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しあわせの国  作者: 嘉月信乃
1/1

月光を食む

 その夜は月が綺麗だった。

 窓から見える鏡の様な満月は煌々と光を湛えて、昏い世界の中に影を落とす。輝きの源をもっとよく見たいと、障子に手を掛ける。

 萎えて細くなった腕に力を込めて、滑りの悪くなった障子を何とかずらすと、目映い光が薄暗い部屋の中に道を一筋つくった。

 目を閉じれば風がそよぐ音が幽かに耳へ届く。或いは、今年最後の虫の音だったのかも知れない。秋も終わりに差し掛かる頃だから、虫の声が心地良い季節はもうお終いだった。

 男はそれを惜しく思いながら頬杖をつく。更に遺憾だったのは、自分がこの美しい光景に心を動かされたとて、その情感の推移を自分なりに上手く表す術を持っていなかった事だった。


 絵は描けないし、詩も詠めない。文字を何とか起こそうとしても気の利いた文言は思い通りに頭から滑り出てくれるものではなかった。如何せん、今までの人生でこういったものに心を傾けてこなかったのだ。そもそも、自分が何気ない風景などに感じ入る事があるなど、嘗ては想像すらしていなかった様に思う。

 人生とは本当に分からないものだ。男はそんな風に自嘲した。そんな時。


「__おや。貴方がそんな顔をするなんて……珍しくもないか」

「……明比あけび


 襖の滑る音に続いて横合いから掛かった声にも男は動じなかった。すっかり聞きなれた、耳に馴染む通りの良い声だ。女性にして少し低いそれは、声に続いて現れた快活そうな笑顔によく似合っている。


「お加減はいかがです?」

「何時ぞやよりはましだ」

「それは何より。顔色も随分良くなりましたね」


 にこやかに言葉を続けながら彼女は入ってきた襖を閉める。何か手に持っていると思えば、酒瓶と盃が二つ。


「酒か?」

「ええ。これが薬には見えないでしょう?」


 百薬の長とは言いますけれど、と付け加える。男の傍まで歩み寄って腰を下ろし、明比は盃を差し出した。彼女の片手に収まらないくらいの、それなりに大きさのある酒盃だ。


「良いのか、俺に酒など与えて」

「虜囚と酒を呑んではいけないなんてのり、私は聞いた事がありませんが」

「………」


 男は思わず閉口した。此方に連れてこられてから暫く経つが、未だ彼女のある種の奔放さには驚かされる所がある。

 何とも言えずに黙っていたのを見て、彼の気分を害したと思ったらしく明比は眉を下げて謝った。


「いや、虜囚なんて言い方をするものじゃありませんね。申し訳ない」

「それは構わん。事実だ」

「まあ、それはそうなんですが……。あ、分かりますよ。そういう事じゃないって言いたいんでしょう?」


 明比は視線を下げて頭を掻く。少し頭を振った拍子に、無造作に頭の後ろで一つに束ねられた髪が揺れた。彼女の髪は銅の色で、月光に触れると赤く煌めいた。

 それにふと視線を遣りながら、男は盃の片方を手繰り寄せる。次いで酒瓶に手を伸ばそうとしたのを、先んじて明比が手に取った。


「お注ぎしますよ」

「有り難い」


 男の持つ盃に酒がなみなみと注がれる。それを何とはなしに月光に翳してから一息に飲み干した。酒を口にするのは久方ぶりの事で、まだ万全ではない身体には灼ける様に染み渡った。


「まさしく月見酒ですね」

「……そうなるな」


 返事が一拍遅れたのは、思いの外酒精の後味が強くて咳き込みかけたからだ。そうなるのを恥じて何とか堪える。


「久し振りの酒の味はいかがです? お口に合えば良いんですけどね……蔵から適当にかっぱらってきたもので」

「悪くはないが、少し強いな」

「あら。璃寛りかん殿はあまり酒が得意ではないのですか?」


 不意に名を呼ばれた男__璃寛は盃の中の酒をすと、煩わしそうに頭を振った。


「長らく飲んでいなかったからだろう……それにその名は捨てた筈だ」

「何も捨てなくても良いでしょうに」

「もう必要がない」

「どうしてです。いつかはあそこへ帰れるかも知れないのに」

「俺が今後解き放たれる訳が無いだろう。だが、いっそ殺そうにも殺せまい。ならばこのまま、いつか弱ってくたばるまで飼い殺しが関の山だ」


 そんな覚悟は無いだろうからな、と璃寛は嗤う。

 彼が今居るのはとある屋敷の離れだ。母屋から中庭の小道を通り、中央に在る池を回り込んだ所に建つ、一部屋だけのこじんまりとした離座敷。あまり広さはなくとも風情があって、眺めも良い。そんな場所にここ数カ月の間押し込められていた。


