第五百十二話 マルセル
都を制圧し、城に拠点を置いたパストーレ公爵は兄である公王を軟禁して自ら玉座に座っていた。
ようやく手に入れた玉座。
しかも脅かす者はほとんどいない。
長かった。
目を瞑り、パストーレ公爵はこれまでの苦労を思い返していた。
だが、それを邪魔する者がいた。
「玉座を手に入れて満足といった顔だな? パストーレ公爵」
「マルセル大使か……」
面倒そうにパストーレ公爵は顔をしかめる。
パストーレ公爵も自分がこの場にいるのは、マルセルのおかげだということはわかっていた。
しかし、マルセルの要求には嫌気がさしていたのだ。
「何度来ても同じだ。出陣はせん」
「今、打って出れば勝利を決定づけることができるのにか?」
「負ければすべてを失う。相手は弱小だ。このまま時間をかけて追い詰めればよい」
「それをすれば相手に逆転の時間を与えると説明したはずだが?」
「ここからの逆転はない」
パストーレ公爵はそう断言した。
国内の貴族のほとんどがパストーレ公爵につくか、日和見を決め込んでいるからだ。
その日和見を決め込んでいる貴族たちが相手側についたとしても、自分たちの優位は揺るがない。
「逆転がない? 帝国には南部国境守備軍がおり、ロンディネとの国境には十分な戦力が待機している。どちらかが動けば一気に形勢は逆転するんだぞ?」
「帝国が国境守備軍を動かすわけがない。理由もなければ、メリットもない。王国との戦いを有利に運びたいから我が国の支援が欲しいのに、隙を晒すような真似をすれば本末転倒だ。ロンディネとの国境にいる軍はなおさら動かない。ロンディネ軍が目の前にいるからな」
「ロンディネが帝国のために軍を退くとは考えないのか? 南部国境守備軍が国境付近の貴族を脅すとは? 今なら九割勝てる。だが、時間を掛ければすぐに五分に持っていかれるぞ?」
「憶測にすぎん。もういい。儂は疲れた」
そう言ってパストーレ公爵は玉座から立ち上がって、下がっていく。
マルセルはその後ろ姿を苦々し気に見つめて、踵を返す。
「リゼット! 公爵の息子のバルナバはどこにいる!?」
「都の娼館に通っています」
「こんな時に女遊びか!? 肝が太いことだな!」
報告を聞いたマルセルは深くため息を吐いた。
都と王の身柄を抑え、あとは圧倒的な兵力差を背景に公子を打ち負かせばいい。
あと一押し。
それなのに、もう勝った気になっている。
「助力がなければ玉座に手が届かぬわけだな! 父が父なら子も子だ! 兄である公王は自ら人質になることで、公子に大義名分を与えたというのに! あの公爵とその息子は虫けらを踏みつぶすこともできない! 放置すればその虫に家が食い潰されるというのに、だ!」
「マルセル様、どうか落ち着いてください。お体に障ります」
「これが落ち着いていられるか! 相手はあのアルノルト・レークス・アードラーだぞ!? レオナルトの勝利の裏には常に奴がいる! 侮った者の多くはあの世に送られた! 俺は彼らの二の舞はごめんだ!」
「それはそうですが、ここは帝国ではありません。マルセル様が思う通りにならないように、あの皇子も思う通りにはなりません」
「だから困るのだ! こちらの駒はあの公爵とあの息子だ。一方、向こうには公子がいる。旗印の比べ合いになれば勝ち目はない!」
そこまで言い切ったあと、マルセルの体がフラリとよろける。
慌ててリゼットがその体を支えた。
「どうかお休みください。いくらアルノルト皇子が策士だろうと、ここからの逆転は容易ではありません」
「奴が……ロンディネを放置するわけがない。情報では蒼鴎姫と共に出航したはず……今頃、ロンディネだろう」
「そちらにも我々は手を打っているではありませんか」
「万全ではない……ロンディネが動く前にケリをつけなければ……」
「では、民に流言を流しましょう。民が不安になればなるほど、公爵も不安になるはず。暴動を恐れて決着を早めるでしょう」
「そういった手しかないか……こんなことなら俺の言うことには従うという誓約書でも書かせるべきだった……」
「誰もがマルセル様のように先を見通せるわけではありません。他者の愚かさまでマルセル様が背負う必要はないのです……」
リゼットの言葉にマルセルは苦笑いを浮かべた。
他者の愚かさを背負う必要はない。普通の者ならそうだろう。
だが、それが許されない者もいる。
「その言葉に甘えるわけにはいかない……すべてを背負う必要が俺にはある」
「ですが……」
「この体が動くうちに……勝ち筋を作らねばならないのだ……姉上の安全と……〝我が王国〟の未来がかかっている」
そう言ってマルセルは深く息を吸い、懐から小瓶を取り出す。
そこには小さな粒状の何かが入っていた。
それを一粒取り出し、マルセルは飲み込む。
すると、マルセルは胸を押さえて苦しそうに呻いた。
だが、徐々に呼吸が整っていく。
「よくわからん劇薬がなければまともに動くことができぬ体だが……やれることはある」
「殿下……」
「その呼び方はやめろ。バレれば、俺が不在の間に攻め込まれる。行くぞ……この国を味方に引き込まなければ帝国と全面戦争になる。そこで勝ちを拾うのは簡単ではない。ここで……勝利を得るぞ」
「お任せください。いざとなれば、私が公子を暗殺します」
「やめておけ……俺を兄と同類にするな……どれだけ策を弄そうと、卑怯者に成り下がる気はない」
そう言ってマルセルはゆっくりと歩き始めた。
その後ろ姿を見て、リゼットは悲し気に目を伏せた。
かつてはまた歩く姿が見たいと願った。
毒を盛られてから、ベッドで寝たきりだったからだ。
だが、ある程度の健康を取り戻すための薬は、毒を盛った者から届けられた。
ずっとマルセルの世話をしていた姉を人質にするという書状と共に。
なぜ、この人がここまで頑張らなければいけないのか。
あまりにこの世は理不尽だ。
リゼットの目にうっすらと涙が浮かんだ。
だが。
「泣くな……悪いことばかりではない」
「良いことなどありますか……?」
「かつて……帝国には勝てないかもしれないと思った年上の男がいた。目標だった……。結局、俺は毒に倒れ、奴は流れ矢に倒れた……。しかし、機会は訪れた。俺は万全ではなく、相手はその男の弟ではあるが……勝るとも劣らぬ男だ。相手にとって不足はない」
言い切ったマルセルは不敵な笑みを浮かべる。
かつて、聖杖を手にしたレティシアにすべてを託し、失ったはずの情熱がその胸にはあった。
堂々と胸を張って歩き出した男の本当の名は、 アンセム・ド・ペルラン。
王国の第三王子、その人だった。