第五百七十五話 アンセムの想い
「聖女様が北部の都市群に向かったという情報が入りました。どうなさいますか? アンセム殿下。今、北部に向かえば聖女様を奪い返すことができるやもしれませんが?」
王国軍の本陣。
バランドの言葉を聞き、アンセムは小さくため息を吐く。
「貴様もまだレティシアに拘るか?」
「かつては共に戦いました。王国の英雄です。取り戻せるなら取り戻すべきかと。帝国から大義を奪うこともできます」
「今更、レティシアを奪い返したところで帝国の大義が消えることなどない。帝国の中では、我々は聖女を裏切った卑怯者。そういう王国が作り上げられている。ブレることはないだろう」
「無理やり帝国に協力させられていたということにすれば……」
「いい加減にしろ」
静かにアンセムはバランドに告げる。
声の調子が変わったことに気付き、バランドは押し黙る。
「国を救った英雄を捨て駒に使ったのは、他ならぬ我が国だ。受け入れろ。レティシアが王国を離れたのは彼女の責任ではない。我が王国の責任だ。いらぬと捨てておいて、必要となったら戻って来いなどと……そんなことを言うくらいなら卑怯者のほうがまだマシだ」
吐き捨てるようにアンセムはつぶやく。
卑怯者と言われることはアンセムにとっては屈辱だった。
それでも卑怯者と呼ばれることをアンセムは受け入れていた。
それだけのことをしたのだと、自覚があったからだ。
自分は関係ないと思うのは簡単だった。
実際、計画したのは王太子。アンセムは関係なかった。
しかし、同じ旗を掲げている。王国という括りで見れば同類。
止められなかった時点で同罪。
アンセムはそう思っていた。
「申し訳ありません……しかし、このままでは北部の都市群は……」
「放っておけ。離反する者が誰もいないと思うほど、俺は人を信じてはいない。計算外ではない」
「しかし……! このままでは北部から回り込まれます!」
「回り込んでは来ない。北部を離反させ、回り込んでくると思わせる。帝国がするのはそれだけだ」
「ど、どうして断言できるのですか……?」
「離反した北部都市群を率いるならば、離反させた者を旗印にする必要がある。レオナルトはレティシアを婚約者として扱っているらしい。そのようなことはしないだろう」
婚約者。
その言葉を使ったとき、アンセムは顔をしかめる。
王国を救った英雄。四宝聖具の使い手。
自分がベッドで横たわっているとき、レティシアは見事に王国を救ってみせた。
何もできない自分に対しても、レティシアは常に敬意をもって接してくれた。
多くの者がアンセムから離れ、レティシアの下に行ったが、レティシアは驕らず、常に王国のことだけを考えていた。
嘘偽りなき本音を述べるならば――好ましい女性だと思っていた。
いずれ自分が健康になり、王国の玉座に座る機会があるならば。
横にはレティシアがいてほしかった。
そう幾度も想像していた。
しかし、動けるようになった時。レティシアはもう王国にはいなかった。
レティシアの窮地を救ったのは帝国の皇子であるレオナルトだった。
王国の卑劣な策から、レオナルトは見事にレティシアを救い出し、居場所をなくしたレティシアに自分の隣という居場所を提供した。
それについて、アンセムは心の底から感謝していた。あのままレティシアが犠牲になっていれば、後悔の毎日だったのは言うまでもないからだ。
本当にレティシアに助けが必要な時。自分は何もできなかった。
選ばれなかったことは仕方ないと諦められる。
だが、しかし。
「レティシアは率いることを希望するだろうが……レオナルトは決して認めない。帝国が聖女と国王のためという大義を掲げているから、というのもあるが……自分の婚約者が祖国と積極的に戦うことを許容するとは思えん」
自分なら認めない。
絶対的な一手ならまだしも、戦局が少し良くなる程度の効果しかないのだ。
認められるわけがない。
「しかし、レオナルトがもしも何がなんでも勝利を目指してきたら……」
「そうだとするなら、その時に対応するだけだ。困るほどのことじゃない。心配するな。ただ……レオナルトはアルノルトの弟だ。仲もいいそうだ。あの兄を見て、そのような小物に育つわけがない。レオナルトのことは良く知らん。しかし、レティシアのことは良く知っている。あのレティシアが伴侶にと選んだ男がレオナルトだ。そして兄のアルノルトとは戦場でぶつかり合った。互いに命を狙った仲だ。下手な友人よりはよほど知っている。だからわかる。レオナルトは目先の有利のために、大事な物を危険に晒したりはしない。もしもそうならば……俺の敵ではない」
そう言ってアンセムは話は終わりとばかりに、前線から送られてきた報告書に目を通し始めた。
これ以上は無駄だと判断したバランドも、無言で一礼して天幕を出ていく。
それを見送ったアンセムは、少し間をおいてから自分の側近の名を呼んだ。
「ミレーヌ」
「――ご用でしょうか? 殿下」
静かに現れたのは金髪の舞姫、ミレーヌだった。
諜報活動に長けるミレーヌは、この戦争中もアンセムにとって目であり、耳であった。
そんなミレーヌを呼び出したアンセムは静かに告げた。
「帝国軍に噂を流してほしい」
「どのような噂でしょうか?」
「王国軍が聖女レティシアの身を狙っている、と。必ずレオナルトに伝わるように流せ。できるな?」
「か、可能ですが……レオナルトは聖女様を前線に立たせるようなことはしないのでは……?」
「しないからといって、放置していても面白くはない。せいぜい慌てて、心を乱してもらうとしよう。ない話ではないからな。向こうも信じるしかあるまい」
「……王太子がレティシア様を狙うと危惧しておられるので?」
「それに対する備えでもある。アムスベルグが護衛についていて、万が一があるとは思えんが、こちらの計画にレティシアの存在は入っていない。無理やり攫ったところでマイナスなだけだ。しっかりレオナルトには守ってもらう」
「殿下らしいですね」
ミレーヌの言葉にアンセムは何も言わない。
了承の意を示し、ミレーヌは姿を消す。
誰もいなくなった天幕。
そこでアンセムは深くため息を吐いた。
「小物であれば、まだ俺にチャンスがあったはずだが……よりにもよってアルノルトの弟が相手ではな。いつもいつも、運がない男だ、俺は」
みっともないことをアンセムは嫌う。
一人の女に固執するのはアンセムにとってはみっともないことだった。
ましてや相手が別の男の隣にいると決めたならば。
大人しく身を引くべき。
それがアンセムの理想だった。
しかし、人には感情がある。
どれだけそうするべきだと思っていても、感情はなかなか言うことを聞かない。
「せめて……戦場でだけは負けられないと思うのはいささか子供すぎるか?」
苦笑しながら、アンセムは報告書に目を通すのだった。