第六百八十七話 母娘の賭け
帝国東部国境。
「現状、反ヴィルヘルム派の旗印を担えるのはあなただけだと思うのだけど、リーゼ」
部屋の外では兵士たちが慌ただしく走っている。
そんな中、ミツバは静かに紅茶を飲みながら告げた。
一方、リーゼは黙ってミツバの前に座っていた。
「……義母上のお言葉はごもっともですが」
「帝国の将軍として皇国の混乱が収まるまで国境を離れることはできないかしら?」
「そのとおりです」
帝国の将軍。
それがリーゼの第一だ。
ゆえに、自分の担当する国境側が荒れているのにそこを離れるというのは、自らの矜持に反した。
しかし、状況が理解できないリーゼではない。
「時間をかけると相手が態勢を整えてしまう。一時の間、将軍としての自分を忘れて、帝都へ進軍してくれないかしら?」
わざわざミツバが東部に来た理由。
それはリーゼに先陣を切らせるため。
皇帝が戻ってくれば、たしかに反ヴィルヘルム派はまとまる。
だが、それまでの間好き放題させておけば、戻って来たときに手遅れということもありえる。
ゆえに対抗勢力が必要だった。
リーゼがヴィルヘルムと対立すれば、ヴィルヘルムとて無視はできない。
相手の時間を奪うことができる。それは反ヴィルヘルム派にとって大きなアドバンテージとなるだろう。
そして。
それがわかっているから、ヴィルヘルムは皇国で内乱を起こさせた。
いくらリーゼとて、皇国の内乱をすぐに片付けることはできない。
「状況はよく理解しているつもりです。私が必要なのも理解できます。しかし、それでも私は皇国の問題が落ち着くまでは国境を離れません。私は……アードラーである前に帝国の将軍です」
「リーゼ……」
「ご安心を。すでに皇国の皇太孫より援軍要請が入っています。私自ら軍を率いて、敵軍を粉砕します。その後、帝都に向かいましょう」
「……それでは遅いわ」
リーゼの中の譲れない部分。
そこを考慮したうえでの最速の案。
しかし、それでも遅い。
相手は対抗勢力がいない中で、ゆっくりと準備できてしまう。
敵の手をなんとか遅らせなければいけない。
そして、現状、対抗できるのはリーゼだけだ。
そうミツバは思っていた。
けれど。
「義母上。あなたは賢明だ。父のどの妃よりも……。ですが、今回に関しては一つだけ間違っていることがあります」
「……聞いてもいいかしら?」
「……私は私の弟妹を信じております。ルーペルトは北部に、クリスタは南部。それぞれ逃れたならば、しっかりと対抗勢力となるでしょう」
「……アルノルトの死が公表されたわ。兄の死を知って、それでも二人は戦うことを選ぶかしら?」
ミツバとしても後悔はある。
アルノルトが生きていることはフィーネの反応で察しがついた。
けれど、それには意味があると思った。
だから、黙っていた。だが、そのせいでクリスタとルーペルトは戦意をくじかれたはず。元々、二人はリーゼが動けないときの保険だった。だが、もう機能しない。
二人に伝えておけば……。
しかし、そうすればアルノルトが生きていることがバレかねない。
アルノルトの思惑をめちゃくちゃにしてしまう可能性がある。
どちらが良かったのか。
ミツバにはわからなかった。
「……私は自分の目で見るまで信じたりしません。ヴィルヘルムのときもそうでした。そして、この目で兄の遺体を見たからこそ、今のヴィルヘルムは偽物だろうと考えています。死者は蘇ったりしませんし……蘇ったなら、ヴィルヘルム兄上は……自責の念で表舞台に出てこないでしょう。そういう信条ですので、私は敵の発表など鵜呑みにはしない。だから、アルノルトは生きていると信じておりましたし、義母上の態度からだいたい察しはつきます」
「……ルーペルトとクリスタは違うわ」
