第三百三十話 大切な疑念
数日後の夜。
俺は部屋の中で考え込んでいた。
シャルはいまだに答えを出さない。
あまり時間はない。ぐずぐずしていると向こうが動き出す。
「また難しい顔してる」
「誰のせいだと思ってるんだ?」
また声が聞こえてきた。
バルコニーだ。
そちらに視線を移すと、また柵に腰をかけたシャルがいた。
「一応言っておくが、危ないぞ?」
「平気平気」
そう言ってシャルは足をばたつかせてアハハと笑う。
いつ発作が来てもおかしくないというのに暢気なもんだ。
俺はバルコニーへ向かい、シャルに問う。
「はぁ……ここに来たということは答えは出たのか?」
「ほとんどね。ここに来たのは確認かな」
「確認?」
俺の言葉にシャルは頷く。
そして空を見ながら昔話を始めた。
「私の両親は幼い頃に亡くなって、お爺様が親代わりだったの。色んなことを教えてもらったわ」
「羨ましいかぎりだな」
「でしょう? それで、お爺様の教えにこんなのがあるの――疑念は大切にせよ」
「……ツヴァイク侯爵らしい言葉だな」
疑念はどこにだって生まれる。
本来、そんなものに囚われていては人間関係など築けない。
だが、確かに疑念は大切だ。
大切にした疑念だからこそ、それが解決できれば信用できる。
「どれだけ良い行いをしていても、疑念を抱かせ続ける相手は信用してはいけない。逆に行いが悪かろうと、自分が抱く疑念を解決してくれる相手は信用に値する。それがお爺様の教えよ」
「なるほど……つまり俺に疑念があると?」
「そうね。ここ数日、お爺様の側近に聞いていたの。隠居した人も含めて、お爺様が傭兵団を助けたことがあるかって」
「答えは?」
「誰も知らなかったわ」
星空に向けられていたシャルの目が俺に向く。
その目に映るのは疑念。
これを解決しなければシャルの信用は勝ち取れない。
「あなたは何者? シュヴァルツ」
辺境にある国の元貴族。
家臣団と共に傭兵団となった頃、ツヴァイク侯爵によって助けられた。
そういう設定だ。
誤魔化すのは簡単だ。しかし、それは新たな疑念を生むだろう。
本当にそんな貴族はいたのかどうか?
シャルでは調べようがない。その疑念を解決する術を俺も持ち合わせていない。証拠の品はさすがに用意していないからだ。
ツヴァイク侯爵は良い言葉を残すものだ。
貴族の当主としてこれほど為になる言葉はそうはないだろう。
疑念を大切にし、その疑念と相手がどう向き合うか。それで相手を測れ。そういうことだ。
主導権は相手にある。信頼が欲しければ自分の疑念を解決しろ。こちらは誠意を尽くすしかなくなる。
一切の疑念を抱かせない嘘は難しい。相手が疑ってかかるならなおさらだ。
厄介なことはこちらの向き合い方次第というところだ。
「何も言わないなら私も何も言えないわ」
「……君はちゃんとツヴァイク侯爵から学んでいたんだな」
「もちろん。跡を継ぐつもりだったもの」
そうだ。
俺の目の前にいるのはツヴァイク侯爵の後継者。
ローエンシュタイン公爵の孫娘でもあるが、その前にツヴァイク侯爵の薫陶を受けた後継ぎだ。
不義理はできないし、通じない。
「俺にも師がいる。その師からよく言われたよ。無理につく嘘ほど薄っぺらいものはないと」
「どういうこと?」
「自分が嘘をつけない。欺けないと思っているときはさっさと白旗をあげろってことさ」
うちの爺さんは帝位争いを勝ち抜いた皇帝だ。
その言葉は常に説得力がある。
人は他人には嘘をつけるが、自分に嘘をつくのは下手だ。
自分を誤魔化すには多大な労力がいるし、そんなことにエネルギーを使っているようでは他人を騙せない。
だから自分が無理だと思ったら無理なのだ。
嘘をつけない。嘘をつきたくない。
欺けない。欺きたくない。
心が無理だと言っているときに嘘をつくべきではない。
俺はゆっくりとフードを脱ぐ。
そして改めて自己紹介をした。
「俺は帝国第七皇子、アルノルト・レークス・アードラー。致し方なかったとはいえ欺いたことを謝罪しよう。シャルロッテ・フォン・ローエンシュタイン嬢」
