能なら、そこまで落ち込まず、回復も早かっただろう。
それが出来なかったから、あの日までウィリアムは、あの場所で引きこもっていたのだ。
悲しい事ではあるが、彼の祖父の死によって、目が覚めたようだ。
そこから回復中の今、ピアノを買いたいようで、いつも雑誌を見ている。
雑誌をみては、なにか大金を手に入れる方法が無いかとさがしている。
そんな方法は無いと分かっていると思うが、今の状態ではそんな奇跡にすがりつきたいほど、彼の頭は「真っ白なグランドピアノ」なのだろう。
クロエだってなんとかしてあげたいと、思っている。
しかし今は、生活を立て直す方が先で、それどころじゃない。
クロエは毎日、良いアイデアが浮かばないかと、考えているが、それが簡単にいくわけがない。
“何とかしなければ”
クロエは次第に焦り始めた。
夫婦といっても、上手く回らなくなると、こんなにも悪い方向へ転がり込むのだろうか?
ウィリアムはいつも「ピアノが、大金が」とうるさいし、クロエは「まずは生活が大事。心と体を回復させなさい」と、一日に何回も同じ言葉を言った。
気が狂いそうだった。
折角、立ち直ろうとしてくれているのに、一言目には「ピアノ」二言目には「大金」ばかりだ。
なんとかならないか?と思っていた矢先、とある人物からの連絡が来た。
それはアーテル国にいる、アーテル村の村長さんの息子からの手紙だった。
内容は、祖母の事と土地の話だ。
土地と祖母の事は、村長一家にお世話になっている。
それでその報告をしてくれたらしい。
ウィリアムにも手紙が来た事を報告し、祖母と土地の事を書いてある。と説明した。
ピアノの事以外で、ウィリアムと話すのは、久しぶりな気がした。
祖父が亡くなったのは、理解しているように見えるが、会わない為、まだ生きている感覚に陥っているらしい。
祖父が亡くなって直ぐの頃、会いたいと言っていたのを、クロエはずっと覚えていて、いつかはアーテル国へ再び連れてってあげたいと思っていた。
しかし、同時にピアノに目を奪われ、ピアノの事しか言わなかった為、忘れているのでは?と思っていたが、忘れてはいなかったようだ。
「亡骸に会う事も叶わず、サヨナラも言えなかった。母さんたちは会ってサヨナラも言ったと言ってたのに、後悔しないようにって、思ってたのに、ダメな孫だ」と結構冷静に話をしだした。
「会いたいっていう願い、叶えたじゃない」
「それでも、またクロエと一緒に会いに行きたかった」
「そうね、四人で再開したかったわね」
「自分がもう少し近くに。イヤ、あのままあの土地を継いでいれば、おじいちゃんの最後をみとれたのに」
「私は、その判断はしないと思うわ。やっぱり、その、教師になって良かったのよ、辛い終わり方だったけど」
「…教師の仕事は嫌いじゃない。救えなかったのが悲しくってショックだったんだ。」
「じゃあ、その救えなかった気持ちを、どうにかするしかないわね」
その言葉には、クロエ自身が驚いてしまった。
「その、無理な事はしないで。けど、なにかあるはずよ」
「分かっている、充分考えさせられた。」
「ウィリアム?」
「クロエごめん、僕はやっぱり、あの土地に戻りたい」
「だから」
「分かっている、まずは生活が大事だって、ピアノも欲しいさ、だけど、あの場所へ戻りたいんだ」
「過去へは戻れないわよ」
「おばあちゃんの家だけは、手放したくないんだ。手放したら、母さんの思い出も、僕たちの思い出も、おじいちゃんの面影も、全て消えちゃいそうで嫌なんだ。ここでの生活が苦しいなら、思い切ってアーテル国へ行かないか?これが最後のチャンスだと、僕は思う」
「とんでもない事を言い出したわね」
「だから、クロエ…ごめん、僕一人でもアーテル国へ行くよ」
「この家は?今ここにある家財道具はどうするの?行くためのお金は?」
「僕の土地を一個売るよ」
「それだけでまかなえるの?」
「仕事もするよ、向こうで見つける。」
「あなたや私の両親の事はどうするの?」
「それは、その…」
「もう少し、冷静に考えた方が良さそうね」
これを機に、夫婦仲は破綻しそうになってしまった。
クロエはもうダメだ、と思ってしまう。
修復は不可能かも知れない。
クロエは一旦、自分の実家へ連絡し、帰宅することにした。
ウィリアムを支えるのに、限界が来てしまった。
“こんな形で夫婦は終わるのか。”と思うと、随分あっけなく感じた。
でも、これで良いように思える。
クロエは離婚に向けて、動くことにした。
クロエが実家に帰ってしまったが、ウィリアムは自分の事しか考えられなかった。
なんとかしてアーテル国へ行くお金を作らなければ!と思い、情報を集める事にした。
学生の時なら、留学という手があったが、今は働かなければならない。
まだ、傷が完全に治った訳じゃなく、どこかまだ対人関係は難しい。
友人に会うのも今は避けたい。
そんな自分に、仕事なんて出来るのだろうか。
ウィリアムはふと、テーブルの上に置いてある手紙に目を通した。
村長の息子さんには、本当にお世話になりっぱなしで、なにも恩返しが出来ていない。
今の祖母の様子は、何とか外に出たり、畑の世話をしたりしている。ショックが大きすぎて、心配だったが、少しづつ現実を受け入れ、顔色も良くなっている、と書いてある。
長年連れ添った夫を亡くし、憔悴しきっていた。と聞いてた為、この事については、少し安堵した。
土地は田んぼを売り払い、そのお金は祖母が受け取った、と書いてあった。
畑はまだ祖母が、管理したいと言っている為、残してある。
その他小さな土地に関しては、村長一家が名義も含め管理している。と書いてある。
ウィリアムの名義の土地もちゃんと残っている、と書いてあった。
祖父はそれなりに大きな地主だったらしい。
元はアーテル国の隣の国の人だったららしいが、戦争でこの地に来て、その後、祖母を連れてきて結婚。
その時のごたごたから、祖父の土地になったらしく、それで地主として土地を管理していたらしい。
アーテル国自体、最初の始まりは、別の国から逃れてきた者たちの移住地、として始まったらしく、それが、噂が噂を呼んで、今の国の形になったらしい。
さらに国王政権になり、新たな土地が開発され、今も変化を続けているらしい。
大陸の最果ての地にあるアーテル国は、どこか影があるような人が、多いのはそのせいではないか?
