第三百九十三話 宰相の影
「殿下方、お話が」
リーゼ姉上と補給について話をしているとき。
唐突に一人の男が部屋に現れた。
黒装束に身を包み、顔も黒い布で隠している。
身分を示す物は何もつけていない。
それでも俺たちは怪しむことはしなかった。
「宰相の影か」
リーゼ姉上がそう呟き、男のほうに向きなおった。
宰相の影。
それは宰相が裏で使う諜報員の隠語だ。
十一年前。
帝国には公然とした諜報組織があった。宰相直属の組織だった。しかし、王国との停戦協定でその組織の解体が条件に出た。
宰相がその諜報組織を使って辣腕をふるっていたからだ。
王国は幾度も煮え湯を飲まされたその組織を解体しろと訴えたわけだ。
宰相はそれをあっさり承知して、組織を解体した。
だが、すべて無くなったわけではない。
宰相の手足として動く者たちがいる。彼らが宰相の影だ。
しかし数は少なく、基本的には情報収集に専念しているため表には出てこない。
連絡員としてくること自体も珍しい。
「何事だ?」
「藩国貴族の調略は順調です。一週間後、藩国の王女をこちらに亡命させる手筈となっています。その後に攻め込んでいただきたいとのことです」
「こちらの判断で動いていいのか?」
「現場の判断は皇帝陛下の名代であるアルノルト殿下に委ねるとのことです」
「そうか。つまり、私はアルの下につくということだな?」
「形式的にはそうなります」
「だ、そうだが?」
姉上が面白そうに俺に話を振ってきた。
俺は肩を竦めつつ、答える。
「命令なら引き受けます。独断専行はやめてくださいね?」
「気をつけよう」
気をつけようってあたりがリーゼ姉上らしい。
責任を被せられる側からすると、しないと断言してほしいんだがな。
まぁ無理な相談か。
「王女の亡命は確実か?」
「こちらで手筈を整えています。受け入れる準備をお願いします」
「わかった。もしも不測の事態が起きた場合は?」
「すべてアルノルト殿下のご判断に委ねられます」
「やれやれ……面倒ごとは全部俺か」
例えば王女が死んだ場合。
もしくは藩国が気づいて攻め込んできた場合。
いろいろとパターンは考えられる。
それらに対応するために帝都へ確認を取る必要はないということだ。
与えられた権限は大きい。
しかし、責任もまた重い。
勝手にやれ、けど失敗したらお前のせいだ。
とんでもないことを俺は言われている。
自信がないなら断るべきだが……。
「一々帝都に確認取っていたら、リーゼ姉上が勝手に動くしな……」
「失礼な。私は指示には従うぞ?」
「間違っていた場合は?」
「間違った指示など指示とは言わん」
「……遅れた場合は?」
「遅い指示は指示とは言わん」
「はぁ……」
的確な指示以外、指示と見ないなんてどうかしてる。
ここらへんがリーゼ姉上に全権を預けない理由だろうな。
まぁ能力はあるし、相手は藩国だ。
厄介なことにはならないだろう。
「わかった。俺の判断と責任において動く」
「では失礼します」
そう言って宰相の影は消えていった。
これで何かあれば全部俺の責任だ。
気楽ではあるが、厄介でもある。
「宰相の影まで動員しているとなると、本格的に短期決戦で仕留める気ですね」
「王国側の戦線が膠着しているからな。レオとトラウゴットが交代したところで、あの膠着は変わらん」
「リーゼ姉上ならどうします?」
「王国側はかなり周到な準備の上でこちらを攻めてきた。王国側の国境から反撃するのは難しいだろう。だから違うルートを使う」
「藩国からのルートですか」
「そうだ」
藩国攻略を急ぐ理由は王国側に防衛の隙を与えないためか。
そうなると。
「父上は徹底的に王国を叩くつもりですか?」
「そうだろうな。帝位争いに乗じて王国は攻めこんできた。これを見逃せば続く国が現れる。それを防ぐ意味もあるだろうが……こちらには聖女がいる」
「……王国の力は半減し、こちらの味方につく者もかなり出る。その間に王国を帝国の支配下にということですか?」
「藩国のように属国というわけにはいかないだろうが、こちらに都合のよい王を担ぎ出すくらいはするだろう。好都合なことに攻め込んできたのは向こうだからな。徹底的にやっても大義名分はこちらにある」
「ですが……王国は連合王国と同盟を結んでいます。いまだに停戦の動きはありませんし、連合王国をどうにかしないと、藩国側からの侵攻も上手くいきませんよ?」
「それは私も感じている。しかし、父上は連合王国については問題としていないようだ」
「問題にしていない? どういう意味ですか?」
「どうも竜王子を高く買っているらしい」
その言葉の意味を俺は瞬時に理解した。
ウィリアムは敗戦の将として連合王国に戻った。
連合王国はウィリアムの首を差し出して、帝国と停戦すると読んでいた。
しかし、いまだに動きはない。
ウィリアムにすべてを押し付けるということに、連合王国が割れているということだ。
連合王国は大陸での領土を狙っている。
藩国を奪われたら、たとえ停戦がなったとしても帝国の動きを見過ごさないだろう。
一番いいのは味方につけること。
だが、野心に満ちた連合王国の王が味方につくとは思えない。
せいぜい中立。それも裏で何をするかわからない中立だ。
そういう状況の中、ウィリアムに期待するということは。
「あのウィリアムがクーデターを起こすとは思えませんがね」
「どうだろうな? 追い詰められたら人間、どうなるかわからんぞ?」
「追い詰めても決して裏切らなかった男です。父親に裏切られても、自分から裏切るとは思えません。もしもその可能性があるなら……ゴードン兄上が諭すくらいでしょう」
「では可能性はないということだな」
「あくまで俺の考えです」
もしも俺の知らない何かがあって、それがウィリアムを動かすなら大歓迎だ。
もしかしたら父上は知らない何かについて知っているのかもしれない。
まぁ、そこは俺の考えることじゃないか。
「とりあえず騎士たちの準備を始めましょう」
「そうだな。騎士たちにも心の準備が必要だろうからな」
そう言ってリーゼ姉上が部屋を去ったのだった。