第二百三十話 愚か者
武闘大会が始まってから一時間ほど。
オリヒメは闘技場の客の様子が変なことに気づいた。
「む?」
ちらほらと調子が悪そうな顔の者が増えてきたのだ。
目に映るのは一人、二人ではない。
どんどん顔色が悪い者が増えていく現状にオリヒメは眉をひそめた。
「皇帝陛下」
「どうかしたか? 仙姫殿?」
「なにか変だと感じぬか?」
「ほう? 奇遇だな。仙姫殿も違和感を覚えていたか」
あくまで違和感。
単純に日中の開催のため、体調を崩した者が少し多いだけ。
そう取ることもできる程度の違和感。
それでもオリヒメもヨハネスもその違和感が目についた。
「来賓の面々をこちらに連れてくるがよい。なにかあれば妾の結界で保護しよう」
「ありがたいですな。フランツ、構わんか?」
「問題ありません。すぐに手配します」
「呼びつけるだけでは無礼であろう。皇后よ。来賓を招いてきてくれ」
「かしこまりました」
そう言ってフランツとブリュンヒルトが部屋を出ていく。
宰相に許可を求めたヨハネスを見て、オリヒメは怪訝な表情を浮かべた。
皇帝が宰相に許可を求めるというのは構図としておかしいからだ。
「なぜ宰相の許可を取るのだ?」
「宰相の計画に差し支えがあってはいかないのでな。今回、ワシは大部分を宰相に任せてある」
「……だから反乱にも動かぬと?」
オリヒメの言葉にヨハネスは微かに目を見開き、そして苦笑した。
「その噂の出どころはアルノルトか」
「噂ではない。妾にはわかる。この都には嫌な臭いが常に流れている。必ず何かが起こるぞ?」
「確証はない」
「確証がなければ動かぬのか? 妾はもう少し皇帝陛下を買っていたのだが、思い違いだったか?」
オリヒメの言葉にヨハネスは小さくため息を吐く。
そして真っすぐオリヒメに視線を向けた。
「どう思ってもらおうと構わん。ワシは確証もなく息子の反乱を疑ったりはせん。ワシの息子は帝国に多大な不利益を与えるほど愚かではない」
「親子の情で民が死ぬぞ?」
「情ではない。確証がないのが問題なのだ。間違っていた場合はどうする? 帝位争いの最中に皇帝が有力候補の一人を確証もなく捕まえたら帝位争いが無に帰す。軍部の多くを掌握するゴードンのことだ。自らの疑惑を晴らすために断固たる行動をとるだろう。そうすれば結局は内乱となる」
動けば間違いなく内乱。それがヨハネスの立場だった。
ゴードンが反乱を企てていたかどうかは重要ではない。
ゴードンを処断すれば、ゴードンの配下の者は納得しない。ゴードン抜きでも行動を起こすか、もしくは遺恨をずっと持ち続けるだろう。
次期皇帝を決めるための帝位争い。そこに皇帝が強権を持って介入するということは、各方面から反感を買う行為なのだ。
殺して終わりというほど事は単純ではない。
「ではどうする気だ?」
「何もしない。ワシはな」
それがヨハネスの答えだった。
皇帝が動けないならば臣下が動けばいいだけのこと。
だからヨハネスは宰相にすべてを任せた。
「宰相とはいえできることは限られているはず。皇帝が介入しづらいのだ。宰相とて表立っては介入できない。できることは備えることのみ」
「そのとおり。我々にできることは備えることだけ。その備えをすべて食い破り、帝国を手中に置くならばそれはそれでよい。それもまた一つの手だ」
これまでも武力に任せて帝位争いを制そうとした者は少ないながらもいた。
だが、どれも成功したりはしなかった。
軍を率いて何かするには皇帝の許可がいる。皇帝の許可なく、勝手な行動をとるということは反乱であり、他の候補者はもちろん皇帝も敵に回すことになる。
だから帝位争いは勢力争いの暗闘に終始する。
皇帝を正面から敵に回すことは愚かだと帝位候補者ならば知っているからだ。
「反乱で勝ち取ることも一つの勝ち方だと?」
「強い皇帝を生むことが帝位争いの本質だ。結果的に強い皇帝が生まれるならば過程は無視できる」
そう言ってヨハネスは椅子に深く腰をかけなおした。
その顔はひどく老け込んだようにオリヒメには見えた。
言葉でそうは言っても、本音は違うのだろうとオリヒメは察した。
