鏡の中のわたし
あなたって結局自分のことしか愛してないんだ。
おもわずほほをひっぱたきそうになって、やめた。
わたしはあなたがなりたかったあなたの、ただの身代わりだったの?
あなたから告白されたとき、ほんとにわたし、うれしかったんだよ。
すごく幸せなきぶんに浸れたのに。
全部、うそ、だったんだ
そしたらわたし、どうしたらいいの?
わたしの気持ちは、どこにやったらいいっていうの?
☆
彼と知り合ったのは、大学の構内で。
お昼休みに池の周りの芝生に座ってお弁当を食べている時。
眩しい日差しを適度に遮るのに丁度いい木陰で、しかも目の前に広がる池の表面はキラキラと輝いてとても綺麗で。
ここは、わたしのお気に入りの場所だったのだ。
まぁ、こんなところでお弁当を食べているのはわたし一人ではあったけど。
そんなときだった。
お~い、ボール取ってくれない? という声に気がついて足元に転がってきた野球のボールを拾ったわたしは、とりあえず立ち上がっておもいっきりその声の方に向かって投げてみた。
わ!、どこ投げてるの! と叫ぶ声は聞こえてきたけれど。
まぁ、わたしに取ってなんていうのが間違ってるんだ。
と。そのまま意識の外に追いやって。
おべんとの続きにとりかかった。
お弁当を食べ終わって。枝の隙間から漏れてくる暖かい初夏の光を浴びながら、ぼーっと空想の世界に浸って。
あー。幸せ。
この瞬間が一番幸せかも。
そんなふうにぼんやり考えていたら、何時の間にか隣に人の気配がする。
わたしは思わず身構えた。
自分の空間にズカズカ入って来られた気がして、すごく腹が立って。
もうしばらくのんびりするつもりだったけれど。
しょうがないか……。
わたしは隣に座った人を無視したまま、立ち去ろうとした。
人と争うのは嫌いだし。
と、いうか、他人と拘わるのが、嫌いだったから。
と、そのとき。
ねえ、君って変わってるね。と、いきなり。
わたしは見ず知らずの人になんでいきなりそんなことを言われなきゃなんないんだろうと、相手の顔を睨み付けた。
でも……。
もしかして。
この人、さっきのボールの人?
声は似てるかも。
顔は、よく覚えていないけど。
もしかしたら……さっきのこと、文句言いにきたんだろうか?
睨み付けては見たものの、ちょっと不安になって。
ねぇ、あんた、もしかしたらさっきのボールの人? と、そう聞いてみた。
そしたら。
え? 林さん……もしかして俺のこと、知らない、とか……? なんて、なんかへんてこりんな返事が返ってきた。
知らないわよ! と、言いたいのを堪えて。
頷いた。
口に出して、言い合いになるのも煩わしい。そんな気分だったし。
わたしが頷いたのを見てか、彼はなんかいろいろ喋っている。
どうやら、同じ学科の人らしいんだけど。わたしには覚えがない。
まぁ。覚えてる人の数のほうが少ないんだけどねぇ。
☆
彼の第一印象って、わたしのなかではあんまり良くはなかったのだけど。
それでも。あんまり関わらないでいればいいや、って、そんな風に考えていた。
おはよう林さん。
あれから、彼は朝会うたびにそう挨拶してきた。
わたしの方と言えば、とりあえず会釈だけ返して、そのままあとはなるべく関わらないようにしようとして。
なるべく彼の方は見ないようにしていた。
でも何故か、わたしの視界に入ってくるのだ。彼は。
わたしは普段、講義中以外は本を読んでいた。
いつも文庫本の小説を二、三冊は学校に持ってきて。
おはなしを読むのは好きだったけど、それだけの理由ではなくて。
まわりの子達との会話を避けていたから……。
とりあえず本を読んでいれば煩わしい会話もしなくて済む。
そんな風に思っていたし、実際、あまり話し掛けられることもなかったのだ。
それでも彼だけは、違った。
ふと気が付くと前の席に陣取って、わたしの読んでいる本を覗き込んで。
そして妙に馴れ馴れしく話し掛けてくる。
そのたびに、しょうがないから少しは返事をしなくてはならなくて。
といっても、はい、とか、いいえ、とか、そうなんですか、とか、そんな短い返事だったのだけど。
嫌、だった。
ナンデコノヒトハ、ワタシノジャマヲスルノダロウ。
ナンデソットシテオイテクレナイノダロウ。
☆
そんな彼が突然学校に来なくなった。
わたしはこれで開放される、という思いと、なにか物足りない、って思いと。
変だけど、そんなきもちだった。
一人でいるのが孤独だとか、そんな風に感じてはいなかった筈だ。
そんな感情なんて、とっくに無くした筈なのに。
違う……。
扉の向こうに閉じ込めたのに。
寂しい?
おかしい……。
気になる。
なんで?
閉じ込めた筈なのに。
漏れてくる……。
もっと大きい扉で閉じなきゃ……。
漏れてくる……。
もう。だめなの?