異国から何とか逃れ着いた訳アリの者達。という人が多いのでは?とも手紙には書いてあった。
クロエはそこまで説明してくれなかった。
何か理由があったのか、それともそこを見落としたとか、説明を省いても大丈夫だと、勝手に判断したのか…。
聞き出したくても聞くことは簡単には出来なくなってしまったが、今はその事よりも祖父は移住者だった事に驚いた。
アーテル国の事について、さらに知りたくなってしまった。
ウィリアムは、アーテル国にいる今回の手紙の送り主に、今の現状と返事を書いた。
感謝の言葉も付け加え、今自分がどうしたいか、という気持ちも素直に書いた。
後は、彼の返事を待つだけだ。
かなり時間はかかったが、返事がアーテル国から来た。
やはり『無謀だ、止めた方が良い。』とは書いてあったが、こちらに来るなら、仕事は用意する、と書いてあった。
資金は、悪いが自分で何とかしてくれ、そこまでは手を貸せない。と書いてあった。
それは当たり前だ。仕事を紹介してくれるなら、それだけでありがたい。
後は、アーテル国へ行く為の資金作りだ。
ウィリアムは、自分はどんな事が出来るのか考えた。
人に物を教えたりするのは、上手いと言われる。
ただし、今はその仕事はしたくない。
後は…。
ふと前に見た新聞の記事が、頭に浮かんできた。
『ケン&ジェフ』
違う
『高額宝くじ当選』
これも違う
『二人は念願だった、ジャズの世界へ』
これだ!
ジャズ!
ウィリアムはピアノが好きで、得意である。
ジャズの世界へ行かなくても、ピアノが弾ければ良いじゃないか!
そう思いついたら、急にいてもたってもいられなくなった。
ピアノが弾ける場所…ジャズバー!
ジャズじゃなくても、なにかこう何でも良いんだ。
とにかくピアノだ!
求人情報を手に入れるために、家を飛び出してしまった。
恰好なんてどうでも良い!まずは情報だ!
と、久々に外に出たウィリアムは、求人情報が手に入る所へ急いだ。
職業安定所に到着したウィリアムは、情報が載っている所を探した。
思えばこんな所、初めて来た。
ここに、この建物があったのは知っていたが、教師になる為には、ここで探すことはない。
今回、初めて来たが、右も左も分からない。
とりあえず案内板を探し、その案内に従って進むことにした。
キョロキョロと辺りを見渡してしまう。
皆の様子を見ていると、生きるのに必死といった感じの人もいれば暇だからとりあえず来ている、といった感じの人までいて、実に様々な人が来ていた。
案内板に書いてあった目的地に着いたようで、ウィリアムは自分のしたい仕事があるのか、そこで探すことにした。
掲示板と書いてある所を見ていると、女性に話しかけられた。
女性の質問に答えていき、女性に案内されて、とある場所で座らされた。
対面で座り、女性はあれやこれやと資料を出してきた。
記入するべきところがあれば、記入させられ、訳が分からないまま女性との話は終わった。
家に帰り、クロエに報告しようと思ったが、今、家にはクロエがいない事を思い出して歩みが止まった。
自分のせいでクロエは今、実家へ帰っている。
本当なら二人でアーテル国へ行くのが理想的だったが、今の自分はクロエを幸せには出来ないのは良く分かっている。
「今はとにかく回復して」というクロエの言葉が頭の中でグルグルとめぐっている。
クロエがどんな結果を叩きつけてこようとも、今のウィリアムには、従うしかなかった。
『手に職』というのは、職に就くのに有利とは、聞いた事があるが、確かに有利だった。
『臨時 ピアノ講師、臨時 音楽教師』など、教育関連の仕事、バーの仕事など、それなりに紹介された。
「教師をしていたいなら」という、ごく当たり前の言葉もついてきたが。
「教師の仕事に戻る気はない。」とだけ伝え、バーの仕事を選んだ。
対面などの仕事はしたくない。
仕事をする以上、人と接するがそれは仕事と割り切って出来るはず。
とにかく、あまり人と接点を持たずにピアノが弾ければ良い。ウィリアムはそう考えていた。
直ぐに仕事をして、お金を貯めて、アーテル国へ向かいたい。
ウィリアムの頭の中は、それ以外考えられなかった。
ウィリアムは、見た目を整えて、それなりに良い服を着て出かけた。
バーで働くことが決まり、今日はその初日だ。
親から援助してもらい、食事には困らないようにしてもらった。
家の生活費はクロエが出してくれていた。
教師になった時は、自分の稼ぎで払っていたが、教師を辞めてからは、クロエがパートに出て生活を支えてくれていた。
それでもまかなえない時は、お互いの両親に助けてもらっていた。
クロエをはじめとし、両親と義両親には、頭が上がらないくらい、助けてもらっていた。
その結果がこれで、クロエやクロエの両親は、情けない男だと思われているだろう。
自分の両親からも色々言われたが、見捨てはしない、またしっかりと立ち上がれるまで、見守ってやる、と言われた。
これまでに両親とは、色んな事があった。
自分が生きる上で、時に優しく時に厳しく、つねにウィリアムの事を考えていてくれた。
両親の事は、悲しませたくないと思っていたが、今の状況は、見守るとは言ってくれたが、内心ショックを受けているだろう。
母も母で、「自分が」と自分を責めていた。
この先、どんなことがあろうとも、これ以上お先真っ暗な状態は、作りだしてはいけない。
ウィリアムは事の成功を祈った。
結局、ピアノを弾くのは、やはり自分に合っていた。
バーという場所は、自分には合わなかったが、ピアノの腕を見込まれて、当初の予定より少しだけ長く働いた。
クロエからの連絡はない。いよいよアーテル国へ旅立てるだけのお金が溜まり、ウィリアムは一応、家はそのままにして、両親にアーテル国へ行く、期間は分からない。とだけ伝えて旅立つ事にした。
あの時も長旅だったが、今回もやたら長く感じた。
いよいよウィリアムは、念願の二度目のアーテル国へ、足を踏み入れた。
お迎えには村長の息子…と言っても今はもう、村長の仕事を継いだらしい彼が車で迎えに来てくれた。
街並みは相変わらずのように見える。
これでも所々変わったんだ。とは、隣の運転手は言っていた。
懐かしい場所を車の窓から見ていると、大学生だった自分に戻ってしまいそうだ。
「あれからクロエからの連絡は?」
「無いよ、一応両親には、クロエから連絡があったら、こちらに来ている、と伝えてくれとは頼んである。」
「そうか」
「もしかして君には連絡あるとか?」
「いや、無いよ。心配して連絡、手紙だけど書いたんだが、その手紙は戻ってきた」
「住所が変わったのかな」
「いや、本人が、または親御さんが、送り返して来たんだろう」
「そうか、クロエ…」
「まぁ、とりあえずそう、あー、クロエの事はほおっておく事しか出来ないだろう。ウィリアムのおばあさん、首を長―くして待ってるぞ、事情は説明してある」
「そうか、早く会いたいな、おじいちゃんにも」
車はどんどんと田舎町に入って行った。
【アーテル村】という看板を見て、ウィリアムは心が躍るような気持ちになった。
いよいよ再会出来ると思うと、とても嬉しかったが、クロエがいない事が、ただただ寂しく悲しかった。
一方、クロエの方は、離婚の意思がようやく固まった。
離婚しようと実家に帰り、母に事情を説明すると、「突拍子で決めてきたんじゃないか?」とか、「もう少し考えてから決めた方が良い」とか、「まだ回復してないのに、ほっぽといて、自殺でもされたらどうするのか」と、散々言われた。
「後悔してからじゃ遅いよ、もう一度よく考えなさい。」の言葉で、もう一度よく考えたが、心配してるのかしてないのか、連絡もよこさないウィリアムに、とうとう愛想が尽きた。
待っている間が無駄だった。
そう思った時、全てが崩れ落ちた。
あの時はまだ、欠片だけが残っていたのだろう。
でも今は、その欠片は粉々に砕け、塵のような物になってしまった。
ウィリアムに意思を伝えようと思い、家にいるだろうと思ったが、電話は通じない様になっていた。
空いている時間に家に行ったが、人がいる気配が無かった。
“無駄足だったか”と思い、クロエは実家に帰り、再び空いている時間に、今度はウィリアムの実家に電話をかけたが、ウィリアムは不在と言われてしまった。
いつ帰宅するか?と聞いたら、分からないと言われてしまった。離婚に向けて話し合いたい、と告げると、ウィリアムは現在、この国にはいない、アーテル国へ行った。と言われた。
いつから?と声を荒げると、ほんの数日前、と返ってきた。
どうして?お金は?と聞くと、自分で働いて稼いで、お金が溜まったから。と言われた。
頭が真っ白になってしまった。
“働いてお金を稼いで、お金を貯めた?”
