第三百二十六話 ツヴァイク侯爵
ツヴァイク侯爵領は北部の中心近くにある。
東側をゴードンが抑えたため、現在は戦線に近い領地となってしまっていた。
そのツヴァイク侯爵領の領都・デュース。
そこに俺たちは向かっていた。
「ツヴァイク侯と言えば親皇族派筆頭のご老人ですが、若様と何かご縁があるのですか?」
デュースの街が近づいた頃。
ラースが俺に訊ねてきた。
俺はどう答えるべきか迷った。
そもそも質問が間違っているからだ。
「そもそも……ツヴァイク侯爵は親皇族じゃない」
「はい?」
「ツヴァイク侯爵は皇太子の死後も欠かさず帝都での式典や祭事に顔を出した。北部貴族の代表としてな。そのことで親皇族として見られているが、実際は違う」
「行動からは親皇族と思われますが?」
「行動は、な」
皇太子の死後、北部貴族への冷遇は始まった。
最初は態度が冷たかっただけだが、皇太子の死は自分たちのせいではないという気持ちがある北部貴族はそれが許せなかった。
このとき、北部貴族たちが帝都にいる者たちの気持ちを少し察していれば関係は冷え込まなかっただろう。或いは、帝都にいる者たちが感情をもう少し抑えられれば……。
しかし、両者の関係はどんどん冷え込んだ。
一人、また一人と北部貴族たちは中央から遠ざかっていき、遠ざかっていくから陰口は止まらず、北部貴族への当たりは強くなっていった。
そんな中でも中央との交流をやめなかったのがツヴァイク侯爵だ。
だが、それは断じて親皇族派だからではない。
「あの人が想っていたのは帝国だ。皇族と北部貴族の反目が続けば、やがて国が割れる。それを憂いてあの人はずっと北部貴族の代表として顔を出し続けた。怨嗟の声を浴びる的であり続けたんだ。どれほど不当な扱いを受けようと、あの人は声をあげなかった。それで皇太子を失った悲しみが薄れるならば、北部全体に矛先が向かないならば、それでよいと考えて」
好き好んで帝都に来ていたわけじゃない。嫌に決まっている。
それでもあの人は来た。
帝国は皇太子を失い、ぐらついた。その立て直しのために父上は藩国に侵攻するという一番簡単な方法を使えなかった。
感情のはけ口がなければ怒りはくすぶる。
北部貴族へ向けられていたのは皇太子を失ったという悲しみと、藩国への怒り。その代替として北部貴族は責められた。
理不尽だと思う気持ちはわかる。父上は知っていながら何もしなかった。北部貴族への冷遇をやめるようにいえば、別のはけ口を探す必要がある。
父上はそれを用意できなかった。自分もいっぱいいっぱいだったからだ。
そんな父上にとってツヴァイク侯爵は救い主も同然だった。
国のため、ツヴァイク侯爵は怨嗟の受け皿になった。
陰口では足りない。抱えた怒りが大きすぎて、発散させる何かが必要だった。だからツヴァイク侯爵が来ることには意味があった。
「あの人は忍耐し続けた。北部貴族への理不尽な怨嗟を一人で抱えたんだ。皇族が好きだから帝都に喜々として足を運んでいたわけじゃない。国のために心を削って帝都に来ていた。反論すら許されず、ただ怨嗟の声を浴びたんだ。すべて……国のため、民のためだ」
本来、それは皇族がすべきことだ。
皇太子を失ったならば、それに代わる旗印を掲げ、国を上手に治めるのが皇族の仕事。
それなのにできなかった。だから一人の老人にすべてを押し付けた。
「なるほど……若様が尊敬するのはそういう人物だからですか」
「まぁ、そんなところだ」
そう言って俺は会話を切った。
これ以上は人に話すことでもない。
俺の心にある大切な思い出だ。
幼い頃、まだ皇太子が健在だった頃。
俺はギードたちにいじめられていた。
それは常習化していたことで、厄介なのはギードだけじゃなくてその取り巻きたちも参加していた事だ。
子供の頃から俺は知っていた。皇族としての身分を使えば、他者を傷つけると。
だから使わなかった。使えなかった。
怖かったからだ。
いじめられた。
その一言を父上に告げれば、彼らはいったいどれほどの罰を受けるのか。
考えれば考えるほど言い出せなかった。そのうち常習化し、彼らの罪は重くなっていく。そうなるとますます言い出せなかった。
臆病だった。そして愚かだった。
すぐに言い出さないから事が大きくなる。
ギードだけなら言い出せたかもしれない。ギードは大貴族の息子だ。叱責だけで済むだろう。しかし、ほかの取り巻きは?
