第五百十四話 南部国境守備軍
アルバトロ公国の北側。
帝国の南部国境付近。
そこには帝国が築いた国境守備軍の砦があった。
アルバトロ公国では攻め落とすことができないほど堅牢な砦であり、そこには数万の国境守備軍が詰めていた。
「砦将、ここだったか」
そんな砦を預かるのは国境守備軍を統括する将軍、砦将のプラネルトだった。
齢六十を超え、戦歴も四十年以上。
帝国軍でも最古参の一人だった。
そんなプラネルトは、砦から外を眺めるのが好きだった。
「おお、これは。ディートヘルム皇子」
「皇子はやめてくれ。もう公爵だ」
「はっはっはっ、儂にとってはいつまでも皇子は皇子です」
プラネルトもかつては中央で活躍した将軍だった。
幾度も皇帝と共に出陣し、アルの叔父であるディートヘルムがまだ皇子だった頃に、剣の指導や軍事面での指導も行っていた。
「変わらないな、あなたは」
「皇子は……いえ、皇弟殿下は変わられましたかな?」
「多少な。自らが皇帝位にはふさわしくないと察してから、死に物狂いで兄上を皇帝位につけた。いくつもの役職を兄上は用意してくれたが、私は身を引いた。権力争いはこりごりだったからだ」
「後悔しているようですな?」
「ああ、している。私が帝都にいれば……もう少し兄上に楽をさせてやれたかもしれない」
隠居した身で、帝国の変化をずっとディートへルムは眺めていた。
流れてくる情報は不穏なものばかり。
それでも優秀な者たちが兄にはついている。
自分が動けば、余計な混乱を招くだけ。
そう信じて隠居に徹していた。
日がな一日、読書に費やす生活が性に合っていたというのもある。
だが。
「兄上にとってヴィルヘルムはすべてだった。自分の理想を託せる息子だった。その息子を失い、兄上は帝国の慣習に抗えなかった。愛した子供たちを争わせ、勝ち残った者に玉座を譲る。これまでの皇帝と同じようにせざるをえなかった。あの時、帝都に残り支えるべきだったと後悔している」
「帝位争いは権力争い。皇帝の弟君であるあなたが中立を保つことは難しいでしょうな。助けられた部分もあったでしょうが、皇帝陛下の重荷になった部分もあったはず。物事とはそういうものです」
メリットしかないというのはありえない。
誰かの利益は誰かの不利益。
誰かの正義は誰かの悪。
良いこともあれば、悪いこともある。
多くの戦場を駆け抜けたプラネルトは、そのことを悟っていた。
そして帝位争いを勝ち抜いたディートヘルムも、それはわかっていた。
厄介事に巻き込まれたくないならば。
誰からも敵視されたくないならば。
何にも関わらずに生きていくしかない。
それでよいと思っていた。
これまでは。
「動けば誰かの不利益となる。それが嫌だから動かなかった。だが、誰かの不利益になるとわかっていても……助けたい者がいる」
「アルノルト皇子殿下ですか……」
「あの子はかつての私と同じだ。私が兄上を帝位につけようとしたように、あの子もレオナルトを帝位につかせようとしている。助けてやりたい。そう思ったのだ」
「だから私のところへ?」
「ああ、南部国境守備軍を臨戦態勢に移してほしい。国境付近の公国貴族に圧力をかけるのだ」
「良き策かと思いますが、帝国の国境を預かる者として皇帝陛下の弟君のご命令とはいえ、独断はできませぬ」
「すべての責任は私が取る。圧力がかかるだけで、アルノルトには大きな助けとなる」
「皇帝陛下か、もしくは皇帝陛下から権限を与えられた者の要請でなければ私は軍を動かせません。国境守備軍はその名のとおり、守備の軍。あくまで侵攻させないための軍です。それが皇帝陛下の命もなく、侵攻する素振りを見せるなどあってはならないことなのです」
「すべて承知している。だが、状況は一刻を争う。公国はすでに内乱状態だ。アルノルトだけでは挽回は難しい」
ディートヘルムの頼みにプラネルトは目を瞑って考え込む。
ディートヘルムは賢い男だ。
その男がすべて承知しているとまで言って、願い出ている。
断わるのは簡単。
なにせプラネルトの言い分のほうが正しいからだ。
しかし、正しいことが最善とは限らない。
プラネルトはそれもよく理解していた。
そんなプラネルトの耳に警戒を告げる笛の音が届いた。
「何事だ!?」
「騎馬が一騎、こちらに接近してきます! いつでも迎撃可能です!」
「許可があるまで撃つな! これは厳命だ!」
「はっ!」
知らせに来た兵士にそう伝え、プラネルトは目を凝らす。
確かに一騎、砦に近づいてきている。
公国の者ならば、この砦に近づくことの意味を理解しているはず。
公国から帝国に人が入るという情報もない。
想定外の来客だ。
城壁に上り、兵士たちが弓を引き絞る。
号令さえかければいつでも射殺できた。
兵士たちの間に緊張が走る。
そんな中、馬に乗る少年が声を発した。
「あ、アルノルト殿下より皇弟殿下への書状をお預かりしてまいりました! どうかお目通りを!」
「弓を下ろせ! 門を開けろ!」
プラネルトがそう指示を出した時には、その場にディートヘルムはいなかった。
門まで走っていったのだ。
兵士たちに警戒を命じながら、プラネルトも門へと向かう。
そこでは馬に乗っていた少年が、勢いよく水を飲んでいた。
ほとんど休まずに来たのだろう。
服は汚れ、馬も疲れきっている。
「殿下、書状にはなんと?」
「アルノルトからの要請だ。私との連名という形で、南部国境守備軍には演習をしてほしい、と」
「なるほど……大使の要望というわけですか……」
ディーへルムの手にはアルが持っていた皇帝の指輪があった。それは大使の証だ。
いくら大使といえど、国境守備軍を動かす権限はない。
だが、言い訳にはなる。
「伝令!」
「はっ!」
「全軍に伝えよ! これより全軍をもって大規模演習を行う! 準備が出来次第、公国側にて陣を張れ!」
「了解いたしました!」
プラネルトの指示を聞き、ディートヘルムはホッと息を吐く。
南部国境守備軍が演習という名目で動けば、公国の貴族は慌てる。
実際の脅威として、帝国の武力が見えれば判断も変わってくる。
「君がラウルだな?」
「は、はい!」
「良く書状を届けてくれた。だが、もう一働きしてもらいたい」
「な、なんなりと!」
「君の実家に私と一緒に来てくれ」
それはラウルにとって予想外の言葉だった。