もうそんな事、出来てたの?という思いと同時に、そこまでしてアーテル国へ行きたかったのかと、ウィリアムの気持ちに気付いた。
ウィリアムの両親から、家はそのままにしてある、と言われたが、その家に戻る気にはならなかった。
クロエは電話を切り、放心状態のままそこで立っていた。
離婚は、このままだと出来そうにない。
そんな言葉が、頭の中で大きな声のように響いた。
クロエが離婚しようとしている、とは知らずに、ウィリアムはアーテル国で、祖母と一緒に過ごしていた。
こっちに来て数日。
移動に一日を費やし、翌日は疲れて祖母宅で休んでいた。
ようやく動けそうだったので、今日は村長になった彼の車で、墓参りをする事になった。
午後から動こうというので、ウィリアムは午前中一杯、母の部屋で休んでいた。
何年も前、ここで寝ていた時の事を思い出す。
クロエとの思い出もあるが、今は封印しておく事にした。
やはりこの部屋は、なんだか落ち着く。
母のぬくもりを感じられる部屋だ。
ウィリアムはそんな部屋で、たっぷりと睡眠を取った。
午後、お昼後になってようやく居間へ行き、祖母が作ってくれたご飯を食べた。
とても懐かしい風景だ。ご飯の後はテレビ。
相変わらずすべての言葉が理解できるわけではないが、学生の頃に初めて来た時よりは、分かるようになっていた。
何もかも全てが懐かしい。
ただ、別の部屋で祖父の顔写真が飾ってある以外は、あの時のままだ。
ウィリアムは思わず、「おじいちゃん、帰ってきたよ」とアーテル語で喋ってみたが、返事は無かった。
大学生の時、初めて会った祖父。
ウィリアムはそれまで祖父の事を知らなかった。
もちろん祖母の事もだが。
もう少し、せめて子供の頃から知っていれば、もっと思い出もあったかも知れなかったのに。
突然知らされた祖父母、ようやく会えたのに、祖父との別れが、こんなに早く来るなんて…。
「おじいちゃん、もっと喋りたかった」
午後といっても夕方になってしまったが、ウィリアム達は祖父のお墓へ来て、手を合わせた。
祖母が手を合わせて故人を想えば、必ず天にいる本人へ届くと言ったので、ウィリアムは言われた通りにした。
その後、夕飯は村長宅で食べる事となった。
村長宅ではごちそうが待っている、という事だった。
ウィリアムはこの国の言葉で「ごちそう」がとても好きな言葉だった。
ある程度喋れるようになったとはいえ、忘れている部分もある。
ウィリアムは、再び言葉を教えてくれないかと頼むと、その事なんだが…と言われた。
どうやら、ウィリアムのこちらでの仕事は、外国語教室を開いて欲しいらしい。
しかし、直ぐにという訳ではなく、ちゃんとした準備が整ったら、との事だった。
ウィリアムもまだその仕事は受けれないと思ったが、まだ先の話と聞いて安心した。
言葉も再び覚えなくてはいけないし、ウィリアムが元気になる事が条件と言われた。
しっかり静養して元気出してくれと励まされ、ウィリアムは分かったと答えた。
それまでどうする?と聞かれたウィリアムは、ピアノを弾きたい、欲しいピアノがあるんだ。いつか手に入れたいと言うと、分かった、ピアノを弾ける仕事ね、と言われ、その会話は終わった。
ウィリアムはピアノも諦めてはいなかった。
欲しいのは真っ白なグランドピアノだ。
一台しか無いという訳ではなさそうだし、そのピアノを購入できるお金が手に入れば、それが手に入るのだ。
といってもだいぶ高額だが…。
それこそ宝くじの高額当選でもしないと無理だろう。
ウィリアムは新たな目標を胸に、希望を見出していた。
数日後
隣町であるヴィオラ町で、“ピアノを弾ける人を探している”との情報が入った。
しかしそれは、学校の先生という話で、ウィリアムは断った。
他に無いかと聞くと、ピアノが弾ける以外、どんな感じの職業が希望かと聞かれ、今まではバーのピアノを弾いていた、と答えた。
それなら、通勤時間や通勤するためのバス代など交通費がかかるが、市街地の方へ働きに行ったらどうか?その方が、バーとかスナックとか沢山あるのでは?と言われ、検討してみると答えた。
とは言ったものの、市街地といえば、ヴィオラ町の先で、空港がある場所だ。
ルージュ市と書いてあった市は、なんだかピンと来なかった。
遊びに行くなら良いのかも知れないが、仕事となると交通費がかかるのが不安だった。
言葉もイマイチなウィリアムにとって、知らない場所はあまり行きたくなかった。
祖母に仕事はどうするの?と聞かれ、今は考え中と言っておく。
「焦らずゆっくり探しなさい。そうしないと上手く働けないわよ」と言ってくれる祖母の言葉がとても暖かく感じた。
焦りはある。
別にもう一度、教師をやっても良いのだが、言葉の壁や、事件が起きた時の事を思い出してしまいそうで、とてもじゃないが、それは恐怖の場所に足を突っ込むような感覚だ。
冷静にはいられないし、仕事なんて出来ないだろう。
やるにしても、忘れた頃にやりたい。
今はとにかくピアノが弾ける仕事で満足だ。
言葉を喋らなくても良い。ただピアノを弾いているだけで良いなら、今のウィリアムには上等の条件だ。
なかなか仕事が見つからないまま、二週間がたってしまった。
祖母の手伝いは毎日しているが、それだけで一切お金は溜まらない。
まぁ当たり前だが。
ウィリアムは途方に暮れていた。
このままじゃダメなのはわかっている。
しかし、これだ!といった仕事の依頼は無かった。
祖母からは作曲家にでもなったらどうだ?と言われ始めた。
作曲の才能があるなら、とっくにやっていると答えた。
村長から、うちに手紙が届いて、クロエからと告げられたのは、作曲家になる方法を、考えていた時だった。
「離婚」という言葉が、ウィリアムの心に刺さった。
裁判やらなにやら、しなくてはならない。
村長に「離婚届とか届かないのか?」と聞かれたが、首を傾げた。
向こうの国ではそんなもの無い、と説明した。
どうやらアーテル国と海外では、離婚の方法が多少違うらしい。
村長に聞いたところ、ウィリアムの母国より、簡単に離婚出来るようだ。
裁判もあるみたいだが、離婚届に署名し、判を押して終了、というシステムらしい。
「で、クロエの話に戻るけど、クロエもお金貯めてこちらへ来るらしい。その時は泊めてくれないか?と頼まれたよ」
「ほかに何か書いてあったか?」
「いや、別に」
「そうか」
「まぁ、うちはかまわないけど、それで大丈夫か?」
「あぁ、頼むよ」
「それなら、うちでオッケー、ウィリアムにも会えると、返事を書いて送るよ」
「分かった」
ウィリアムは、とうとうクロエから連絡が来たか。
『離婚』という事は、母国へ戻って裁判か…やっとここへきて、新しい仕事も見つけようと思っているのに。
