第七百十四話 皇太子暗殺
やります。
エリクがそうアメリアに答えたのは次の日だった。
理由は二つ。
一つは、悪夢というには日記の内容が詳細だったこと。
そしてもう一つは、誰かが備えるべきだと思ったからだ。
この未来がやってくるかはわからない。
けれど、いきなりやってきたら誰も対応できない。
できたとしても、非常にまずい事態になるだろう。
だから、自分はそれに備えると決めたのだ。
帝国のことはヴィルヘルムに任せればいい。優秀な弟妹もいる。補佐役には困らないだろう。
できることはやるべきだ。
そして。
「必ずヴィルヘルムが死ななくてもよい道を探します」
「任せるわ……けれど、いずれ決断するときがくる。その時に道を誤らないでちょうだい」
そう言ってアメリアはエリクに日記を託した。
その数日後、アメリアは命を落とした。
もう後戻りはできない。
人目を憚らず、泣き続けるヨハネスを見て、エリクはそう実感した。
それからのエリクは孤独だった。
誰にも知られることのない暗躍が始まった。
人類のため、という大仰な大義を掲げているが、悪夢が未来予知でなかった場合、世を乱す所業だ。
それでも。
それでも。
それでも。
エリクは黙々とできることをやった。
日記は門を開くところまで。ならば門を開いたあと、どうやって悪魔を討つのか。
それを考えなければいけなかった。
日記にはこれから起きる大まかなことが書かれていた。
将来的には人類と悪魔との戦争があり、その主軸となるのがレオナルトとアルノルト。遠い先のことだ。本物かどうか確かめる術はない。
だが、本物だと確信する出来事があった。王国と連合王国との戦争だ。
連合王国の圧倒的優勢。
すでに王国には反撃に出る力がなかった。
誰もが、日記を持っているエリクですら。
連合王国の勝利を疑わなかった。
けれど、その中で奇跡を起こす聖女が現れた。
快進撃を続ける聖女は、竜王子が率いる連合王国を撤退に追い込んだ。
ありえない逆転劇。
皆が驚く中、エリクは震えていた。
こんなことは誰も予想できない。
だから、この日記は本物なのだろうと思った。
ゆえに、ヴィルヘルムの死が現実味を帯びてきた。
どうすればいいのか。
悩みながら、できることをやっていく日々だった。
まずやったのは、この隙に王国へ侵攻すべきという強硬派を黙らせることだった。
聖女は戦力。失うわけにはいかない。
王国と帝国との間を密かに取り持った。
大事なのは人類の戦力を保つこと。
勢力の均衡。
皇太子ヴィルヘルムが率いる帝国軍は、この時代、大陸最強の軍隊だった。
脇を固める弟妹たちが優秀すぎたというのもある。まさに黄金期。その気になれば十年で大陸の大半を統一できる戦力だ。
だから、エリクは各所に掛け合って拡大政策を取らせないようにした。
無駄な争いはすべきではない。
その方針にヴィルヘルムも同意していたため、強力な軍を擁しながらも帝国は静かだった。
必要最低限の戦いだけに留め、大陸中央に君臨する強国としての存在感を高めた。
それにより、各国も無駄な戦いは避けた。
戦争は資源も金も消費する。
なにより人が死んでいく。
死んだ人物がただの一兵卒だったとしても、家に帰れば良き父かもしれない。将来は大成する人物かもしれない。
未来にどんな影響を与えるかわからない。
だから、エリクは大陸中の人々に生きろと願いながら動き続けた。
心がどんどんすり減っていく。
そんなエリクの支えは妻となったレーアであり、そして城で暮らす弟妹たちだった。
レーアが笑顔を見せてくれるだけで頑張れた。
弟妹たちがのびのびと暮らす日々をみて、守らねばと思った。
たとえ、何を犠牲にしても。
未来を繋がなければ。
「帰ったぞ! アルノルト、レオナルト!」
「お帰りなさい、ヴィルヘルム兄上」
「お帰りなさい……」
「なんだ? アルノルトは元気がないな? さては出立前に剣術の稽古をつけてやると言ったのを気にしているな? 安心しろ、私も鬼ではない」
「さすがヴィルヘルム兄上! 今日はちょっと調子が悪くて」
「ゴードンに頼んでおいたぞ」
「来い! アルノルト! 毎日遊んでばかりらしいな? 俺が鍛えなおしてやろう」
「ヴィルヘルム兄上ぇぇぇ!!!!」
前線地帯の視察を終えて、帰ると必ず弟妹たちが出迎えてくれた。
いつもの光景。
それがどれほど大切か。
ヴィルヘルムもエリクもわかっていた。
「クリスタを見たか? エリク、また背が伸びていたぞ」
「育ち盛りだからな」
「アメリア様に似て、美人に育つだろう。婿選びが大変だぞ? 私はそう簡単に認めない。父上と二大巨頭として立ち塞がるつもりだ」