 ”虜囚”とはいえ手枷や足枷の類は一切付けられておらず、縄や鎖で縛り付けられてもいない。身体の自由は効くし、飢える事の無い様に食事も日に二度用意される。渇けば水も与えられた。詰まる所軟禁状態だった。

 それでも逃亡を防ぐ為の仕掛けは方々に拵えてあったし、見張りも複数居る。本来は明比もその一人である。尤も、璃寛の方に自分から逃げ出そうという気が欠片も無かったから、見張りの者達はすっかり暇を持て余している始末だ。

 

「……私なら、貴方を逃がそうと思えば逃がせますよ」

「何だ、情でも移ったのか」

「それは……あるかも知れません」

「俺の様な”鬼”にか?」


 ”鬼”という言葉を口の端に上らせると共にまた自嘲する。先程と違うのはそれが苦々しさを帯びている所だ。眉間にも皺が数本寄っている。それがどういった種類の笑いにせよ、嗤うのと顔を顰めるのを一遍にやってのけるのは中々器用な事をする__等と、明比は場違いな感想を心の内で抱いた。

 それを綺麗に面には出さず、酒盃の中身を干した明比は事も無げに口を開く。


「だって、別に貴方は化け物や物の怪って訳じゃないでしょう」


 璃寛の盃を傾ける手が止まった。


「お前__」

「ここ何月かで貴方……いえ、貴方達を”鬼”だっていうのは、誰かが勝手にそう呼んでいただけなのがよく分かりましたからね。普通の人間と全然、変わらないじゃないですか」

「…………これでもか?」


 璃寛は不意に仄暗さを湛えた瞳で明比を見る。空いている片手で前髪を乱暴に掻き上げ、額が露わになった。髪に隠れて見えていなかった額の両端の方に、それぞれ何か膨らみがある。一見すれば瘤の様だが、間近で見れば全く別のものであるのが分かる。

 それは、何かがそこで折れた名残だった。樹木が折れた時の様にささくれ立ってはいないが、荒い断面の一部が赤黒く染まっている。明比はやや目を丸くする。

 嘗てそこに在ったもの。幽閉される寸前、それが折られる場面に明比も立ち会っていたが__。


「……そりゃあ確かに、私には生まれつき角は生えてませんけれど」

「普通の人間に角は無いだろうが」

「大抵の人間には確かに無いですね。璃寛殿の様な方もごく稀にいらっしゃる様ですが」

「そうだろう。人間には角や尾が無いのが当たり前だからな」

「当たり前……なんですかね。貴方がたが鬼と呼ばれるのも、正直私はよく分からなくなってます」


 璃寛の片眉が跳ね、空気が一瞬張り詰めそうになった……が、そうならなかったのは明比が如何にも困惑している風なのが見て取れたからだ。決して上辺だけで言ったような雰囲気ではなかったから、璃寛も出来るだけの落ち着きを装って明比を真正面から見る。


「それは、本気で言っているのか」

「ええ勿論。何せ、私の妹も鬼でしたからね」

「…………何」


 僅かに瞠目した璃寛から目を逸らす様に、明比は俯いた。彼女の両手の中で、空の酒盃が行き場を無くして転がされる。


「……正確には少し違ったんですけど。生まれつき……がなかったんです……。だから、まだ……幼い内に忌み児として……__」


 途切れ途切れ発せられる言葉。その先は聞き取れない程の囁き声だったが、何と言ったかは手に取る様に分かった。

 明比は転がすのを止めた酒盃をそっと両手で包み込んだ。


「失礼な物言いをお許しくださいね。

 ……あの子も、貴方達の様に鬼として生きていけたら良かったんだろうかと、今になって思います。

 昔は真逆の考え方をしていたんですけど。辛いまま生きていくよりは、って。

 __だけど、貴方と会って……あの子にもきっと、生きる未来もあったのかな、なんて」


 璃寛は静かに目を閉じた。瞼の裏にあの和やかな里の風景が浮かんでくる。

 自分の故郷。”鬼”と呼ばれ、見做され、周りから疎まれ追われた者達がひっそりと住まう、楽園の様な隠れ里。決して裕福な生活ではなかったが、それでも、あの場所で暮らす誰もが心穏やかに過ごしていた。