「そうでしょう。ですが……あの二人は私の弟妹です。城から出たことがない温室育ちの皇族ならまだしも、帝都で二人とも死線を越えてきました。辛くても、悲しくても……それでも、と前に進む意志を持っております」
リーゼは静かに、しかしはっきりと告げる。
そのすぐ後に、一人の兵士がやってきた。
「元帥閣下。出陣の準備が整いました」
「よろしい」
リーゼは兵士に一言告げると、立ち上がる。
だが、すぐには動かない。
「義母上、一つ賭けをいたしませんか?」
「どんな賭けかしら?」
「ルーペルトとクリスタ。二人が対抗勢力として立ち上がるか、どうかを賭けましょう」
「……私は難しいと思うわ。今でも」
「私は二人が立ち上がると思います」
「賭けは成立ね。では、何を賭けるのかしら?」
「二人が一定期間、動かない場合、私はどのような状況でも戻って来ましょう。将軍として……矜持を捨てて皇族として帝都に向かいます。私が負けた場合は、それが対価です」
「では、あなたが勝ったら?」
「……とある男との結婚を考えています。ただ、私は無骨な女ですので……どのように結婚を申し込めば相手が喜ぶかわかりかねます。ですので、義母上にはそれについて一緒に考えていただきたいのです。それと、父上の説得も」
リーゼの言葉にミツバは苦笑する。
そして。
「……娘のそんなお願いを断るわけにはいかないわ。なんとしても……この賭けは負けないとね」
「ご安心を。私は勝てない賭けはしません。では、失礼します。義母上。すぐ戻りますので」
そう言ってリーゼは蒼いマントを翻して、出陣したのだった。
■■■
「アルノルト兄上が死んだ……」
北部にたどり着いたルーペルトは、シャルロッテによって保護されていた。
だが、アルノルトの死を聞き、一日中、部屋の中でうずくまっていた。
死ぬわけがない。誤報だ。敵の言うことなんて聞くな。
そう思うと同時に。
あの飄々として、いつでも計算通りという風のアルノルトですら死んでしまうという現実に震えていた。
自分なんか、もっと簡単に死ぬだろう。
相手はヴィルヘルムであり、エリクだ。
勝てるわけがない。
「僕なんて……」
ルーペルトにとって、年長の兄と姉たちは恐怖の対象であり、同時に憧れだった。
そして決して及ばない存在でもあった。
状況のまずさもルーペルトを落ち込ませる要因だった。
北部に入ったルーペルトは、檄文を北部諸侯に飛ばした。もちろん、シャルロッテの策だ。
けれど、北部諸侯には動きがない。
彼らも迷っているのだ。
ヴィルヘルムが本物なのか、偽物なのか判断がつかない。
北部の冷遇はヴィルヘルムの死によって始まった。ここでルーペルトにつけば、今度は冷遇ではなく滅亡が待っている。
領主として、彼らも安易な判断を下せないのだ。
ましてや旗印は皇族の最年少、ルーペルトだ。
果たしてついていっていいのかどうか。
彼らの背を押す実績や強さがルーペルトにはなかった。
それがよりルーペルトを落ち込ませる。
「……きっと、父上やレオナルト兄上がやってくる……それまで待っていればいいんだ……」
マイナスな思考の果て。
ルーペルトは他力本願なことを口にした。
それじゃ駄目だとわかっているが、そういう思考になってしまう。
元々、自信が欠如気味なルーペルトにとって。
ここでリーダーシップを発揮しろというのは無理難題といえた。
けれど。
「……」
大丈夫。
父上たちが来るまで待てばいい。
そういう結論に達する度に。
それでも、という自分の声が心の中から湧き上がってくる。
しばし考えこんだあと。
ルーペルトは部屋を出た。
そして。
「……ゴードン兄上の最期の場所をみてみたい」
かつて恐怖した兄の最期の場所。
どうしてそこなのかわからない。
それでも、行くべきだと思ったのだ。