なんともタイミングが悪い。
しかしクロエも限界が来てしまったのだろう。
でも、それにしても…と、どうしても考えてしまう。
とりあえず今は、ピアノの為、なにか仕事を見つけなければ。
村長から再び連絡が来て、仕事の依頼と言われた。
隣町でピアノを弾ける人を探している、との情報を聞き、それをウィリアムに教えようと、相手に会って、話を聞き、内容によっては紹介したい人がいる。と言って、仕事内容を聞き出したところ、ピアノ喫茶という店を開きたいらしい。それでピアノを弾ける人を募集中らしい。
新事業の為、給料も安いし交通費も出ない為、ピアノを弾きたい。という人が現れた所で、こんな給料で仕事なんて出来るか!と断れ続けたらしい。
それで困っているとの事で、この仕事はウィリアムにとってはどうなのか聞きたい、との事だった。
場所は隣町といっても、そこまで遠くない。
まぁ、バスは乗るだろうが、歩いても行ける距離だ。
事業が上手くいぅたら、バス代くらいは出せる。と言っていたそうだが、期待しないでくれと言われているらしい。
それなら自分にも出来そうだ。お金は…正直期待できないが、ボランティアだと思ってすれば、まだ良い方かもしれない。
ウィリアムはその仕事を受けても良い、その人に会いたいと伝え、ならば後日、三人で会おう。という事に決まった。
人手不足という事と、ピアノの腕前を聴いてもらってから、即採用となった。
給料はホントに安いが、昼間に働けるし、それなりに喫茶店メニューで良ければ、まかないを出す、と言われた。
それはありがたかった。
祖母の負担にあまりならないようにしたいと思っている。
少しでも稼いで家計の足しにして、あまりはピアノの為に貯めようと考えている。
それほど高額な給料ではないが、そのくらいならやりくりできるだろう。
本当にギリギリで、少額な貯金にしかならないが。
明日から来てくれ、と言われ、ウィリアムは村長と一緒に帰った。
村長から、「とりあえず良かったな」と言われ、ウィリアムはうなずいた。
クロエの方も気になるが、仕事を見つけられたのは、大きな進歩だった。
バーの時もそうだが、ピアノは癒しを与えてくれる。
弾く自分も、聞く相手も、心の傷を癒してくれる。
元々ピアノは好きで良く弾いていた。
なにかあると必ずピアノを弾き、精神を整えてきた。
ウィリアムとピアノは切っても切れない物ようだ。
「後は、クロエか…クロエも色々と悩んで、結局こっちへ来ることにしたんだな」
「離婚について話に来るくらいには、な」
「ところで、ウィリアムはどう思っているんだ?離婚と言われて、動揺したり、色々考えたりしないのか?」
「そりゃ、考えるけど、けど、もうクロエには、あまり苦労かけたくないというか、クロエの意思に従おうと思ってる」
「でも、本当にこれで良いのか?」
「離婚だと裁判だから母国へ帰らないといけないけど、それだけが苦痛だな」
「金もかかるしな」
「それだけじゃない、今はこの国に居たいんだ」
「気に入ったか?」
「予想外に」
「それだと、離れがたいな。せっかくまた来てくれたのに」
「全くだ」
翌日からウィリアムは、言われた通りの時間に、店を訪れた。
ピアノを弾いてくれる人だけが、不在だったらしく、店、従業員は完ぺきだった。
店長だという男は、他の従業員にも、ウィリアムを紹介し、それぞれの従業員も自己紹介して、店は開店準備を始める事となった。
客が入るのか不安だと、従業員は話していた。
この国で外国みたいな店でやっていけるのか?とも話していた。
これから外国出身者は、増える可能性が高い、と話す者もいた。
ウィリアムは誰とも話さず、ただ、言われた仕事をこなした。
誰かと話すのは正直まだ怖い。
でも話さなくて良いなら、欲しい物の為に仕事は頑張りたい。
そう思い、ずっと過去を振り返らない様に、蓋をして生きてきた。
思い出してしまうと、また暗闇に戻ってしまいそうで怖かった。
祖父の死がキッカケで、自分の意識は変わった。
死ぬ前にもう一度会いたかった。
そんな気持ちが出てきてから、暗闇を抜け出す事になった。
想いは叶わなかったが、手を合わせる事は出来た。
そこから結構、気持ちがスッキリしてきている。
ここは、どんよりした天気のアーテル国という国だが、心の傷を持ったものが集まる、と聞いた時がある。
その時は、不思議だなとしか思わなかったが、なるほど、いざ自分の心に傷が出来てしまうと、ようやく分かってきた。
この場所は、心の闇を持つ者が惹かれる要素は沢山あるようだ。
暗い空のした、日々モヤモヤしている天気。
無理に頑張らなくて良い様に思える。
変に天気が良く、陽気な雰囲気の獣人ばかりだと、自分も早く元気を出さなくては。と思ってしまう。
けどここは、全くそんなことはない、ゆっくり回復すれば良いと、暖かく見守ってくれる。
傷を癒したい者に、のどかな風景もひと役かってくれるようだ。
本当に不思議な魅力を放つ国だった。
今もウィリアムに話しかける者はいない。
外国から来た者だからだろうが、嫌な避け方をしたりはしない。
必要な時は話しかけてくれるし、差別をしないでいてくれた。
誰かが、この国は心に闇を抱えた奴らが集まるから、皆が皆ってわけじゃないけど、仲間が沢山いるから、なんか好きだな、と話すと、俺もだな、俺は結婚を反対されて一人逃げてきちまった。そん時は、揉めに揉めて、大変だったよ。
でも、この国の人はそんなの気にしない。ある意味、いい意味でって事だけど、自由な感じが気に入ってる、といった、昔話を交えた会話をしていた。
皆、どこかそうなのか、だからなぜだか安心するのか、とウィリアムは思った。
雨も心を落ち着かせたりする効果があるって人もいるしな、と誰かが話している。
どんよりしている天気が続き、鬱々とした人が多いと母から聞いていたが、この鬱々とした感じも、またなにか良い効果もあるのかも知れない、とウィリアムは思い始めた。
翌日
店はオープンする日を迎えた。
あいにく…という言葉は個人的な感情の一部、とウィリアムは思った。
今日は雨が降っている。
それを、あいにくと思ったウィリアムだったが、昨日の誰かの言葉が頭に浮かんできた。
心を落ち着かせる…確かに“しとしと”と降る雨は、どこか冷静になれた。
こんな天気だと、客足が遠のくと思ったが、開店すると、すでに数人が入ってきた。
店長にとりあえずなんか弾いてくれ。と頼まれ、迷った挙句、静かなメロディの曲を弾くことにした。
客からは小さな歓声が漏れた。
従業員からも、思わずといった声がでてしまった。
店長は、この反応なら、少しは客足が増えるだろうと、小さな手ごたえを感じていた。
