第六百八十五話 トラウゴットの怒り
藩国。
自国に戻っていたトラウゴットは、ヴィルヘルムの演説を聞き、怒り狂っていた。
「各貴族に動員命令を! かき集められるだけ兵士を集めるであります!」
「しかし、陛下! 今、攻撃を仕掛ければ侵攻となります!」
アルノルトの後任として藩国の宰相となったブラッドは、荒れるトラウゴットを必死に諫める。
だが。
「だから侵攻すると言っているであります! 今すぐ、帝都を落とす!」
「陛下! どうかご冷静に! 一方的に攻撃を仕掛けては、我が国だけが悪者となります!」
「帝都にいるのは我が兄の偽物! それがこともあろうに、帝国の皇太子になったであります! それだけでも許しがたいのに、帝都にいた我が母や義姉上の行方も不明! 後宮が燃えたという情報も入っているであります! さらに! 我が弟に黙祷を捧げたであります! 何も知らぬ者が! 自分の家族を愚弄した! これで冷静でいられるほど自分は大人ではないであります!!!!」
今にも剣を抜きそうな剣幕で大声を出すトラウゴットに、ブラッドは少し怯む。
ここまで本気の怒りを見せるトラウゴットは初めてだ。
たとえ刺し違えてでも殺す。そんな風に見えた。
しかし、宰相として国を背負う立場にあるブラッドは、怯んだままというわけにはいかなかった。
「お怒りはごもっともです……しかし、宰相として認めるわけにはいきません」
「ならば、宰相を解任するまで!」
「あなたが王だ! 好きにすればいい! しかし、ここは通しません! どうしても通るというなら、私を斬って行かれるがいい! 私は敬愛する前宰相に学びました! 国家の重責を背負う宰相は、ときに王の意向にも逆らわなければいけないということを! 怒りが収まらないというなら私を斬ればいい! そうすれば少しは冷静さを取り戻せるでしょう!」
ブラッドの挑発に思わずトラウゴットは、腰の剣に手をかける。
冷静さを欠いているトラウゴットにとって、ブラッドは自分の邪魔をする厄介者に見えた。
だが、それでも剣は抜かなかった。
「ぐぬぬ……」
「陛下は……藩国の王なのです。ご家族のことはごもっともです。しかし、藩国の民のこともお考えください」
「……」
トラウゴットは顔をしかめながら肩を震わせる。
そして。
「……すまないであります」
「陛下はご賢明であられます。今はまだ、その時期ではありません」
疲れた様子でトラウゴットは剣から手を離し、ゆっくりと玉座のほうへ戻っていく。
出陣を諦めたトラウゴットに対して、ブラッドはほっと息を吐く。
そんな玉座の間に一人の女性が入って来た。
「お話は終わりましたか?」
「これはマリアンヌ様……」
「マリアンヌ……」
トラウゴットの妻である王妃マリアンヌだ。
玉座で疲れた様子のトラウゴットの隣に来ると、マリアンヌはその手を握った。
「偽物のヴィルヘルム皇子にとって……あなたは要注意人物です。だからこそ、あの演説は挑発の意味もあるはず。あなたを怒らせて、侵攻させたいのでしょう」
争う気はないと正式に表明したヴィルヘルムに対して攻撃を仕掛けるということは、専守防衛の大義をヴィルヘルムに与えるということだ。
冷静になればトラウゴットにだって、そんなことはわかる。
だが、それでも。
「自分は……母上や義姉上が心配であります……弟や妹も……無事に逃げられたのか……不安であります……」
「当然です。あなたは優しいですから……その優しさに付けこんでいるのでしょう」
震えるトラウゴットをマリアンヌは優しく抱きしめる。
その目は優し気だったが、目の奥には怒りが渦巻いていた。
冷静だからといって、怒っていないというわけではない。
マリアンヌとて、ヴィルヘルムのことは殺したいほど憎んでいた。
優しい自分の夫を挑発し、侵攻させようとしている。
それだけで憎むには十分だった。
けれど。
「勝てぬ戦はできません……ほかの勢力の動きを待ちましょう。怒りを感じているのは我々だけではないはずです。幸い……皇帝陛下と連合軍は健在です。皇帝陛下のお戻りまで、戦力を温存しておきましょう」
■■■
「フランシーヌ陛下、この件についてですが……このような形となりました。問題ないでしょうか?」
王国。
王都が消失し、有力な貴族の多くが消息不明となった王国を立て直すには、早急に王が必要だった。
そのため、アンセムの姉であるフランシーヌ王女が暫定の王として即位した。
異議を唱える者はいなかった。
フランシーヌの背後には残存する連合軍がいた。
一戦交えようと思うような貴族はいなかったのだ。
そして、そんなフランシーヌを補佐する宰相には。
「すべてお任せします、ドロルム宰相。政治の知識は私にはありませんので」
そう言ってフランシーヌは笑みを浮かべる。
とはいえ、差し出された書類には目を通す。
知識はないが、それでも努力はしなければいけないからだ。
「感謝いたします、陛下……しかし、自分のような者でよかったのですか……?」
自信なさげにエドモン・ドロルムは告げる。これで幾度目かわからない問いだ。
フランシーヌは即位するにあたって、貴族を重用しなかった。
家格で人事を決めている場合ではなかったからだ。
王国は王都を失い、戦火に焼かれた。
連合軍に降伏した都市が多いため、復興が不可能というわけではなかったが、それでも被害は甚大。
優秀な人材を登用する必要があった。
そんな中、連合軍をまとめていたヴィンフリートから推薦が入ったのだ。
ドロルムは優秀である、と。
連合軍総司令アルノルト・レークス・アードラーと渡り合ったという実績もあった。
それだけでフランシーヌはドロルムを宰相に据えた。
「自信を持ってください、宰相。あなたはアンセムが一目置くアルノルト皇子と渡り合ったのですから」
「渡り合ったなど……あれはアルノルト殿下が手加減をしてくださったからであって……」
「それでも、あなた以上の知恵者は王国にいません。どうかアンセムが戻るまでの間、非才な私を支えてください」
「……誠心誠意、お仕えいたします」
ドロルムはできるだけ頭を下げた。
宮廷儀礼など知らない。
少し前まで王族どころか高位の貴族とも話したことはなかった。
今でも自分より相応しい人がいると思っている。
けれど。
祖国の危機にあって、王に頼られたのだ。
ここで頑張らなければ臣下の意味がない。
今こそ、王国が一丸となるとき。
ドロルムは静かに下がると、自分の部屋へと戻り、大量に積み上げられている書類を処理し始めたのだった。
そんな中、一つの知らせがドロルムの下へ飛んできた。
それは、見たこともない亜人がエルフと共に現れたというものだった。




