第五百九十八話 一人
戦場には雨が降り始めていた。
地面はぬかるみ、そこに血が流れて行く。
それでもまだ勝敗はついていなかった。
帝国軍による逆攻勢。
それに対して王国軍も全軍攻勢で迎え撃った。
剣を剣で受け止めるようなこの対応は、両軍に多くの被害を出した。
とくに被害が多かったのは互いに主力を配置していた中央軍。
ぶつかり合った当初、中央は王国軍優勢であった。
大将であるレオがアンセムと一騎打ちを行っているため、指示を出すのがレオでなかったからだ。レオの補佐に当たる将軍たちも無能ではないが、アンセムが相手では分が悪い。
しかし、ぶつかり合いが始まってから数時間。
徐々に帝国軍も押し返し始めていた。
理由は明確だった。
「第三小隊! 左の援軍に向かえ! 第七小隊は一時後退! 部隊を再編制しろ!」
矢継ぎ早に指示が飛ぶ。
泥まみれになりつつ、レオはしっかりと戦況を把握していた。
僅かな時間で、弱った場所を見つけ、そこに部隊を派遣する。
そして崩れそうな部隊は下げる。
前線に出ているからこそ、レオは前線の変化を敏感に感じ取ることができた。
ゆえに帝国軍は持ち直すことができたのだ。
レオは指示を出し終えると、深く息を吐き、走り始める。
同時にアンセムも走ってきており、二人はすれ違い様に互いを斬りつけた。
レオは右肩、アンセムは頬に軽い傷ができる。
だが、二人は気にしない。
すでに二人の体は傷だらけだった。それでも二人は下がらない。
わかっているからだ。
この一騎打ちに負けたほうの軍が崩れる、と。
しかし。
「そろそろ疲れが見えてきたようだな! レオナルト!」
「はぁはぁはぁ……そちらこそ、肩で息をしているのでは?」
言葉を交わしながら、二人は剣を振るう。
力任せな攻撃ではなく、互いに技術を凝らした攻防。
幼い頃より剣技を学んできた二人らしい戦いだった。
だが、アンセムはそれだけではない。
レオと一瞬、距離が離れる。
レオは再度斬りかかろうとするが、アンセムはぬかるんだ地面を蹴り上げた。
泥がレオの顔にぶつかり、一瞬視界を奪う。
すぐにレオは泥を拭うが、アンセムはその間に呼吸を整え、万全の状態でレオに突進する。
レオもそれに応戦しようとするが、アンセムは力いっぱいにレオの剣に自分の剣を当てる。
そして、剣が使えないレオをそのまま蹴り飛ばした。
城で育ったレオとアンセム。
上流階級の中で培われた剣技が二人の根本だ。
しかし、アンセムはそこに戦場で培われた実戦スタイルも組み込んでいた。
レオとて幾度も戦場を経験した猛者だが、アンセムはレオよりも長い戦歴があり、レオほど恵まれた状況で戦ってきたわけじゃない。
少数で多数に挑むことも多々あった。華々しい戦いばかりをしてきたわけじゃない。
泥に塗れて戦ってきたのだ。
そこでは綺麗で洗練された剣術だけでは生き残れなかった。
その経験がアンセムの軍略を支え、今の戦いを形成していた。
そんなアンセムとしても、余裕があるわけではなかった。
「しつこい……!」
アンセムはすぐに立ち上がったレオを見て、思わずそう吐き捨てた。
もう数時間以上、一騎打ちは続いている。
ほぼ互角ではあるが、疲れが見えるのはレオのほうだ。
そろそろ体力が切れてもおかしくない。
それなのにレオは食い下がってくる。
しかも、始まった当初は一騎打ちをしながらの指揮はできなかった。
アンセムが長年かけて身に付けた、その術をレオはもう模倣していた。
ゆっくりとこちらを真似しながら、近寄ってくる。
間違いなく、開戦当初は自分のほうが高い段にいた。けれど、今は背後まで段を上がる足音が聞こえてきている。
ふざけた話だ。
自分の研鑽がこうも簡単に模倣されるなど。
自分の月日がこうも簡単に縮められるなど。
アンセムにとって味わったことのない感覚だった。
これまでアンセムより優れた者はいた。
剣技に優れた者、知略に優れた者、政治に優れた者。