雨とピアノは、相性が良かったみたいだ。
店の中は穏やかで暖かな雰囲気が包んでいた。
雨の中来てよかった、と言ってくれた客に、店長はこちらこそ来てもらえて良かった、またどうぞと、返した。
ウィリアムが奏でるピアノは、とても優しく、店の中を包んでいた。
気が付けば、今日はクロエが再びこの国へ来る日だった。
ウィリアムは店でピアノを弾かなくてはいけない為、村長が迎えに行った。
クロエが到着すると、二人は微妙な距離感を保った。
お互いにウィリアムには思いがある。
複雑な距離を保ち、二人は家へ向かって移動した。
時間が遅くなってしまった為、祖母に顔を出したかったが、明日にする事にした。クロエはウィリアムの様子を窺うと、仕事を見つけた、やたら欲しいピアノがあるとかで、一生懸命働いていると説明したが、働いている事に驚かれた。
「で、離婚したいって?」
「なんだか疲れてしまって、生活を立て直すのが先なのに、ウィリアムったらこの国へ行きたいだの、ピアノが欲しいだのって…元気になってくれたなら良いんだけど」
「生活より、自分の事を優先してしまったのか、
まぁ確かにウィリアムらしくない気もするな。」
「それで、色々とね、家もどうするの?って、折角二人で住む家を見つけて、それなりに住んでいたのに。」
「それなり?まぁ確かに最初はそれなりに住めていたんだろう。けど、とんでもない事が起きた。そこからは、奈落の底に落ちたような生活になった。それで困ってた所へ、ウィリアムがアーテル国だ、ピアノだと言い始めて、話し合いは決裂、君は離婚を視野に入れている。」
「なにか、問題でもある?」
「イヤ、別に」
「…。」
「支えきれないって顔してるな」
「もう、どうしたら良いか分からないのよ」
「君も折角ここへ戻ってきたんだ。明日、ウィリアムの職場へピアノを聴きに行こう。おばあさんも行きたがってるし」
「わかった、行ってみるわ。顔も見たいし」
「ウィリアムについて、本当に離婚を考えてる?」
「…正直、働いてくれるならそれで良いけど、住む場所はここではないわ」
「彼は、たぶん、こことは、なにか説明は難しいけど合ってるんじゃないかな?結構元気に過ごしてるよ」
「おじいさんに会いたがってたのは知ってるけど、そんなにここが好きなのかしら?」
「好きだから戻りたくなっちゃったとか?楽しかった記憶から、ここは良い場所だって思って現実逃避してるとか?君はなぜ、手紙とかのやり取りではなく、わざわざ会いに来たんだ?
そりゃ、手紙とかだと、スムーズじゃないから、どっちのやり方とかは、好みだけど…。」
「おかしい?私がなにか、変な事をしている?離婚の話し合いをここでしてはダメ?」
「戻ってきなさいって、連絡するのでは、ダメだったの?正直、君は…君が知らないうちに、ウィリアムの魅力にどっぷりハマってて、口では離婚って言ってるけど、心の奥底では自分の思い通りに動いてくれない事に、苛立っているとか、あるんじゃないの?愛しすぎて…」
「そんな事あるのかしら?」
「君はあまり、自分の気持ちに気付かないタイプなのかな?」
「えっそう…かしら?」
「なんか、君の手紙や言動には、どっか、なんというか、君の気持ちが少ない気がする。一番好きな人は、独占でもしたいような…」
「そう、見えるの?」
「ごめん、俺もあまり、その、上手く説明できないんだけど」
「じゃあ、私は、ウィリアムに会いたくて、本当は離婚したいんじゃなくて、生活出来ないから嫌になって、逃げた?だけ?本当は、ウィリアムに振り向いて欲しくて、ウィリアムを支えたいんじゃなくて、私の為に動いて欲しいのかしら?えっ?じゃあ、私はどうしたら良いの?」
「とりあえず、明日、ウィリアムに会おう、さっき言った通り、三人で」
「わかった」
翌日
この日は珍しく晴れていた。
祖母に挨拶を済ませ、クロエはウィリアムの所へ向かった。
心臓はやけに高鳴っている。
離婚するかしないかは、正直迷っていて、頭が混乱している事に気が付いてしまった。
確かにあの時は、ハッキリと離婚しかないと思っていたが今は揺らいでいる。
母に言われた時より、心は揺らぎ、早くウィリアムに会いたかった。
昔この土地でウィリアムに対し、恋心に気付いた瞬間を思い出していた。
突然その事に気付いて、動揺したのと同時に、スッキリしたのを覚えていた。
その日、ウィリアムと恋人関係になった。
甘い夜だった。
とろけそうなウィリアムの囁きを、耳元で聞いていた。
その時、彼は祖父の土地をどうするか悩んでいた。
一応は解決したが、彼はどこか土地について、心残りがあるようだった。
帰りたくなってしまったのも、分からなくはない、この土地に魅入られてしまったのだろうと思える。
私自身も、けして嫌いではない。
畑や田んぼが無くなるのは悲しかった。
自分がウィリアムの立場だったなら、迷わず相続するだろう。
ウィリアムにはその時夢があって、それは出来なかった。
しかし今、夢を叶えたのに、彼はその地位を捨てて、再びこの地へ来ている。
そして、ここで働いている。
店に入ると、楽しそうなポップな音が、店内を包んでいる。
ピアノを弾くウィリアムも、楽しそうに弾いていた。
席に案内され、メニューを見て、クロエはコーヒーを頼んだ。
ウィリアムは元気そうにしている。
あんなに楽しそうに、店の雰囲気を壊さない様に、珍しく晴れた天気が店内を明るく照らしている。
明るくポップな音色は、彼にとても合っている。
そう、彼はこの曲のように、本来はとても明るい人だ。誰かを喜ばせ、優しく接し、つねに暖かく包み込んでくれる。
そんな存在だ。
だからこそ、好きになってしまったし、誰にも取られたくない。自分だけのウィリアムでいて欲しかった。
「あぁ、やっぱり私は、ウィリアムが好きだわ。寂しかったのよ、連絡もくれないし!全く、こんなところで愛想振りまいて!だからモテる男はダメだと思ったのよ。でも、結局私のがウィリアムの魅力にどっぷりハマってたのね、壊したくなかったんだわ、あの生活を…」
「くろえ、ここでやり直したら?ばあちゃん、くろえが来てくれて、嬉しかった、ういりあむと一緒に、ここで暮らしてくれない?」
祖母はクロエの言葉は理解出来ていなかった。
ただ、外国語で感情を表して喋っているようにしか見えなかった。
クロエはクロエで、祖母の言葉が分からなかった。
村長が二人の会話は、かみ合わないようでかみ合っていると説明し、三人は笑い合った。
その日の夜、クロエはウィリアムには会わなかった。
村長の家に村長と一緒に帰り、そのまま泊まった。
祖母は店を出た後、自宅へ帰り、ウィリアムの帰宅を待った。
