第三百十二話 ゴードンの妻
帝国北部の東側。
ゴードンの拠点として使われている中規模都市・ヴィスマール。
この地を治めていた領主は、帝都の反乱に失敗して北部の東に拠点を築きに来たゴードンたちを複数の領主と共に迎撃したものの蹴散らされ、現在はゴードンがこの一帯の主となっていた。
そのヴィスマールで一番大きな館。そこに連合王国の竜王子、ウィリアムがいた。
「失礼します。調子はいかがか? ビアンカ殿」
「これはウィリアム王子。調子はいいですよ。あの子も」
そう言ってビアンカと呼ばれた金髪の女性は視線をベッドに移す。
そこには侍女に抱かれて眠る赤子がいた。赤い髪の女の子だ。
すやすやと眠る姿を見て、ウィリアムは優し気に微笑んだ。
「あなたに似て穏やかなようだ。女の子なのにあいつに似たらどうしようかと思っていました」
「ふふふ、まだまだわかりませんよ。赤子は一日で色々と変わりますから」
そう言ってビアンカは笑う。
その笑みは母になって間もないにもかかわらず、母性を感じるものだった。
女性も出産で変わるのだと感心しながら、ウィリアムは寝ている赤子に近づこうとするが、それを嫌がるようにして赤子はぐずり始めた。
「おっと……嫌われてしまったか……」
「この子は鎧の音が嫌いなようです。あの人でも鎧を着て近づけば泣きだしますから」
「なるほど。良い耳を持っている」
そう言いながらウィリアムはそっと距離を取って、ビアンカに目配せる。
話があるのだと察して、ビアンカは席を立ってウィリアムと共に部屋を出た。
隣の別室。
そこでウィリアムは用件を語り始めた。
「お願いされていた連合王国への移動ですが、もうじき許可が出そうです」
「本当ですか? ありがとうございます」
「いえ、ここもいつ戦場になるかわかりません。あなたの考えはよくわかります」
「……あの人は反対しているのですが……私はここには子供を置いておけません」
「ふっ……どうせ総大将の妻が逃げるなど士気にかかわるとでも言ったのでしょう?」
「よくお分かりですね」
「友ですから」
その言葉にビアンカは心からの安堵を覚えた。
ビアンカの夫、ゴードンには信頼できる者が少ない。いまだに友と呼んでくれるウィリアムがいれば、何が起きても大丈夫だと思えた。
「どうか……夫をよろしくお願いします。帝都での敗戦以来、また精神的に不安定になったような気がします」
「それだけショックだったのでしょう。ご安心を。私と連合王国がついています」
「……いずれこの御恩は必ずお返しします」
ビアンカは深々と頭を下げた。
しかし、その内心は複雑だった。
ビアンカがゴードンに嫁いだのは五年も前のことだった。
元々、ビアンカは連合王国の貴族の娘だった。ある日、連合王国の城で歩いているとウィリアムと知らない男性に出会った。
その時は王子と一緒にいる以上は身分の高い人なのだろうとしか思わなかった。
偶然の出会いから数日後、その男性が家にやってきた。
そして唐突に父親に向かって、お嬢さんを妻に娶りたいと言い放った。
どこの馬の骨とも知らん男に娘はやらんとビアンカの父は激怒し、その男性を追い出した。しかし、男性はめげずに何度も家にやってきた。
一目惚れだった。妻にするなら彼女しかいない。
あらんかぎりの言葉で男性はビアンカへの愛を説いた。
愚直なまでの男性の姿勢に父親も態度を徐々に軟化させ、最後にはビアンカが良いなら嫁がせてもいいと許可を出した。
その許可が出て、初めてビアンカは男性の前に姿を現した。
前回会ったときは挨拶だけ。初めての会話が求婚とは変な話だとビアンカは呆れていたが、その男性は真っすぐビアンカを見つめたあとに自己紹介をした。
俺の名は帝国第三皇子ゴードン・レークス・アードラー。あなたに惚れた、妻になってほしいと。
そのあんまりな言葉に思わず笑いがこみ上げそうになり、まさか帝国の第三皇子だったとはと驚愕する父の顔を見て、ビアンカは思わず吹き出してしまった。
そしてすぐに喜んでと返事をした。
