第五百四十話 マリアンヌ発つ
アルがシルバーとしてミヅホにいる頃。
ミアは皇帝の勅使という立場で藩国にいた。
「なるほど……皇帝陛下は本気で王国と一戦交える気ということですね」
「はいですわ」
皇帝からの話をマリアンヌに伝えたミアは、マリアンヌの表情を窺う。
ミアの来訪はかなり極秘だった。
知っているのは藩国の一部の者のみ。
そういう風に、事前に知らせが藩国側に飛んでいたからだ。
その時点でマリアンヌも覚悟していたのだろう。
ミアの話を聞いても驚いた様子はなかった。
「……皇帝陛下は関わりたくないなら、関わらなくてもよいと仰せですわ」
「あくまで命令ではないということですね。しかし、命令ではないにしろ……義理の父からの申し出です。断わるわけにはいきません」
「無理をしていませんか……ですわ」
ミアはマリアンヌを気遣う。
藩国がトラウゴット王の下に一つになってから一年。
それはつまり、帝国からの侵攻から一年しか経っていないということだった。
仕方がないことだった。
あのまま放置すれば、より多くの人が死んだだろう。家族よりも国の未来を取ったのだ。
だが、その考えはどうであれ、事実としてマリアンヌは自ら帝国を引き入れた。
裏切り者と呼ぶ輩も少なくない。
トラウゴット王の下、不正がどんどん正され、藩国が豊かになり始めても、その声はなくならない。
マリアンヌは侵攻に関わるということが、どういうことか身をもって知っている。
マリアンヌの要請で連合王国が動けば、侵攻に晒される王国の民からは怨嗟の声が届くだろう。
「無理ですか……たしかに無理はしています」
「それなら……」
「けれど、私は王妃です。無理をして、我慢をするのが役割だと最近わかってきました」
「私の王妃像とは真逆ですわ……」
「どんな言葉を投げかけられても、民には笑顔で手を振らなければいけません。どんなに気分が落ち込んでいても、周りの者は励まさなければいけません。藩国は他の国と違います。王の力はまだ弱く、次々に困難が立ちはだかる。私は王妃。困難に立ち向かう人たちの象徴でなければいけないんです」
マリアンヌはそう言ったあと、苦笑する。
そうは思っていても、まだまだうまくできないでいる。
王妃は理想の王妃像を演じる必要があるのだ。
そして理想の王妃像は、王が理想的であればあるほど、よりハードルが高くなる。
「ミアさん、藩国は変わりましたか?」
「そうですわね……変わったかと」
少し見ただけだが、街には活気があった。
かつて笑顔を浮かべていたのは貴族たちだけ。
その貴族たちも自分たちより上の貴族の顔色を窺っていた。
国は王と一部の貴族の物であり、ほかはそのおこぼれにあずかっているだけ。
民は貧しさに苦しみ、常に子供が飢えで泣いていた。
物乞いは後を絶たず、生きるために犯罪に走る者も多かった。
街には孤児が溢れ、活気とは縁遠かった。どの街も、だ。
しかし、今は活気がある。
他国の商人が足を運び、皆が活力を持って前に進んでいる。
多くの店が出来て、楽しそうな声が聞こえてくる。
トラウゴットが王になる前。
藩国の民は王族にも貴族にも絶望していた。
自分たちから搾取するだけ搾取して、何も与えない存在だったからだ。
けれど、今は違う。
あちこちでトラウゴット王を褒める声が聞こえてくる。
上辺だけの言葉ではない。
本心からの声が溢れていた。
「藩国は変わりつつあります。今までが異常で、これが普通の国家なのかもしれませんが……それでも良くなってきているんです。けれど、独力で成し遂げたわけではありません。帝国の大きな支援があればこそ、藩国は急速に良くなっているのです」
「その支援の見返りとお考えですの……?」
それならやめたほうがいい。
ミアはそう思っていた。
帝国からの支援はたしかにありがたい。
だが、その恩をマリアンヌ一人が背負うのはおかしなことだからだ。
しかし。
「そこまで自分を大きな存在と思ったことはありません。帝国から頂いた恩は、これから藩国が少しずつ返していくものです。けれど、今はまだ返せない。だから、そうなれるようにと頑張る人がいます。私のすぐ近くに。私はその人のために無理をします」
「マリアンヌ様……」
「私はトラウゴット王の妻です。これから藩国の歴史では、あの方は藩国史上最高の王と語られるでしょう。その横に立つ王妃として、恥ずかしくない自分でありたい。連合王国を焚きつけた悪女と言われても構わない。藩国を、そして私の夫を思えば、この協力要請は是非にと、受けるべきこと。どうか皇帝陛下にお伝えください。マリアンヌが連合王国の参戦を勝ち取ってみせる、と」
ミアにとってマリアンヌのイメージは王女時代のモノだった。
しかし、それが古いモノだと自覚しなければいけなかった。
姿形は同じでも、今のマリアンヌは王女時代とは別人といってよかった。
「……変わりましたわね、マリアンヌ様」
「結婚は人を変えますから」
ニッコリと微笑むマリアンヌに、ミアは貫禄を感じざるをえなかった。
■■■
数日後。
マリアンヌは藩国の港にいた。
「あまり無理をしてはいけないでありますよ? 船酔いには気を付けて、疲れたら休むであります。そんなに急いでも仕方ないでありますからね」
「はい。ご心配なく」
夫であるトラウゴットもマリアンヌを見送りに港まで来ていた。
トラウゴットがすべてを知ったときには、船が手配されており、止めようがなかった。
その時の怒りは凄まじく、思わず父であるヨハネスに抗議の手紙を送ったほどだった。
自分がないがしろにされたことを怒っているのではなく、妻に重責を背負わせるのが嫌だったのだ。
「心配であります……適当に用件を伝えてくるだけでいいでありますよ。戦力が足りないなら、自分が出陣するであります」
「そういうわけにはいきません。それにあなたでも竜騎士の代わりは難しいでしょう?」
「そんなことはないであります! 自分、竜騎士を倒したこともあるでありますよ! 必要とあらば、自分が先陣を切って、王国軍を粉砕するでありますよ! こうして、こうであります!」
剣を振るう振りをしながら、トラウゴットは大真面目に語る。
しかし、トラウゴットも内心はわかっていた。
帝国が連合王国を頼みとするのは、藩国の戦力が頼りないからだと。
帝国軍が大規模な軍を用意する以上、半端な軍では援軍にはならない。
「あなたの武勇を疑ってはいません。その武勇を発揮するのは、また次の機会に。皇帝陛下は竜騎士団をご所望なのです」
「そうでありますな……」
クスクスと笑うマリアンヌを見て、トラウゴットは項垂れた。
もう何を言っても止められないことを良く理解していたからだ。
「では、行ってきます。連合王国軍の補給の用意をお願いします」
「わかったであります。ちなみにどれくらいの戦力を引き出すつもりでありますか?」
「それはもちろん……竜王と全竜騎士を引き出すつもりです」
「それは……結構な数でありますな」
さすがに無理だと思いつつ、トラウゴットは曖昧に笑う。
そんなトラウゴットに手を振りながらマリアンヌは船に乗った。
こうして連合王国への使節として、マリアンヌは出発したのだった。