帰宅したウィリアムに、店に行った事を話し、クロエは村長さんの所へいるけど、迎えに行かなくて良いのか?と聞いてきたが、クロエの好きにさせてるからと、答えた。
一旦部屋へと戻って、夕飯時に一階へ降りてきた。
夕飯は二人で食べ、食後はテレビを見た。
テレビを見ている時、祖母はふと、ウィリアムにこの家で住まないか?と提案してきた。
今は何も考えられない、欲しいピアノがあって、その事で頭が一杯だと答えた。
正直、勢いで出てきてしまったが、いつまでこの国に居るか決めていなかった。
仕事は楽しいし、次の仕事先もある。
今は、数年くらいはここに居ても良い。とは考えるが、家をどうするか、クロエと離婚するか、まだ、一切話し合っていない。
お金が溜まって、ピアノを買って…までしか計画していない事に気付いた。
クロエと離婚したら、この家に住んでも良い。もういっそ、あの国へ帰らないのもありだ。
自分を癒し、楽しく暮らせる場所で、のんびり暮らしたい。
今の自分には、場所なんてどうでも良い気がした。
「わかった、時期が来たらもう少し具体的に考えるよ」
思わず外国語で喋りかけてしまった。
祖母は困り顔である。
「えっと、いつか、ちゃんと答える」
「そう」
「しごと、たのしいから、いま、しごとはやめたくないんだ」
「そうなのね、よかった」
「だから、もっと、さき、いっぱいかんがえるよ」
「はい、わかりました」
…ダメだ、感覚が戻らない。
少しは最初の学生だった頃より喋れるようになっている、というのは錯覚だった。
確かにあの時は上達したはずだったんだが、時は過ぎ去ると同時に、ウィリアムから言葉の壁という置き土産を置いていった。
また、一からやり直しだ。忘れてる部分が沢山ある。
翌日もウィリアムは仕事へ行った。
クロエは一人、外にいた。
昔、田んぼだったはずの場所には、田んぼが無くなっていた。
そこは村長の管理する土地となっていた。
うっすら記憶の片隅に残っていた地図を思い出しながら、たどり着いたが田んぼが無くなっていたせいで、間違った所に来てしまったのかと思えたが、よく見ると見慣れた景色だった。
クロエにはもう迷いが無い。
ここを見て決心できた。
これ以上、ウィリアムの祖父母の土地を消したくはない。
自分は自然と共に生きるのが夢だ。
だからこそ、作物や田畑のある風景が好きで、学生の頃、わざわざここまで来たのだ。
あの家は確かに気に入っていた。
何もなければずっと住みたいほど、お気に入りで幸せの詰まった家だった。
でもそれはウィリアムと一緒に住むから価値があったものだ。
肝心のウィリアムがいなければ、あの家に価値はない。
ウィリアムが住みたい場所こそ、本来の自分達が住む場所だ。
ウィリアムのぬくもりが消えていないと、ハッキリ分かった今、自分が出来る事はただ一つ。
「ここに住むしかないわね」
クロエは一旦、村長宅へ戻り、大事な話があると伝える事にした。
村長宅に戻ると、村長の奥さんと、息子さんに迎えられた。
村長に話があると伝えると、どうぞ、こちらへと、村長室へ案内された。
極小住宅ではあるが、縦長の家の一階の半分は、村長室である。
普段は反対側の玄関から出入りしていた為、なんだかこちら側は実に新鮮だった。
本棚と机と椅子、そして応接室にありそうなソファーとテーブル。
いかにもって感じの作りだった。
本棚の前に立っていた村長がこちらを向いた。
「どうした?クロエ、こちら側に来るなんて珍しいな」
「話があって来たのだけれど、良いかしら?」
「かまわないよ、ソファーにでも腰掛けて」
その言葉を聞き、村長夫人は「お茶を持ってくるわね」と部屋を出た。
クロエは言われた通りに座り、村長は向かい側のソファーに座った。
「で、どうした?」
「この国に暮らすには、どうしたら良いのかしら?」
「簡単だよ、まぁ書類とかは簡単ではないけど、君が住居と仕事を見つけて、こちらに引っ越してくれば良い。」
「…ウィリアムの土地ってどのくらい残ってるの?」
「えー、田んぼは売った。隣の村に少しあった所は全て向こうの村長に渡した、あとは今、畑として残ってる部分と、祖父母宅の隣は我が家の管理部分だから、そこも無し。祖父母宅はそのまま、後、大きな土地が残ってるよ、だから、家のある土地、畑のある土地、大きな土地の三つだね。」
「それはウィリアム名義の土地で、あなたが管理してるっていう所?」
「そうだよ」
「おばあさんが亡くなったら、全て無くなっちゃうのよね?」
「家は売るだろうな、後はウィリアム次第」
「ウィリアム次第ね?分かった」
「どうしたいんだ?」
「その土地を守りたいのよ」
「なるほど、でもウィリアムはピアノしか頭になさそうだけど、クロエを抱く代わりにピアノを抱くくらいの勢いで、毎日ピアノピアノって言ってるんじゃないか?」
「それは、分かってるわよ!違うの、土地は私が管理したいの!この国に住めば、管理できるでしょ?」
「ウィリアムには、まだ何もいってないだろ、ウィリアムに聞いてみたらどうだ?それに家は?仕事は?」
「どこかに何か、良い物件あるかしら?」
「あるよ、直ぐ近くに、でもそこは祖母と孫が今いるんだ、どうにかしたいなら、その家だな。君がやるのはただ一つ、今日はその家へ帰るんだな、クロエ・ウィルソン」
「…すべてはおばあさんとウィリアムを説得しろという事ね」
「おばあさんは、もう大丈夫だろう」
「そうね…分かった、彼の元へ帰るわ」
「お茶飲んでからにしたら?」という女性の声が二人の元に届いた。
クロエはお言葉に甘えてと、お茶と菓子を頂いた。
それから彼の祖母宅へ行く事にした。
ウィリアムと話をしなければ…。
新しい住処は、あまり新しくないが、思い出がある家になりそうだ。
夕方、祖母は家に帰ると、直ぐに誰からか声をかけられた。
「おばあさん、おかえりなさい」
「あら、くろえ」
「おばあさんに、はなし、あるの」
「そうなの、じゃあ、早く中に入りなさい」
クロエは久しぶりに、ウィリアムの祖父母宅へ入った。
懐かしさで涙がこみあげてきた。
その後、村長も仕事を終えてやってきた。
三人で居間で話をする事となった。
クロエが家と土地を継ぎたいと思っていると祖母に説明すると、祖母は泣いて喜んでくれた。後はウィリアム次第だと告げると、昨日の夜、少しだけ話をしたと、祖母は言い、それならと、ウィリアムの帰宅を待つ事にした。
その後、ウィリアムは夜の七時半頃に帰宅してきた。
店の営業は、普通の喫茶店同様の時間での閉店だが、ウィリアムは、午前十時から午後五時までの勤務時間で働いている。
その間に、一時間の昼休憩を入れてもらっている。