「妹の結婚に立ちふさがるな」
戦争はなくならない。
人同士の醜い争いはなくならない。
けれど、帝国の中で、ここでは平和が叶っていた。
世界平和など夢のまた夢。
それでも。
自分の傍では平和が実現している。
それで満足すべきなのだ。
多くを求めれば、多くを失う。
一時期、エリクは日記から目をそらしていた。
平和だったから。これを維持すればすべて解決だと思っていた。
しかし、厳しい現実はエリクを放っておいてくれなかった。
「ごほっごほっ……」
「ヴィルヘルム……」
「不治の病だそうだ……満足に動けるのはあと数年……そのあとは寝たきりだろうと言われた」
平和が足元から崩れていく音が聞こえた。
そろそろ日記にあるヴィルヘルム暗殺の時期。
情報収集に余念のなかったエリクは、その兆候を察知していた。
魔奥公団による皇太子襲撃。
とはいえ、それは大がかりなものではない。
藩国の辺境領主が勝手に暴走する、というものだ。もちろん領主も魔奥公団の一員だ。
完全に痕跡は消されているが、その前から魔奥公団を監視していたエリクは多くの情報を握っていた。
皇太子の暗殺など成功するわけがない。
それは仕掛ける側も一緒。
本気で殺せるなんて思っていない。
安定しすぎる世界では動きづらいから、藩国と帝国との間に戦争を起こす気なのだ。
ただ、そのきっかけ。
そのための襲撃事件。
北部国境に行われるそれを――エリクは知っていた。
「医者を探そう……」
「無駄だ……自分の体のことはよくわかっている……長くて十年生きられるかどうか……その大部分をベッドで過ごすことになるだろう……」
「諦めるな!」
「病気ばかりはどうにもならない……それに諦めているわけじゃない。私には皇太子として、いずれは皇帝としてよりよい帝国を築くという夢があった。帝国が安定していれば、大陸も動乱には包まれない。私は全知全能の神ではない。世界中の争いをなくすことはできない。けれど、減らすことはできる。それが私の役目だと思っていた……けれど、私には時間がないらしい。だから……後の時代に託そうと思う。できるだけ、楽な道になるように……この命を使う。幸い……私には弟妹たちがいる」
「ヴィルヘルム……」
「エリク……レーアと結婚できて幸せか?」
「もちろんだ」
「私もテレーゼと一緒になれて幸せだ。それがすべての幸せとは思わないが、それでも……愛し、愛される。素晴らしいことだ。子には恵まれなかったが、それでも私は幸せだ。十分だ……この幸せを今の子供たちにも体感してもらいたい。人は意志を、想いを、願いを、受け継ぐ生き物だ。すべては繋がっている。私はこの命を……次代に繋げる」
安静にしていれば生きることができる。より長く。
けれど、ヴィルヘルムはそれを望まない。
大切な人と緩やかに時間が過ぎるのを楽しむ人生もあるだろう。
しかし、ヴィルヘルムはそれを望まない。
大切な人と自分がより良い時間を過ごすより。
大切な人がその後もより良い時間を過ごせるように。
「エリク、私はこの命を燃やすぞ」
「……そうか」
その覚悟を聞いて。
エリクの中にも覚悟の火が灯った。
今は平和だ。
それを少しだけ長く維持することもできる。
けれど、先に待つのは地獄だ。
ならば。
今、どれほどの犠牲を払っても。
未来へ繋げなければ。
危機に直面するのは今、子供の者たち。
子供の彼ら、彼女には今、どうすることもできない。
ならば、繋ぐのが今の大人の責務だろう。
だから、エリクは暗躍した。
巧妙に、そして慎重に。
誰にもバレないように。
皇后に薬を盛り、護衛を引きはがし、裏工作の末に近衛騎士の数を減らし、北部国境守備軍に穴を作らせ。
そして薬をヴィルヘルムに渡した。
それは一時的に苦痛を和らげるもの。
けれど、反動もある。
何かあったときはすぐに飲め、と告げた。
その結果。
反動にて動きを止めてしまったヴィルヘルムは、何の変哲もない矢によって命を落とした。
いつもなら誰かが身を挺して庇ったはず。
しかし、その日に限ってはそういう人物が誰も傍にはいなかった。
そういうように仕向けた。
訃報はすぐにエリクの耳にも入った。
「すまない……ヴィルヘルム」
一人、部屋の中で涙を流しながらエリクは日記を抱きしめる。
本当にもう。
あとには退けない。
兄であり、友であった。
自分の命より大切な半身。
その命を奪ったのだ。
なにもかもを失う覚悟をエリクはしていた。
ただ、未来のために。
その日、エリクは泣かないことを誓った。
もう涙は涸れ始めていたから、意味のない誓いではあったが……。




