第三百九十六話 忌々しい空
夜。
フィーネはツヴァイク侯爵家の屋敷のバルコニーへ出て来ていた。
「どうですか? 景色は。リーゼロッテ様」
「フィーネか。どうした?」
バルコニーには先客がいた。
軍服姿のリーゼロッテだ。
元帥だけに許された青いマントを纏う姿はいつもどおりのように見えるが、フィーネには少し違って見えた。
だからフィーネは紅茶セットをもってバルコニーまでやってきたのだ。
「夜風が寒いかと思い、紅茶を持ってきました。よければ一緒に飲みませんか?」
「気が利くな。もらおう」
バルコニーに立っていたリーゼロッテは、近くにあったテーブルへ向かう。
フィーネはそのテーブルの上で手早く紅茶を淹れて、リーゼロッテへ差し出した。
温かい紅茶を飲み、リーゼロッテはホッと息を吐く。
そしてゆっくりと空を見上げた。
「今日は星が綺麗ですね」
「そうだな……だが、私は嫌いだ」
「なぜですか?」
その問いには二つの意味があった。
なぜ嫌いなのか?
なぜ嫌いなのに見ているのか?
どちらの意味も理解して、リーゼロッテは苦笑しながら紅茶を飲んだ。
「人生の中で最悪の経験がこんな星空の日だった。正直、忌々しい空だ」
「……それは悲しいですね」
「悲しいか。どうしてだ?」
「星はいつも空にあります。雲が隠すことがあっても、ひょっこりと顔を出す。だからいつも思い出すことになってしまう。それは……悲しいことではありませんか?」
「……ああ、忘れられないな」
リーゼロッテはそう言って自分の手のひらを見た。
リーゼロッテにとって人生最悪と思える日は二度あった。
どちらもこんな星がよく見える夜だった。
一度目は母である第二妃アメリアが亡くなった時。
報告を聞いて帝都に戻り、すでに冷たくなっていた母を抱いたのはこんな夜だった。
二度目はこの北部で起きた。
小競り合いという報告だった。それでも嫌な予感がして全力で北部に走った。
そしてこんな星空の下で、流れ矢で亡くなった皇太子を抱きしめた。
間に合わなかった。
どうしようもできなかった。
「戦場で幾度も勝利を収めてきたが、あの日感じた無力感を忘れたことはない」
「ご自分が許せないのですね……」
「……女の身で剣を握ったのは誰かを守れる力が欲しかったからだ。しかし、守りたいと願った人たちを私は守れなかった。いつだって私は遅れてやってくる……」
「……帝都での反乱の際。誰もが駄目かもしれないと思った時。リーゼロッテ様は颯爽と現れました。いつだって遅れてくるなどと自分を卑下するのはおやめください。母も兄も救えなかったかもしれません。ですが、残った父や弟妹を救ったではありませんか」
「……そうだな。あの時、素早く行動できたのは……私の小さな勝利と言えるだろう」
リーゼロッテはまた紅茶を飲む。
するといつの間にか紅茶のカップは空になっていた。
すぐに気づいたフィーネはおかわりを淹れた。
「すまんな」
「いえ、慣れていますから」
「フィーネは……どこか母上に似ている。父上もそんな雰囲気を感じたからフィーネを選んだのだろう」
「第二妃アメリア様ですね。アル様の母上であられるミツバ様からも似ていると言われたことがあります。どのような方だったのですか?」
「……穏やかな人だった。常に人のことを気にかけ、尽くしていた。私が出陣するときは、怪我のないようにといつもお守りをくれた。妃の中で特別才能豊かなほうではなかったが……父から愛され、誰からも好かれた自慢の母だった」
「どれだけ妃が増えても第二妃への寵愛は薄れなかったと聞いています。皇帝唯一の寵姫。個人的な予想でしたが、とても優れた方なのだと思っていました」
「優れてはいない。忘れっぽくて、たまにお茶目で……だが、強い人だった。他者を守ることの大切さを教えてくれたのは母上だった」
「では、リーゼロッテ様の師匠でもあったのですね」
「師匠か……まぁそうかもしれんな」
笑いながらリーゼロッテは紅茶を飲む。
そして空を見上げた。
ちょうどその時。
雲が星を隠した。
それを見てリーゼロッテは立ち上がった。
もはやいる意味がなくなったからだ。
「では、そろそろ失礼するぞ。紅茶は助かった」
「そうですか……私はもう少しお話したかったのですが」
「また次の機会に取っておこう」
そう言ってリーゼロッテはその場を後にしようとする。
そんなリーゼロッテの背中を見つめながら、フィーネは問いかける。
「最後に質問をよろしいですか?」
「……美味い紅茶だった。その返礼として答えよう」
「ありがとうございます。では、お聞きします。今、この時に最悪の思い出をあえて思い出していた理由はなんでしょうか?」
「知れたこと。あの時の無力感と……激情を思い出すためだ」
「……その激情をリーゼロッテ様はコントロールできるのですか?」
「さぁな。しかし……ここでしか清算できないものではある。封印することはできん」
そう言ってリーゼロッテは自嘲気味に笑う。
批難されることも覚悟していた。
だが、フィーネの言葉は予想外なものだった。
「なるほど……ではリーゼロッテ様が過去と決着をつけられることを願っております」
「……責めないのか?」
「激情を抱くのは人の自由です。それを表に出し、他者を害せば批難の対象になるやもしれませんが」
「私はこの激情で藩国を焼く予定だが?」
「予定は未定です。まだリーゼロッテ様は行動しておりません」
「行動してからでは遅いとは思わんか?」
「そうかもしれませんが……そこは私の領分ではありませんので」
「領分だと?」
「人には人の役割があります。私はリーゼロッテ様とお話するまでが領分です。実際にリーゼロッテ様をお止めするか、もしくは別の方法を取るか。それをするのは私ではありません」
「誰の領分だと言うのだ?」
「さぁ? リーゼロッテ様が思いつく方がそうではないかと」
そう言ってフィーネはニッコリと笑うと紅茶セットを片付け始めた。
リーゼロッテは頭に浮かんだ人物の顔を消し去り、フィーネに背を向ける。
すでに激情を思い出した。
ここで清算するのだとリーゼロッテは決めていたのだった。