ホルツヴァート公爵家との関係で、嫌々ながらもギードと一緒にいた貴族の子供もいた。彼らはギードの命令を断れなかった。
きっと言い出せば彼らの家は取り潰される。
巻き込んだのはギードだ。しかしすぐに言い出さず、ギードのストレス発散の座に収まり続けたのは俺だ。
こうしてどんどん貴族の子供が巻き込まれていった。やがて出涸らし皇子と揶揄され、嘲笑の対象となった。
そうなるともう言い出せなかった。
父上の性格はよく知っていた。俺から言い出さなければ何もしない。だから何も言わなかった。俺が耐えればそれでいいんだと思った。
そのうち、それにも慣れた。
そんなころにツヴァイク侯爵と出会った。
ギードたちを一喝し、侯爵は俺を助けてくれた。
あの時、俺は迷惑そうな顔をしていたはずだ。多くの貴族は助けに入らない。自己主張のない皇子よりも、ホルツヴァート家の長男のほうが怖いからだ。
それでも助けに入る貴族がいなかったわけじゃない。最初のほうはいた。彼らをかばうのは一苦労だったから、正直迷惑だと思った。
だけど、ツヴァイク侯爵は善意だけで助けたわけじゃなかった。
今でもあの時の言葉は忘れない。
「お初にお目にかかります。帝国北部貴族、ツヴァイク侯爵と申します。殿下は――ご立派ですな。その行いに、このツヴァイク、心底感服いたしました。お見事です」
慰められたことはあった。
叱咤されたこともあった。
だが、褒められたのは初めてだった。
俺がただ黙っている理由をツヴァイク侯爵は察してくれた。
「殿下はお優しく、強くあられる。私もあなたのようでありたいものです」
そう言ってツヴァイク侯爵は去っていた。
それを伝えるためにギードたちを一喝し、俺に臣下の礼を取った。
きっとあれがあったから、自分は間違っていないと思えた。
状況を改善するのは簡単だった。しかし、そうすると多くの血が流れただろう。
ラウレンツがいい例だ。どれだけ上手く収めようとしても誰かは死ぬ。騒動とはそういうものだ。
状況に介入できない子供の頃に父上へ泣きついていたら、望まぬ結果を招いていただろう。
だから感謝している。尊敬している。
いつか恩を返したいと思っていた。
この三年間。俺はツヴァイク侯爵に何もできなかった。ツヴァイク侯爵も助けを求めてはいなかった。
俺にできることはシルバーとして帝国の問題を取り除くことだけだった。だが、今は違う。
こうして皇子として動き始めた。
この機会に北部貴族と皇族の関係を変える。それができなければ勝ちはないのだから。
共にそれを行えるならどんなにいいだろうか。
少しは成長したのだと見せることができる。
あの時、膝をついたのが間違いではないと侯爵に思われたかった。
「若様、もうすぐデュースが見えます」
「そうか。では手筈通りに頼むぞ?」
道中、詳しい設定は練りこんだ。
ネルベ・リッターがボロを出さなければ俺の正体には気づかれないだろう。
北部貴族は中央と関わりをほとんど持たない。
つまり皇族の顔なんてほとんどわからないということだ。
特徴はわかるだろうが、黒髪黒目だけじゃ俺だと気づくには薄い。ましてや俺は帝都で寝ているはずだ。
正体に気づく奴はきっと奇特な人間だろう。
そんなことを思っているとデュースの街が見えてきた。
だが、そこでは。
「若様! 煙が上がっています! 何か起きているようです!」
「見ればわかる! 続け!」
俺は乗っていた馬の腹を蹴って走り出す。
その後をネルベ・リッターも追ってくるのだった。