 そして、璃寛が今此処に囚われているのは、その楽園を守る為でもあった。


「……そうだな。俺達の里なら、きっと生きていけた。普通の人間の様にな」


「そうでしょう? だから、ちょっと分からなくなってしまって。私の妹も、貴方達も、実は普通の人間じゃないですか。お伽噺に出てくる様な化け物や物の怪とは全然違う。

 そんな風に考えて、例え角があったとしても、璃寛殿の事は鬼だなんてもう思えないんですよ。」


「…………そうか」

「ええ。……いつかの誰かが、少しだけ普通から外れた人達を鬼と呼んだ所為で、妹や、貴方達は普通じゃなくなってしまった……本当は私達と何ら変わらないのに」


 璃寛は黙って盃に酒を注ぐ。視線を上げると、目映い月光が些か目に染みる。


「そうして終いに都合の悪い事は全部、鬼や物の怪の所為にしてしまうんですから、酷いもんですよ」


 吐息して酒を注ぎ直すと、明比はぐっと一気に呷った。仰向いた拍子に、目元で月が淡く輝いた。


「何故お前が怒っている」


 気の抜けた様に璃寛が口許を緩ませた。少しの呆れも一緒に滲んでいる。


「考えてみれば怒りたくもなります。今年の日照りも飢饉もみんな”鬼”達の所為にされる所だったんですよ?」

「そうだな」

「そんな他人事みたいに……」

「終わった話だ。俺一人捕まっただけで済んだのだから、上等な結果だな」

「確かに命があるだけましではありますけど」

「第一、良いのか。お前はそんな風に考えていて」


 ここで璃寛が真面目な調子に戻った。横目でちらと明比を見る。あたかも試すように。


「俺の味方の様な事を言っていたら、お前まで鬼にされるぞ」

「……案外、それも有りかも知れませんね」

「おい」


 明比はくく、と喉の奥で笑いながら酒盃を酒で満たす。悪戯っぽい目線を返すものだから、璃寛は大仰に溜め息を吐いた。

 そのまま酒瓶を寄越せと、無言で手を付き出して催促する。数拍の後に大分軽くなった瓶が彼の手に渡った。それを軽く振ってから、自分の盃に傾ける。


「__ああ。月が酒に浮かんでいる様です」


 明比が酒盃を月光の元へと差し出すと、確かに水面には小さな月が映っていた。真ん中に月を乗せてきらきらと輝いているものだから、まるで天女が口にする蓬莱の美酒の様だ。

 それを存分に眺めてから、明比はゆっくりと時間を掛けて酒を飲み干す。最後の一口は全身で味わうように目を閉じる。飲み終えて一息吐くと、今日一番の笑みを璃寛に向けた。


「ほら、何だか月光を呑んだ様でしょう?」


 ほう、と目を眇めて璃寛は手の中の盃を月に向けて翳した。天高く輝く月が自分の元へ降りてきた心地にもなる。ゆらゆらと揺れる月を水面に浮かべて、それをしげしげと眺めた。


「月光を呑むか……俺は鬼らしく食らうとしよう」


 璃寛は犬歯を見せて口角を吊り上げると、大きく口を開けて酒に齧り付いた。

 今この時だけは本当の鬼になったとばかりに、酒が縁から溢れて滴り落ちるのも意に介さず、獣が水を飲む様に酒を口にする。

 程なくして盃は空になった。


「……成程。璃寛殿は月光を食む、と。一瞬、貴方が本物の鬼の様に見えましたよ」


 鬼と呼ばれた男は、くつくつと晴れやかに笑った。


「そうか。それなら鬼も、悪くはない」






《月光を食む、了。》

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