いつもなら、夜六時頃には帰宅するのだが、今日は喫茶店で働く一人に、飲みに誘われ、断り切れずに少し付き合ったらしい。
その男は、妻に見つかり、連れ出されてしまった為、飲み会は短い時間で終わったらしい。
それでこの時間の帰宅となってしまった。
クロエがいた事で、離婚の話し合いだと、察しがついた。
祖母は「とりあえずご飯たべましょ、ばあちゃんお腹空いたわ」と言ってそそくさと台所へ向かった。
ウィリアムは着替えてくると言い、二階へ上がった。
再び全員が居間にそろい、ご飯の時間となった。
クロエとウィリアムは会話せず、祖母と村長だけが喋っていた。
食事が終わると、祖母は一旦台所へ行き、その間三人は一言も話をしなかった。
祖母が居間に戻ってきてから、話し合いは行われた。
ウィリアムは、一人拍子抜けしてしまった。
離婚の話し合いだと思っていたからだ。
「だから、ウィリアムがこの国に居たいなら、私は構わないわ、私もこの国で暮らす。今の家は、残念だけど手放しましょう。家具とか、お気に入りの物を手放すのは、すごく辛いけど…、どうすることも出来ないわ」
「クロエ…」
「またこっちでやり直しましょう、ウィリアム、今日の夜から、私はまたこの家でお世話になりたいと思ってる。それでも良いかしら?」
「…わかった、ありがとうクロエ」
ある程度、話が纏まり、クロエは昔使っていた客間に自分の荷物を置きに行った。居間へ帰ると、村長は家に帰っていた。
ウィリアムと顔を合わせるのは、実に久しぶりだが、相変わらず優し気で、ハンサムに見えた。
「またここで、過ごせるのね」
「良いのか?大丈夫か?」
「大丈夫よ、だからここに居るのよ」
二人の会話に割って入るように祖母は「くろえ、お布団用意しなきゃね」と言ったが、「大丈夫、私がやるわ、おばあさんはゆっくりしてて」と返した。
祖母は風呂に入ると言い、居間を出ていった。
ウィリアムは自室に戻るというので、クロエもそっちの部屋へ行っても良いかと尋ねると、少し迷っている顔を見せた。
その後、まぁ、来ても良いと、非常に歯切れの悪い返事をされた。
ウィリアムの後ろを歩いて、クロエは部屋へ向かった。
ウィリアムの使っている部屋は、相変わらずで、すごく懐かしい気分になった。
ここで自分たちはカップルになった。
ここから二人は始まったのだ…。
そう思うと何だが、胸の奥に冷たい物が刺さったように思えた。
「なんだか、この部屋も変わらないのに、私達だけ、変わっちゃったわね、でもまぁ当たり前か、それだけ月日が経ったんだものね」
「元気にしててくれたみたいで、良かったよ」
「あなたはずいぶん元気になったんじゃない?あの時より、すごく楽しそうよ」
「ピアノを弾いてて、毎日それだけで良いんだ」
「ピアノは好きなのは知っていたし、生き甲斐なのも知っていた、けど、そこまでとはね。知らなかったわ」
「なんだか、自分のわがままに振り回してしまってすまない」
「そうね、最初は、何考えているんだろうって思ったわ」
「君は本当にこの国で暮らすことを考えているのか?」
「えぇ、決心できたの、早いでしょ?それはね、田んぼの跡地を見に行ったときに、決めたの。もう失いたくないって」
「君は田んぼが好きだったね」
「泥だらけで作業するのには、驚いたわ!」
「田んぼの管理はとても難しいらしい。人手も必要だし。それ以外にも色々、事細かくあって、とてもじゃないけど、おばあちゃん一人では無理らしい」
「残念だわ」
「でも、ここはお米を主食としているから、田んぼは無くならないだろうって、村長さん一家も代々守ってきた田んぼがあるからって、田んぼの世話はいつでもできるらしい。おばあちゃんも時々手伝ってるってさ」
「そうなの?私もやりたいわ!」
「頼めば大丈夫だと思う」
「ありがとう、教えてくれて」
「君は…本当に土いじりが好きだな、顔が輝いてる」
「あなたは、苦手なのよね、泥だらけになるの!」
「泥だらけなんて、考えるだけで嫌だよ」
「…あなたには、あなたの好きな事があって、私には私の好きな事がある。それが普通よね」
「お互い、もっともっと、歩み寄りと支え合いが必要だな」
「そうね」
「君が離婚と言い出した時は、それでもしょうがないと思ったけど、いざ言われるかもしれないと思うと、体が氷のようになって動けなくなるかと思ったよ、そんな事にならなくて良かった」
「それは謝るわ、ごめんなさい」
「考え直してくれて良かった」
「まだ、凍えるような寒さを感じている?」
「どういう意味で?」
「私はなんだか、心が寒いわ」
「なるほど、じゃあ、温める事が必要だね」
「ウィリアムの心は、寒くないの?」
「寒いよ、凍えそう」
「じゃあ、あなたも必要ね」
「…どう温めてくれる?」
「なにか、温かい飲み物でも持ってくる?」
「“あたたかい”人肌なら欲しいかも」
「それで“あたたかく”なれるかしら?」
「愛があれば」
「loveで良い?」
「likeじゃあまりあたたまらないな」
「布団は二枚必要?」
「一枚で足りると思う、クロエが太ってなければ」
「失礼ね!もう!」
二人は見つめ合い、愛を再確認した。
その日から、再び夫婦で二人三脚をする事となった。この国で暮らす準備は、まずは祖母宅で暮らし、仕事をしながらお金を貯める。
今ある二人の家は、一旦大型の休みに入ったら片付けに帰る事となり、その時に色々な手続きもする事となった。
お互いの両親にも説明し、あっさり納得してもらえた。
これからの事は、これから。
問題が発生した時点で、二人で考え、行動することと決めた。
何事も二人で乗り越えよう。
これが夫婦の決まりになった。
支え合い助け合い、尊重し合い、末永く愛し合う。
これが出来てこそ夫婦だと、二人は思っている。
あれから何年たったのか、ウィリアムは考えていた。
やたら時間がかかってしまったような気がしている。
あれから二人は祖母宅で暮らしていたが、今は祖母宅を建て替えた家に住んでいる。
祖母はウィリアム達が夫婦として、再出発をして、この国で暮らし始めて何年後かに亡くなった。
ウィリアムは初めての子供が出来た頃、自宅で出来る仕事に切り替えた。
元々頼まれていた仕事をすることにした。
その為、改めてしっかりとアーテル語を学び直し、自宅で外国語教室を開き、外国語を教える先生になった。
その後、国の方針でウィリアムが使っていた言葉は、共通語となった。
その他の外国の言葉はさすがにウィリアム一人では無理だが、共通語ならば教えられる。
外国から来た者に、逆にアーテル語を教える事も出来るようになった。
そしていつしか、頼まれてピアノ講師をすることになった。