皆、追い抜いてきた。
そして置き去りにしてきた。
追い抜く者はおろか、背後に迫る者すらいなかった。
だからアンセムは前だけを見ていた。
目標にしていたのは帝国の皇太子ヴィルヘルム。
いずれは追い抜くと決めていた。しかし、同時に自分ではまだ及んでいないという意識もあった。
そのヴィルヘルムの弟がゆっくりと自分の後ろから迫ってきている。
まるで自分も通過点だといわんばかりに。
「はぁっ!!」
レオの振るう剣をアンセムは一歩下がって避けた。
そんなアンセムに対して、レオはさらに剣を伸ばした。
それを剣で受けると、レオが右拳を振るってきた。
似たような技。
だからアンセムは体をずらして、レオの剣を無力化すると、返す刀でレオの右拳を狙う。
剣を持つ者に打撃を振るうのは、危険だ。
剣で受けられた大抵の者は負傷する。どんな物でも破壊できる拳を持つのは規格外の化物だけなのだから。
そんなことを思っていたアンセムだが、突如としてレオの拳が開いたのを見て、舌打ちをする。
レオの右手には泥が握られていた。
さきほどの意趣返しのつもりなのか。
とっさにアンセムは首をそらして泥を避ける。
すべて奇襲技。わかっていればどうとでも対処できる。
いきなり使うから効果があるのであって、模倣しただけでは効果は薄い。
だが、体をそらし、首も動かしたアンセムの動きは可動域として限界だった。
そんなアンセムの胸倉を掴み、レオは自分に引き寄せながら頭突きを見舞った。
「がっ……!!」
予想外の攻撃にアンセムはよろけて、数歩後ずさる。
体勢を崩されていたことはもちろんだが、レオらしくない荒っぽい攻撃だったせいか、対処が遅れた。
「どうです? 頭の硬さには自信があるんです……はぁはぁ……」
「舐めた真似を……!」
アンセムは鼻血を拭いながら呟く。
ダメージ自体はあまりない。
それでも攻撃が通り始めている。
レオナルトは目に見えて疲労しているのに。
たしかに成長している。
これ以上、成長する前に倒さねばならない。
そう思うのに、倒しきれない。
アンセムの心に焦りが浮かび上がった。
やるべきことがたくさんあった。
王太子への対処、レオが待つ援軍への対処、アルへの対処。
そして目の前のレオへの対処。
敵は帝国。人材の宝庫であり、戦力も膨大だ。
わかっていた。すべてを一人でさばき切ることはできない、と。
それでも自分がやるしかない。
そう言い聞かせてきた。
事実、アンセムが一人で抱え込むことが一番効率的だった。
すべて一人でやれば、他者の失敗の後始末をしなくて済む。常に最適解を出し続けられる。
ただ、そんなことは長く続かない。
一人ですべてはこなせない。
せめて、自分の代わりをできる者がいれば。
アンセムはそう思わずにはいられなかった。
贅沢はいわない。
自分と同等とは言わない。ただ、肩を並べてくれればそれでいい。
そんな存在がいれば、どれほど楽だろうか。
自分にも……信じられる兄弟がいれば。
レオを見ているとそう思えてならない。
「皮肉なものだな……兄弟同士で帝位を争わせる帝国の皇子たちより、長子相続を重んじている王国の王子のほうが仲が悪いとは……」
呟きながらアンセムは剣を構えた。
だとしても。
戦意を挫く理由にはならない。
諦める理由にはならない。
隣に立つ者はたしかにいない。だが、慕ってくれる部下がいる。
彼らへの責任がアンセムにはあった。
レオに向かってアンセムは攻撃を仕掛ける。
まだ体は動く。気力だって衰えていない。
けれど。
疲れは感じない。
それがどういうことかわかっている。
そんなわけがないのだ。レオを見ればわかる。
これだけ長時間戦って、疲れないわけがない。
これはきっと薬の効果。
切れれば終わり。
理解しているからアンセムは渾身の猛攻を仕掛けた。
それに対してレオは受けて立った。
雨の勢いはどんどん強まる。
しかし、決着はまだつかない。