第五百四十九話 病毒
「むぅ……ここをこうして……」
「では、俺はこうだな」
「ああっ!!?? 妾の駒が!?」
悲痛な叫びをあげるオリヒメの目の前で、結界で模した騎士の駒が破壊される。
破壊したのは俺の騎士の駒。こちらも結界で模したものだ。
普通の魔導師からすれば、高度すぎて理解できないだろう。
本来、結界というのは形を変えるものじゃない。まず硬さ。次に広さだ。
柔軟性なんて磨く必要性がない。ただ、俺やオリヒメともなると、そこそこ自由に変形させることができる。
「えっと……ただいま、お師匠様」
「早かったな。上手くいったか?」
「うん……接触には成功したよ。それより……どうして仙姫様は結界の中にいるの?」
クロエの顔にはよくわからないと書いてあった。
そりゃあそうだろう。
クロエが出発する前、オリヒメは俺を閉じ込めて喜んでいた。
オモチャにする気満々で、煽って楽しんでいたわけだ。
しかし。
「本人に聞け」
「仙姫様、どうしたんですか?」
「よくぞ聞いてくれた! あの時は妾も若かった。シルバーを結界に閉じ込め、得意気になっておった。だが……すぐに気づいたのだ。結界の外にいると、妾だけが喋っていて、なんか空しいな、と」
「……」
「この仮面男は結界の外で、妾が何をしても反応しなかった。妾が楽しむはずだったのに、なんだか妾が頑張って反応を得ようとしているようだった。それは違うと思い、妾も結界に入ることにしたのだ。これで立場は対等。話も弾むというもの」
「つまり、お師匠様を結界に閉じ込めた時は楽しかったけど、すぐに楽しくなくなったってこと……?」
「そうだな。端的に言えば、飽きた」
オリヒメらしいといえばらしいだろう。
結界越しで俺を煽っても、俺が不快になるだけだ。
最初は反応が面白かったようだが、徐々にそうでもないなという感じに移行していった。
そして俺と結界で遊ぶために結界内に入ってきた。
どこまでマイペースというか、天真爛漫というか。
最初は結界強度を競う遊びだったが、勝ち目がなかったため、こうして結界で駒を作る遊びに変えた。
これで理不尽なパワープレイはできない。
「というわけで、少し待っているがよい! 今からシルバーを負かすのでな!」
「やれるものならやってみろ」
既に盤面は支配した。
ここから逆転はできまい。
そう思っていた、のだが。
「妾の王は無敵!」
突然、オリヒメの王が動き出して、俺の駒を破壊し始めた。
王だけ強化したのだ。
「おい……」
「破壊できるものなら破壊してみるがよい! 王がやられないなら負けはない! ふっはっはっはっ!!」
こいつにルールを守るということを期待した俺が浅はかだったか。
盤面を支配していた俺の駒はどんどん破壊されていく。
やがて、俺の王とオリヒメの王だけが残った。
そして。
「トドメだ!」
「いや、もう終わりだ」
俺はオリヒメの王を踏みつぶす。
それを見て、オリヒメが悲鳴をあげた。
「あああああああっ!!?? 妾の王が!? 何をする!?」
「王を破壊しただけだが?」
「駒同士で戦うというルールだったはず! ルール違反だぞ!」
「先にやったのはそっちのはずだが?」
「ぬぅ……でも直接攻撃とは卑怯ではないか!」
「では、引き分けだな」
そう言って俺は勝負を切り上げる。
あんなパワープレイに負けたとあっては、俺の沽券にかかわる。
引き分けなら俺のプライドも痛まない。
強く出れないオリヒメは、しぶしぶ引き分けの申し出を呑んだ。
「あとちょっとだったのに……」
「お師匠様ってどうしてそんなに大人げないかなぁ」
「負けるのは嫌いなんでな。それで? 向こうはどんな条件を出してきた?」
「どうして条件を出してきたってわかったの?」
「追われるのも大変だろうからな。何か条件を出して、やめさせようとするはずだ。拠点ごとの移動だからな。どうしたって追うほうが有利だ」
「その通り。すごいうんざりした様子だったよ。そのうえで、長老はお師匠様が仮面を取れば信用するってさ」
クロエの言葉に俺は苦笑する。
信用ということを語るのであれば、向こうの申し出は至極真っ当だ。
顔を隠している奴は信用できないだろう。
「どうしてもか?」
「訳があるみたい。話をするなら森の中で、森の中に入れるなら仮面を取れって」
「そういうことなら仕方ないな。受け入れよう」