「結局、先生になるのね」というクロエに「僕の夢は教師になる事だったからね。学校の先生ではなくなってしまったけど、あきらめきれないし、好きだから」と言った。
「それに、失敗から学べることもある」とも付け加えた。
悲しい事実はいつまでもウィリアムの心に突き刺さっている。
そこでクロエは、「だったら学校へ行けない子のケアが出来るようにしたら?」と提案すると、「そうか、それも良いな、どう思われても良い。子供を救いたい」という思いを口にした。
「あなたらしいわね、でも良いと思うわ、救える子を救いましょう」
「そうだな」
そこから新たなプロジェクトが始まった。
自分達で出来る範囲の中で、学校に行けない子供のケアをしたい、という思いから、『なんでも塾』という名の塾を始めた。
名前が消失してしまったが、現在も彼は、言葉を教えたり、ピアノ講師をしたり、学校へ通えない子のケアや、勉強についていけない子のサポートをしている。
ウィリアムは、「先生」または「コアラさん」と呼ばれ、地域の子供に愛されるキャラになっている。
そしてなぜか、「オカマみたい」と言われるようになっていった。
丁寧な言葉使いを気にしてたら、こうなってしまっただけなのだが、彼は子供のいう事を鵜呑みにせず、そのまま「オカマキャラの先生」として生きている。
村長とは、長年の友人関係を続けていて今でも交流がある。
色々とあった彼の若かりし頃は、知らぬ間に過ぎていった。
現在
アーテル国にあるアーテル村では、雨が止み、雲の色が薄くなっていたが、それを確認するのは、困難だった。
ウィリアムことコアラさんは、自宅の二階の部屋で窓の外を見ていた。
子供たちの部屋であるこの部屋は、ウィリアムの母が使っていた部屋と同じ位置に作られている。そんな部屋では、子供が自分のベットの上ですやすやと寝息をたてている。
子供は現在二人、二人とも娘で上の子が「エラ」、下の子が「エヴァ」と名付けた。
クロエと考えた名前で、二人とも気に入っている。
そんな愛しい子供達が眠る部屋で、ウィリアムは、外を見ていた。
外はもう真っ暗だ。
今日は思い切りピアノが弾けた。
あのピアノは、ようやく手に入ったウィリアムの宝物だ。
「真っ白いグランドピアノ」が載っている雑誌を見てから、何十年とたったが、ようやくお金が溜まり、手に入った時は何事よりも嬉しく思えた。
もちろんそれより嬉しい出来事は沢山あったのだが、念願のピアノが我が家に届いた時の衝撃は、忘れる事が出来ないほどだ。
さらにウィリアムは、昔の事を思い出していた。
ピアノを購入し、何日も浮かれていたある日の事を思い出してしまったのだ。
クロエが管理者として名義を持っている土地について、村長から話があった時、クロエに決断をしてもらう事にした。
もちろんウィリアムも話を聞いた時、一緒にどうするか悩んだ。
あの土地に家を建てるのはどうかと言われたのだ。
結果、土地はそのままで、家を二軒建てる事となった。その家は人に売る事となったが、中庭を作れる事になった。
それならと、思い切って中庭を作らせてもらい、小さな畑を作れるスペースが出来た。
それ以外は家を買った人と相談して庭を管理する事になったが、家を購入してくれた人からの提案で共有できる中庭になった。
水色の屋根の家は、もう一つ玄関がある方に専用の庭が出来た。
赤い屋根の家は、庭は作らなくても、中庭を利用できればそれでかまわないという事で、話はまとまった。
土地の大きさは充分あり、その家に住む二家族とクロエで庭を管理する事となった。
それが一番大きな決め手となった。
現在のウィリアムの生活は、その二つの家に住む家族との出会いで作られている。
クロエはクロエで、寝室の隣にある小さな部屋で、手紙を書いていた。
自分の両親にあてた手紙だ。
いつも自分を心配してくれ、うるさいくらいに「大丈夫なのか?」と聞いてくる。
色々あった過去の事は、だいたい話してある。
近くに住めない事を、何度詫びただろう。
留学した時も離婚だと言って、ウィリアムを追いかけ、この国まで来た時も何度も詫びた。
この国で永住すると決めた時は、さすがに「好きにしなさい、あなたの人生なんだから」と言われた。
詫びても詫びても、足らないくらいに思える。
そのせいで手紙は欠かせなくなった。
今思えば、これで良かったんだろうと分かるが、当時は悩んでも悩んでも、答えが見つからず、迷宮に迷い込んだのでは?と思うような時もあった。
しかし、全ては自分次第。
自分がどうしたいかで決まる。
なかなか自分の奥底の気持ちに気付けないタイプと、この国に来て教えてもらった。
その時の恩人は今も村長として、そして一級建築士として活躍している。
自宅を改築し、奥さんはインテリアコーディネーターとして活躍中、本も出したそうで我が家でも一冊転がっている。
ウィリアムは、今日は一日、ぼけーとしているか、激しい協調のピアノ曲を弾いていた。
彼なりになにか、昔話でも思い出してるらしい。
雨の日とピアノと思い出は、彼にとって重要な事らしい。
昔からの癖なんだと、クロエは思っている。
「感情が高まると始まるのよね、ピアノ」と独り言をつぶやいてみたが、自分だって手紙に気持ちをぶつけている事を思い出すと、手紙を見つめて「自分も手紙を書いている以上、人の事言えないわね」
どうやらクロエは、感情を表に出す時、なるべく文字にしているらしい。
それはこの国に来てから始まった習慣だ。
自分の気持ちと向き合うなら、日記や手紙はどうだろう?とアドバイスをもらったのがきっかけだった。
村長とは、恋が芽生えなのが不思議なくらい助けてもらっている。
きっとウィリアムがいなかったら、恋をしていたかも知れない。
異種族の恋だが、もしかしたら…、とは思うが、たぶんウィリアムと出会ってなくても、クロエは村長とは恋仲にならないだろう。
クロエは案外、顔で選ぶ部分がある。
クロエが見て、「ハンサム」でなければ、恋が始まらないのだ。
今日も一日が終わろうとしている。
明日はまた、畑の手入れや、田んぼの手伝いをしなくてはならない。
ウィリアムは…きっと好き勝手生きているだろう。
子供が来れば子供のめんどうを見て、家事をやって、暇があればピアノを弾いて…。
何気ない日常だが、クロエはとても幸せだと感じていた。
ウィリアムも同じことを考えていた。
何気ない日常が、とても幸せに感じている。
あの時の悲しい出来事は、少しずつ消化され、今では前向きに考えられるようになっていた。
教師であったウィリアムの姿はイキイキとしていた。
そのすぐ横で陰に潜んでいた暗い部分は、今はもうない。
今は今の自分で進むだけだ。
ウィリアムの人生は、いつでも廻っている。
第五話【後編】 終わり