「……なぜ誤魔化さなかったの? 誤魔化そうと思えば誤魔化せたはず。私が皇族を嫌いだと知っていて、なぜ身分を?」
「手段はあったかもしれない。けれど、誤魔化せないと思ってしまった。そうなった以上、素直に吐き出すほか手はない」
シャルの目は俺から離れない。
だが、そこにあった疑念はもうない。
ここでシャルが皇族など嫌いだと騒げば、俺に打つ手はない。
強引にでもローエンシュタイン公爵の下へ向かうほかないだろう。そんな手が成功するか疑問だが、シャルをここで欺くよりは簡単だ。
「……困ったなぁ」
「何が困ったんだ?」
最初にここで話したときは逆のやりとり。
シャルは苦笑しながら星空を見上げた。
「黒髪黒目の皇子を助けたっていつだかお爺様が言ってた。だからあなたが皇族だろうなって確信に近いものを持っていたの」
「侯爵も案外お喋りだな」
「お爺様は昔話が好きだったわ。けど、その皇子を助けた話はお爺様のお気に入りだった。いつだって会心の笑みを浮かべて、感服したって最後に付け加えるの」
「そうか……」
「皇族に黒髪黒目の皇子は二人。あなたとあなたの双子の弟。お爺様が助けたのはどっち?」
「残念ながら俺だな」
「そっか……レオナルト皇子なら感服したって言うのもわかるけど、よりにもよって出涸らし皇子と呼ばれるあなたのほうだったんだ」
シャルの言葉に悪意はない。
ただ心の内を語っているという感じだ。
「お爺様は……皇太子の死後、国を二分する戦いを起こさせないために自ら矢面に立ったわ。皇族はそれに対して何もしなかった。好都合と利用するだけ。だから私は皇族が嫌い」
「ああ、そうだな」
わかっている、理解しているなんて言葉は使えない。
理解できるわけがない。こちらは加害者なのだから。
想像はできる。しかし、理解とは程遠い。
痛みは殴られた者とその傍にいた者にしかわからない。殴った側にわかる痛みなどないのだ。
「でも……そのお爺様の切なる願いを裏切ったゴードンはもっと許せない。このままじゃゴードンが勝ってしまうかもしれない。ローエンシュタイン公爵家はそれでいいかもしれない。けど、ツヴァイク侯爵家は違うわ。その未来だけは断じて許さない」
シャルは強い決意の満ちた声でそう告げた。
そして柵から降りて、俺の前に立った。
虹彩異色の目が俺を射抜く。
「ローエンシュタイン公爵を説得する勝算は?」
「半々だな。どこまで公爵が自分の家と北部のことを考えているか、それ次第だ」
「悪い勝率じゃないわね。いいわ。ツヴァイク侯爵家はあなたに乗ってあげる」
「……皇族は嫌いだろ?」
「嫌いよ。けど、お爺様は言っていたわ。肩書きは所詮、肩書きだと。あなたの皇族という肩書きよりも、私は私の目を信じるわ。あなたは私の疑念に誠意を見せたし、あなたが良い人だと私は知っている。正直、皇族である以上、絶対に誤魔化すと思ってたわ。そしたら雷を食らわせてやろうって思ってたんだけど……あなたは私の想像通りには動かなかった。だから信じるわ。肩書きへの先入観よりも、私自身のあなたへの印象と評価を」
そう言ってシャルは俺の目の前で膝を折った。
「北部四十七家門が一つ、ツヴァイク侯爵家は殿下のお力となりましょう。祖父より授かった知識と私の雷はこれより殿下のために」
「……助かる。望みは?」
「……戦後で構わないから私にツヴァイク侯爵家を継がせて。私が名乗る姓はツヴァイク以外にありえないわ」
「わかった。お安い御用だ」
ツヴァイク侯爵家に跡取りはいない。
存続させようと思えば養子という話になるだろうが、そんなことをするぐらいならシャルを跡取りにしたほうがいい。
問題はローエンシュタイン公爵だが、そこも含めて説得するとしよう。
「ローエンシュタイン公爵の皇族への恨みは根深いわよ?」
「知ってるよ。だから俺が来た。虐げられた思い出合戦なら俺も負けないからな」
そう言って俺はニヤリと笑って見せたのだった。