第五百二十五話 想像の敵
「敵五千の内、一千が突撃! 辺境貴族軍は包囲にかかっています!」
「なんだ……? あれは? 殿か?」
思わず困惑の声をあげてしまった。
敵は後退の動きを見せていた。
砦を一撃で落とすことができなかったからだ。
相手に時間はない。効果的な攻撃を連続して行うという戦術は使えない。
一撃で陥落させる必要がある。
だから最後の部分で堪えられるような指揮を取った。
それがわかったからマルセルは後退を選択した。おそらく軍の再編成をするんだろう。
だが、マルセルならわかっているはずだ。
砦の戦力を厚くして、辺境貴族軍への戦力を減らせば、最強の航空戦力であるフィンが砦に配置できる。
あくまでこれはジュリオのための戦争だ。
だから俺は勝ちつつも、ジュリオの支持者も見捨てられない。
外の辺境貴族軍を捨て駒にしつつ、砦を防御すれば勝てるだろう。
だが、それで勝っても意味はない。
そのため、俺はフィンを派遣していた。
辺境貴族軍が戦えるようにラース隊長たちも派遣した。
全面的な勝利を得るためには、そうするしかなかった。わかっているからマルセルは殊更に辺境貴族軍側に戦力を傾けた。
フィンさえいなければ同数でも落とせるという自信があったからだろう。
「しかし、落とせなかった……」
だから軍の再編成のための後退。
普通ならそう考える。
だが、相手の一千が突出してきている。
あれはなんだ?
「おいおい、どうすんだ!? 足並みが乱れてんなら反撃していいんじゃないか!?」
こっちにだって余裕はない。絶え間なくマルセルの奇抜な攻撃を受けてきたからだ。
ギリギリのところで耐えるということは、常に背水の陣ということだ。
誰かが崩れれば、陥落する。そんなところで俺たちは戦っていた。
肉体よりも精神的に追い詰められていた。
ジークの提案は妥当だ。
ここで敵に打撃を与えれば、マルセルの勝ち筋をほぼ消し去ることができる。
攻め時かもしれない。
今すぐ砦から打って出れば、相手の主力に壊滅的な被害を与えられるかもしれない。
そうすれば砦を奪われようが、マルセルの一千が攻撃してこようが関係ない。
それくらい敵は乱れていた。
だが、それでも。
「ピント伯爵に至急伝令! 深追いはするな! こちらは打って出ない!」
「殿下!? 今は攻め時では!?」
状況を一緒に見守っていたジュリオがそう訴えてきた。
そうだろう。
誰もが相手のミスだと思う状況だ。
軍を掌握できてなければ、ありえることだ。
しかし、相手は普通の敵じゃない。
「こちらが落ちないと見て、奇策に出た可能性がある。あれが偽装であり、罠だった場合、砦を出た俺たちは一網打尽だ」
「ですが……」
「動かなければ圧倒的優位に俺たちはある。危険を冒す必要はないさ」
動いてほしいのは向こうであり、こっちではない。
零れてきた球を拾うために、体勢を崩す必要はないのだ。
その球がいくら高価だろうと。
いずれそれに匹敵する球が手に入る。
そう言い聞かせ、俺は自分を納得させた。
正直、九割以上の確率で敵のミスだ。
だが、残す一割に満たない確率でマルセルがほくそ笑んでいる。
いつもなら攻撃していただろう。
しかし、どうしてもマルセルの顔が脳裏に浮かんで、自制してしまう。
そんな状態では攻め込めない。
「厄介な相手だよ、本当に」
きっと、俺は今、大きな勝利を得るチャンスをふいにした。
マルセルに勝ち筋を残してしまったのだ。
だが、それでも安心している自分がいる。
焦って勝利に飛びつかないのは、マルセルと渡り合えているということだからだ。
まだまだ俺は冷静さを失ってはいない。追い詰められてはいないということだ。
このまま時間稼ぎをすれば勝てる。
そう俺は安心できたのだった。
■■■
「パストーレ公爵め! 何が任せるだ! 勝手なことを!!」
