第六百六十六話 深まる混迷
帝国のゴタゴタ。
それは残る大陸三強の一角、皇国にとって願ってもないことだった。
けれど。
「帝国国境の軍は一時退かせよ。今は刺激するときではない」
皇王ミハイル・アーラ・ソーカルはそう指示を出した。
それに対して、ミハイルの息子であるグリゴリー・アーラ・ソーカルは異を唱えた。
「お待ちください、陛下。今こそ帝国に介入する好機では?」
グリゴリーはミハイルの次男。
すでに齢五十を超える皇子だ。
要職を歴任する皇国の重鎮であり、近年は帝国との外交を担当してきた。しかし、継承権はない。
すでに次期皇王は決まっているからだ。
「そんなことを言っているからお前には玉座を譲れなかったのじゃ」
ミハイルはため息を吐くと、視線を自分の隣に向ける。
自らの隣には二十代の青年が立っていた。
亡き長男の忘れ形見。
皇国の次期後継者。
皇太孫エフィム・アーラ・ソーカルだ。
「お前はわかるな? エフィム」
「はい、陛下。悪魔を討伐しに向かった連合軍、その連合軍の動向はいまだ不明です。混乱した帝国に付け入るような真似をすれば、我が皇国も大陸の敵と認定されかねません」
大陸の敵と認定され、攻め込まれた王国は大損害を被った。
悪魔がいたにもかかわらず、王都まで攻略されたのだ。
皇国なら耐えきれると思うのは自信が過ぎる。
「そのとおりじゃ。帝国のゴタゴタなど放置しておけばいい。情勢が落ち着くまで皇国は動かん。そうすれば、最も被害の少なかった国として戦後の主導権を握れる」
ゴタゴタに乗じて帝国に攻め込んだところで、帝国の東部国境を破れる保証はない。
いまだ帝国東部国境守備軍は健在なのだ。
動かぬことこそ、皇国の利となる。
「しかし! 私はエリク皇子と協力して、ヴィルヘルム皇子を匿っておりました! ヴィルヘルム皇子決起の際には支援を約束しております!」
「本物か偽物かは置いておいて……支援を約束したのはお前個人じゃ。皇国ではない」
皇王はそういうとグリゴリーの意見を却下した。
グリゴリーは唇を噛み締めながら、静かにそのまま下がっていく。
そんなグリゴリーを見ながら、皇王はため息を吐く。
「厄介事を抱えたかもしれんのぉ」
「ヴィルヘルム殿下が本物なら問題ありませんが、偽物の場合、厄介事になりますね」
「その通り。エリク皇子の謀略ならまだしも、悪魔が関わっていたら皇国の立場がなくなる。早めに対処せねばいかんかもしれん」
「しかし……」
エフィムの言葉は続かない。
どういえばいいかわからなかったからだ。
宮廷魔法師団は皇国における近衛騎士団だ。王の手駒であり、護衛。
さらにはその宮廷魔法師団を送り込むため、大規模な転移を行ったばかり。それにより皇都の魔導師の大部分が消耗してしまった。
現在、皇都の戦力は大きく弱体化している。
本来、王権を強化するための戦力をことごとく消耗したからだ。
対処というのは、不穏分子であるグリゴリーを排除するということ。
だが、それを成すための戦力が今の皇都にはない。
「エフィム。万が一に備えて皇都を脱出せよ」
「承知しました。陛下はどうされますか?」
「儂を殺すほど愚かでもないじゃろうて。儂が城に残れば、玉座を奪い取った簒奪者じゃ。人は集まらぬ。お前は皇国西部の貴族を頼れ。あそこなら忠誠心の厚い貴族が多い。それに……帝国を背にすれば挟まれる心配もないじゃろう」
「姫将軍は動かないでしょうか?」
「動くような迂闊な将軍ならとうの昔に抜いておる。間違いなく動かぬよ。それに帝国は他国に構う暇はあるまい」
ミハイルはそう言うと、エフィムを目で自分の前に来るように促す。
敵は待ってはくれない。
動くならば早く動かねば。
エフィムは頷くと、ミハイルの前で跪いた。
そんなエフィムにミハイルは代々継承してきた王冠を与える。
「頼んだぞ、エフィム」
「お任せください、皇王陛下」
「どうしても抗えないならば……アードラーを頼ればよい。在位中、常に争い続けたからこそわかる。あれほど味方にしたら信頼できる者たちはそうはおらぬ」
ミハイルの言葉にエフィムはただ頷くのだった。
そしてエフィムは隠し通路を使って、その場をあとにする。
この通路に関しては、次男であるグリゴリーも知らない通路だ。
見送ったあと、ミハイルはしばらく玉座に座っていた。
そして。
「エフィムはどちらに? 皇王陛下」
「逃がしたに決まっておろう」
「ご自分は逃げなかったと……さすが父上というべきでしょうか」
多数の兵士を連れたグリゴリーがやってきた。
城は制圧されたのだろう。
今は防衛力が極端に落ちている。
さほど難しいことではなかった。
「ヴィルヘルム皇子を本物と信じておるのか?」
「どちらでもいいのです。私は皇国を手に入れ、彼は帝国を手に入れる。まずはそれだけです」
「やれやれ……その程度だから玉座は譲れなかったのじゃ。この玉座に座るということは、アードラーと渡り合うということ。お前にはその気概と資質に欠ける」
「気概も資質も欠けていて結構。事実として、これより私が玉座の主です」
そう言ってグリゴリーは兵士に命じて、ミハイルを連れていかせた。
そして憧れの玉座に腰かけたグリゴリーは告げる。
「帝国のヴィルヘルム皇子に伝えろ。予定通り、とな。混乱が収まったら、皇国として声明を発表する。我々はヴィルヘルム皇子を歓迎する、とな」
そう言ってグリゴリーは笑う。
すべては計画通り。
グリゴリーは帝国の次期権力者の支持を取り付けられ、ヴィルヘルムは皇国の権力者の支持を背景に、より前へ進める。
どちらにも利がある。
向こうもこちらを利用するだろうが、自分も向こうを利用すればいい。
「エリク皇子と、長年懇意にしてきた甲斐があるというものだ。エリク皇子の基盤は皇国。我々を斬り捨てることはできまい」
エリクが外務大臣として注力したのは皇国との関係性。
その交渉役だったのがグリゴリーだ。
エリクがたしかな実績を保てたのはグリゴリーのおかげといってもいい。
ゆえに。
「次は我々が甘い汁を吸わせてもらう番だ」
言いながら、グリゴリーは玉座に深く腰かける。
後日、皇太孫エフィムが諸侯に号令をかけて、反乱軍を結成。それに合わせて、グリゴリーは、連合軍が悪魔と共に消失したことを発表し、大陸の秩序を取り戻すことを宣言。
帝国に舞い戻ったヴィルヘルム皇子を支持し、今後の大陸の安定のために協調路線を取ることも宣言した。
これにより皇国は内乱状態に突入する。
大陸の情勢はまた一つ、混迷したのだった。