俺の言葉にクロエは目を見開き、オリヒメは驚きの声をあげた。
「なにぃ!? 仮面を外すのか!?」
「悪魔に関することは大陸の問題だ。俺が顔を隠すのは個人の問題。天秤にかけられんだろう」
五百年前の大戦に参加した者と話す機会はこれから先、もう巡ってこないかもしれない。
ここで得られる情報は大切だ。おそらく俺が思っている以上の情報を長老は持っている。
かつての大戦で何があったのか。
その生き証人だからな。
「妾も見てもよいか!?」
「ついて来るな」
「なぜだ!?」
「興味本位の奴はお断りだ」
そう言って俺はオリヒメに結界を解かせて、歩き始める。
そしてクロエとジークに視線を向ける。
「一緒に来るか?」
「ううん、あたしはいいよ」
「興味はないのか?」
「興味はあるけど……必要なら教えてくれるでしょ?」
「それもそうだな。お前はどうする?」
「オレも遠慮しておくぜ。オレの代わりに、人間への戻り方も聞いてきてくれ」
「意外だな。ついて来ると思ったが?」
ジークは当事者だ。
一緒に話を聞くと言えば、俺は断われない。
だが。
「オレが話を聞かせるなら堂々と見るが、話をするのは長老だ。権利は長老にある。謎は取っておくことにするぜ」
「筋の通った奴だな。まぁ、そういうことなら無理強いはしない。では、行ってくる」
そう言って俺は黄昏の森へと転移した。
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黄昏の森に行くと、森の中から長老が出てきた。
「俺が仮面を外せば森に入れてくれると聞いたが?」
「仮面を外して、無事が確認できるかどうかだ」
「無事とは?」
「我らは人を避けて隠れていたわけではない。五百年もの間、我らが外界との接触を避けてきたのは悪魔の権能から逃れるためだ」
「五百年も逃げているのか? どんな権能だ?」
「病毒の権能だ。魔王の側近の一人、悪魔ウェパルは魔界に帰る際、黒い雨を降らせた。それは毒の雨だった。ただ、強い血を持つ者には効かない毒だ。だが、その毒の厄介な点は少しずつ成長するということだった。まずは弱い者から、やがては強い者へと病として移っていく。ウェパルの特性を良く知っていた我らは隠れることを選んだ。やがて毒は我らに迫るだろうと予想できたからだ」
長老の話を聞き、俺は静かに息を吐く。
できるだけ落ち着くように、深く吸って、深く吐く。
そして。
「どうして対策しなかった?」
「対策のしようがなかった。症状自体は風邪とほとんど変わらないうえに、毒を完全に消し去るには、ウェパルを殺すしかない。だが、奴は魔界に帰った。誰の体に毒が隠れているかもわからない。黒い雨は大陸各地で降ったからだ。そして、我らは隠れることを選び、魔王と戦った主だった者たちは復興を選んだ。可能性はいくらでもあった。隠れた我らが解決策を見つけるかもしれない。毒の成長が遅々として進まないかもしれない。あの時点では何の脅威でもなかったのだ」
「俺は多くの書物を読んでいるが、そんなことは書かれていなかったぞ?」
「伝わっていないのは仕方あるまい。知っていたのは一部の者だけ。その一部も、悪魔が去ったあとの混乱期で命を落としている。さぁ、理由がわかったのなら仮面を外せ。見れば無事かどうかわかる」
長老に促されて俺は銀の仮面を取る。
すると、長老は少し目を見開き、やがて沈痛な表情を浮かべた。
「やはり……アードラーの血族か……」
「帝国第七皇子、アルノルト・レークス・アードラーだ。俺は病にかかっているか?」
「血に潜んでいる。だが、アードラーならば話は変わってくる。さぁ、森の中へ。我らよりアードラーの血のほうが強いのでな」
そう言って長老は踵を返す。
そして。
「五百年でアードラーまで届くとはな……予想では千年はかかると思っていたが」
「治す方法はないのか?」
「我らもずっと研究してきた。皇帝を含めた当時の王たちは、我らにすべてを託してくれたのだ。だが、間に合わなかった……人類の命運もあとわずかだな」
「どういう意味だ?」
「ウェパルが放った毒は、最も強い血筋を絶やすためのものだ。その名はアムスベルグ。アードラーに届いたならば、そのうちアムスベルグにも届くだろう。聖剣の担い手を失えば、人類の戦力は大きく削がれる。その時を――悪魔の残党たちは待っている」