「……我が長子が生きていればこのようなことで思い悩むこともなかったのだがな」
「亡き皇太子のことか。帝位争いをさせなかったと聞くが? なぜ長子にはそうしたのだ?」
「誰もが認めていた。帝位争いなど起こしても皇太子が勝ちぬくことは目に見えており、誰も張り合おうとはしなかった。理想の皇帝が見れると誰もが期待した。長き帝位争いの歴史を終わらせる皇太子。そうなるはずだった……」
すべての人間が納得するならば争う必要がない。
最初から強い皇帝になるとわかっているならば競う必要はない。
だからこそ、皇太子は初めて帝位争いを経ずに帝位につく皇帝になるはずだった。
一つの終着点。
その治世において多くの偉業を成し遂げると信じて疑わなかった。
帝位争いに代わる選帝方法も考えつくだろうとヨハネスは思っていた。
「最高の後継者はすでにいない。ゆえに帝位争いが起きた。ワシはそれを黙認した。皇太子以外の者ならば帝位争いは必要だと思ったからだ。しかし、ときどき考えるのだ。それは正しい判断だったのかと」
「弱気だな。帝国の皇帝ともあろうものが」
「弱気にもなる。ワシは自分の子供たちに期待しておった。帝位争いでより成長し、この者なら安心して譲れると思える者が出てくると。しかし……帝位争いが始まってからあやつらは成長しているようには思えぬ。むしろ愚かになっているようにも思える。それでも帝国自体を揺るがすような愚か者はいないと、ワシは信じたい」
それは願望のようなものだった。
だが、その願望は叶わない。
皇后と宰相が来賓と共に部屋に入ったとき。
オリヒメは巨大な魔力を感じた。
それは闘技場の下から発せられていた。
「これは!?」
「呪詛だ」
オリヒメは部屋全体に結界を張りつつ、すぐに闘技場の下から発せられたモノの正体を見極めた。
巨大な呪詛結界。
それが闘技場の下に敷かれており、闘技場に呪詛を振りまいていた。
目についた調子の悪そうな者たちはその発動前に余波で体調を崩していたのだ。
闘技場内で大勢がせき込み始めた。
それは一般の民はもちろん、武闘大会の出場者や兵士、騎士も同様だった。
即死するような呪詛ではない。しかし、戦えるようなレベルの呪詛でもなかった。
「この規模でこのようなものを発動させるとはな……前から仕込んでおったな?」
独り言を呟きつつ、オリヒメはヨハネスに視線を向けた。
「弱体化の呪詛とでもいうべきか。それがこの闘技場全体にかけられた。妾の結界内ならば安全だが、これではまともに戦えん」
「そのようだな」
そう言ってヨハネスは宰相のほうを見た。
闘技場に掛けられた呪詛ならば外に出ればいいだけだが、このようなことを計画する者がそう簡単に外へ出してくれるわけもない。
「なるほど。魔奥公団の者が地下で何をしていたのかと思っていましたが、この準備だったようですね」
「いまさら合点がいっても遅い。ちゃんと対策はあるのだろうな?」
「もちろんでございます。ただし、先に謝っておきます。完全なる越権行為です。お許しください」
頭を下げる宰相に嫌な予感を覚えつつ、ヨハネスは何度か頷く。
すべてを任せた以上、どのような手を打ったとしても文句は言うまいと決めていたからだ。
そしてオリヒメたちは宰相の提案で外へと向かう。
だが。
「お待ちしておりました。父上」
出口では完全装備のゴードンが待ち構えていた。
その周囲には同じく完全装備の兵士たち。
兵士たちはぐるりと闘技場を囲っている。
それを見て、オリヒメは小さくつぶやく。
「愚か者であったな」
「そのようだ。我が息子ながら嘆かわしいかぎりだ」
「あなたが悪いのだ。父上。俺をすぐに皇太子にしていればいいものを」
「それだけの器量を見せられなかったお前が悪いと返しておこう。ゴードン」
そう言ってヨハネスはゆっくりと腰の剣を抜いた。
「愚かな息子よ。せめてもの情けだ。ここでワシに首を差し出せ。そうすれば皇子として葬ってやろう」
「父上も耄碌したようだ。この状況がわからないのか? 俺に協力した将軍は大勢いる! その手勢も今や俺の配下だ! 圧倒的な戦力差があるんだ! あなたに勝ち目はない!!」
そう言ってゴードンは剣を引き抜くと高く掲げたのだった。