もう二度と、あんな思いは嫌なのに。
記憶の彼方に封印した筈なのに。
ソウ、ダカラモウワタシハヒトヲスキニナラナイ。
☆
彼を見つけた。
ファーストフードの店頭で。
いらっしゃいませ。
そう元気よく声を掛ける彼を見て。
わたしは、似合ってるな、なんて、思って。
彼もわたしの事に気がついたのだろう。
少し、はにかんだような顔をしていた。
でも、元気でよかったな。
え?
わたし、心配していたの?
なんでそんな事思ったのか。
わたしには解らなかった。
ねぇ、林さん。
彼はわたしの接客中に、そう小声で話しかけてきた。
あと30分、ここで待っててくれないかな?
そう聞こえた。
わたしは無言で頷いた。
どうして頷いたのか、わからなかったけど。
実はどうしても欲しいものがあってさ……。
なんか、何時の間にかわたしの前に腰掛けている彼は、わたしに一生懸命喋っている。
時折見せるはにかんだ笑顔が、すごく眩しくて。
わたしは彼の前でどんな顔をしていいのか、わからなくて……。
君は。俺といるの、嫌?
彼がそう、言うのが聞こえた。
わたしはどう反応していいのか、迷った。
嫌だって言えば良いのに。
そういう声が頭のなかで響く。
でも、言えなかった。
言いたくなかった。
なんで?
なんでこんな風に思うのだろう?
彼が少し寂しそうな顔に見える。
そんな顔、してほしいわけじゃないのに。
そんな悲しそうな声、してほしくないのに。
わたしはいま、どんな顔をしているのだろう?
どんな顔を……。
☆
鏡の前で、わたしは髪の短くなった自分の顔を見ていた。
あれから。
彼はわたしの方を見ようとしなかった。
別れ際の悲しげな笑顔が、記憶に残っている。
最後に彼がなんて言ったのか、も、覚えていない。
いずれその表情も、記憶から消されていくのだろうか?
いや、消すことができるのだろうか?
美容院で、髪を切ってください。と、そうお願いしたら、美容師さんに失恋でもしたの? と、聞かれた。
そういうものなんだ。
そのときはそんなふうに感じただけ。
失恋?
失恋まで、行っていない筈。
まだ、彼の事、は、わたしの中では他人だった筈。
そう思っていた筈なのに……。
彼の事、好き、だったのだろうか?
それとも……。
せっかく閉じ込めていたのに。
もう、傷つくのは、嫌、だったのに。
なんで?
髪を切ったわたしは、あのひとに似ていた。
記憶の片隅に追いやった筈の、もう忘れた筈のあの顔に。
あの人はわたしを見ていなかった。
それが、悲しかった。
信じていたのに……。
裏切られて……。
彼の事、好き、だったのだろうか?
そう……。鏡の向こうのわたしに、聞いてみる……。
でも、わたしにはそんな資格があるの?
彼の事、見ていたっていうの?
わたしも、あのひとと一緒?
結局自分のことしか愛せなかったのか?
彼の事なんて、見てもいなかったくせに。
彼の言葉を、聞いてもいなかったくせに。
彼の悲しげな笑顔が焼きついている。
なんでこんなに苦しいの?
なんでこんなに……。
鏡の中のわたしは泣いていた……。
☆
暖かい初夏の光に包まれて。
いや、違うな。
まだ6月だっていうのに、今年は真夏のように暑い。
「髪を切ってよかった、かな……?」
わたしはそう、呟いた。
なんか、頭が軽くなったような気がする……。
いつものようにここでお弁当を広げて食べるのも、もう潮時なのかも……。
そんなふうにも感じていた。
今日、同じクラスの女の子達に、
「ねぇ、伊織。たまには一緒にお昼たべよー」
って、誘われた。
「うん。ありがとう。でも今日はあんまりいい天気だからさ。外で食べたい気分なんだ。ごめんね」
嬉しかったけど、そう断って。
「じゃあ今度一緒にたべようね」
彼女達は、そう言ってくれた。
少し、戸惑っているのかもしれない。
髪を切ってから、周りの態度が変わったような気がしていたから。
「おーい、ボール取ってくれない?」
遠くから、叫んでる声に気がついてわたしは足元に転がっているボールを拾った。
で、どうしようかと悩んで。
やっぱり投げ返してあげたほうがいいのかな?
でも、そしたらどこに飛んでいくかわからないし。
「あ、やっぱりいいよー。そのまま持ってて!」
その声の主は、走って近づいて来て。
やっぱり。
山崎晶君。
「ありがとう。林さん」
「山崎……あきらくん……」
「なんか、変わったね。林伊織さん」
「え……?」
「林さんが俺の名前フルネームで呼んでくれるなんて、初めてだからさ」
山崎君はそう言うと、ドン、と、芝生に腰掛けた。
「いいの? ボール、待ってるんじゃないの?」
「うん。いいんだよ。今は君と話したいから」
その言葉に頷いて、わたしも、そのまま彼の隣に腰掛けた。
「名前なんて、覚えて貰えていないのか、と、思ってたよ」
「え?」
「いつも俺の方から話し掛けて。君はつまらなそうだったし……」
「そう、だったかな」
たぶん、そうだったと思う。
わたしは生きていることすべてから、逃げていたから。
「だから名前も覚えてくれていないかと思った」
明るい日差しの中で、彼の笑顔が光っていた。
眩しくて。
わたしもたぶん笑顔でいたとおもう。
暑い、夏が来る。
Fin