帝国の皇子という肩書を使えば、すぐにビアンカに会えたにもかかわらず使わなかった誠実さ。帝国皇子という立場を明かし、帝国に来ることになるという事実を知らせる配慮。そして真っすぐな言葉に惹かれた。
それからビアンカは帝国へと渡り、ゴードンの妻として過ごした。
帝国の皇子、皇女は多かったが結婚していたのは、皇太子と第二皇子のみ。しかも子はなかった。
ビアンカにかかる期待は大きかったが、ビアンカもなかなか子には恵まれなかった。
だが、ようやく第一子を授かった。
妊娠が発覚したときビアンカは幸せの絶頂だった。ゴードンが南部での一件で北部国境に左遷されたときも、その幸せは薄れることはなかった。
周りの反対を押し切ってゴードンについていった。産むときはゴードンの傍でと決めていたからだ。
そして子供は生まれた。
しかし、状況は妊娠が発覚したときとはだいぶ違っていた。
ゴードンは北部の制圧にやっきになっており、ビアンカの傍にはおらず、初孫を楽しみにしていた皇帝とは敵対関係にあった。
どうしてこうなったのか。第三皇子として帝位争いに参加し始めてから、ゴードンはおかしくなっていった。
少なくともビアンカが夫とした男は国に反旗を翻す男ではなかった。
精神的に不安定になったゴードンを増長させたのは連合王国だった。親友であるウィリアムと連合王国の貴族の娘であるビアンカ。
ゴードンは連合王国とはかかわり深く、早くから連合王国はゴードンの支援を決めていた。あまりにも勝算がなければいくらゴードンでも反乱は起こさない。
だが連合王国が勝算を示してしまった。
だからビアンカの内心は複雑だった。
「恩など感じる必要はありません。むしろ恩を感じているのは私のほうだ」
「ウィリアム王子が恩を? 一体、私が何をしましたか?」
「本当のところ、私は父の命令でも国を動かないつもりだった。ゴードンの計画はあまりに勝算が薄いと感じたからだ。だが、あなたが説得の手紙を書いてくれた」
「夫に書けと言われたからです」
「それでもきっかけになった。今の状況は本当にひどくて、後悔しかないが……あの手紙のおかげで私はここにいる。あのまま動かずにいたら、私は友を見捨てた負い目をずっと感じていただろう。それに比べればどんな状況でもマシだ」
「……だから私の頼みを聞いてくれたのですか?」
ビアンカが無事に出産したことは一部の者しか知らない。
ゴードンは我が子が生まれたことを大々的に喧伝しようとしたが、ビアンカがそれを拒み、ウィリアムがビアンカの頼みを聞き入れてゴードンを説得した。
男児ならまだしも女児ではそこまで士気は上がらない。孫がいると知れば皇帝の性格的に奪おうとして戦力を集中させてくる。
状況が好転するまでは伏せておくべきだと。
そしてその間にウィリアムはビアンカと子供を連合王国に移すために、本国と頻繁に連絡を取っていた。
渋る父を何とか手紙で説得し、その手はずを整えたのは昨日のことだった。
その知らせを届けるために、ウィリアムはわざわざ前線からここまで戻ってきたのだ。
「頼みを聞いたのはあなたの言い分のほうが一理あると思ったからです。お気になさらず」
そう言ってウィリアムは一礼してその場を去ったのだった。
ウィリアムが担当しているのは第八皇子レオナルトが立て籠もる城の包囲。
地上は包囲し、空は竜騎士が監視している。盤石の布陣といえたが、ウィリアムの心から不安は消えない。
レオナルトには帝都でしてやられた。
ゆえに最大級の警戒をしていた。だが、不安の原因はそこではなかった。
「いつ出てくる……? アルノルト」
帝都でずっと眠っているという第七皇子アルノルト。
それをウィリアムは鵜呑みにしてはいなかった。
そう思わせて戦場に現れるのではという懸念を常に抱いていたのだ。
「今度は好きにはさせん。合流はさせんぞ。双黒の皇子」
二人を合流させたこと。
それが帝都での最大の敗因だったとウィリアムは判断していた。
あの二人は個人でも危険だが、合流させたらその危険度は跳ね上がる。
今回は絶対に合流させない。
そう決意を新たにしながらウィリアムは愛竜と共に空へ上がったのだった。