公爵軍の本陣でマルセルは椅子を蹴飛ばしていた。
パストーレ公爵の独断による攻撃は、容易く敵の辺境貴族軍に受け止められた。
なにせ攻めたのは一千。対して、相手は航空戦力を含んだ二千だ。
上空からフィンの攻撃を受け続け、包囲殲滅の危機にあった。
それをアドルナート伯爵率いる残る四千が救った。
だが、被害は思いのほか大きく、突撃した一千を救うために少なくない数の兵士が傷を負った。
「マルセル様、お体に障ります……どうか落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるか!? 仮にも王になろうという者が言葉を違えたのだ! 任せるといいながら、勝手な行動をした! これからこの軍は疑心暗鬼に包まれる! 相手の公子を見たか!? あの戦況の中、味方を鼓舞していた! あれこそ王の姿だ! 噂は広まるだろう! 公爵の失態と公子の勇猛さがな!」
これは代理戦争。
ジュリオの代わりにアルノルトが、パストーレの代わりにマルセルが軍の指揮を取っているだけで、本質的にはジュリオ対パストーレの戦いだ。
任せるならばすべて任せてしまえばいい。
向いてないことをする必要はない。王が完璧でなくても、周りが補佐する。それでいい。
だが、パストーレ公爵はそれが出来なかった。
「手柄が欲しかったのでしょう……マルセル様、器が小さい者は人に任せるということができません。どうかご理解を」
「理解はしている。しているつもりだった! だが、結果的に暴走を許した! そして戦局は一気に不利となったわけだ! すべて俺の責任だ!」
マルセルは傍に控えるリゼットにそう告げたあと、怒りのあまり、机を右手で叩いた。
微かに右手に血がにじむ。
「マルセル様! どうかお体を大事になさってください! すぐに手当てを!」
「……どうして俺の怒りが収まらないかわかるか……?」
「あまりにパストーレ公爵が無能だからでは?」
「無能なのはわかっていた……俺が許せんのは俺自身。そしてアルノルトだ」
「アルノルトが何かしましたか?」
「何もしなかった……絶好の好機に待機を貫いたのだ! 俺の策かもしれんと思ってな! この俺を買いかぶったのだ! 奴の想像の俺のほうが有能だった! 戦場でこんな屈辱を受けるのは初めてだ!」
手当を受けながら、マルセルは己の怒りを吐き出していく。
ため込んでも仕方ないからだ。
こういう姿を見せるのは近しい者だけ。
リゼットもその一人だった。
だが、そのリゼットからしてもここまで怒るマルセルはほとんど見たことがなかった。
「ここは王国ではありません。マルセル様でも上手くいかないこともあります。仕方ないことかと」
「奴にとってもここは異国だ!」
「ですが、一度訪れています。そして功績を残した。双黒の皇子の人気は高いのです。無名のマルセル様とは違います。ジュリオ公子が指揮を任せるのも、信頼があるから。マルセル様には時間がなかっただけです」
「ならば敗因は人徳の差か……」
「まだ負けてはいませんし、マルセル様にも素晴らしい人徳があります。貴族の多くはマルセル様を支持したではありませんか。パストーレ公爵には理解できなかっただけですし、あの男に理解できるような人徳はアルノルト皇子も持ち合わせていないでしょう。それにそれは恥ずべきことではありません」
「そうか……」
マルセルはリゼットの言葉に何度か頷いたあと、せき込み始めた。
急いで薬を飲むが、なかなか咳が収まらない。
ここ数日、不眠不休で動いてきたからだ。
「横になってください。体調を戻しませんと……」
「時間がない……急いで攻撃の準備をしなければ……」
「大丈夫です。とにかく今はお休みを」
マルセルの体が睡眠を欲しているのは明らかだった。
リゼットはマルセルを横にさせると、布団をかける。
眠気に抗えず、そのままマルセルは眠りに落ちたのだった。